2018年03月21日

霊的体験に伴う危険性 悪霊との対決 エクソシスト入門を読み返して

霊的体験に伴う危険性 悪霊との対決 エクソシスト入門を読み返して

聖書や仏典を読んでみますと、現代の常識や価値観からみて、とても信じられないような内容が書かれています。
ヘーゲルは「言葉をそこに書いてあるがままに受け取り、言葉や文字を聖書の文字のままに理解するのではなく、その精神を理解しなければならない」と言われています。
観念論哲学最高峰のヘーゲルは、聖書に書かれている霊的現象を否定していない立場をとっていると私は考えます。
精神を理解するとは大事な観点であると思います。
ヘーゲルがいう精神の意味には、神や霊に近いニュアンスをもっています。
絶対精神とは、すべてを創造するキリスト教の神のイメージと重なります。
イエス様が天なる父と呼んだ神とは誰か。
それは旧約聖書に登場するエローヒム、主エル・カンターレを意味しています。
ですから、絶対精神とはすべてをあらしめている造物主の哲学的表現なのだと思います。


仏教には無我という教えがありますが、文字通りに受け取ると、我が無いと書いてありますので、「死んだら終り」という単純な結論になってしまいます。

仏典を全体的に読めば、梵天や悪魔等、霊的な存在が書かれていますし、過去七仏といわれるように前世について、あるいは来世についても書かれていますので、総合的に判断すれば死んだら終りだという結論にはならないはずです。

ではなぜ、地上の人間には霊的なものが理解できないのでしょうか。
理由の一つは、人間に付随する感覚器官では霊的存在を捉えることができない、感覚器官の機能の限界が原因です。感覚器官は霊に対して閉ざされています。
しかし、そのような理由は霊存在を否定する根拠にはなりません。

ルドルフ・シュタイナーは著書『神智学』で以下のように述べています。
「魂界や霊界は物質界の隣にあるのでも、その外にあるのでもない。それらは空間的に物質界から区別されているのではない。手術で眼が見えるようになった人に、これまでの闇の世界が光と色に輝くように、魂と霊とに目覚めた人に、以前はただの物体として現れていた事物が、その魂的、霊的特性を明らかにするのである。魂的、霊的に目覚めていない人にはまったく知られていない様相や存在でこの世界は満たされている。」

また、プラトンの著書『国家』には洞窟の例え話があります。
「生まれた時から洞窟で生活して、体は身動きがとれずに鎖で縛られ、顔は正面にある壁しか見ることができないようにされています。
後方から光がさしてくるのですが、壁に映るのは事物の影であり、洞窟で生活している人は、その影をみて自己を認識し世界を認識しています。
ある時、この洞窟の住人が鎖から解放され、洞窟の外に連れていかれるのですが、外の世界は光り輝く世界であり、色彩豊かで広大な世界が広がっていました。
それを見た洞窟の住人はこのように述べます。
『真実の世界とは色彩豊かで光り輝く美しい世界です。今我々が見ているのは真実の世界(理念)からの投影であり、影にしかすぎません。』
洞窟の仲間に説明しても、だれもまともに話を聞いてくれませんでした。」

シュタイナー、プラトンは霊的世界を知悉していました。
肉体とは魂の洞窟で、私達は理念の影以外に見ることができません。
洞窟のように閉ざされた肉体に閉じ込められた魂は、理念界から漏れてくる光の一部しか感じ取ることができないのです。

つまり、人間の五感といわれる感覚器官が霊的なものに対応されていない閉ざされた状態なので、霊を認識することができないのです。
霊的事物に対応することができる器官が人間に付随していれば、まったく違った世界が展開しているはずです。
肉体はあえてそのように創られているので、そこに魂の進化を促す修業としての課題があるのでしょう。


霊現象がわが身に及ぶのであれば、理性を最大限に発揮して霊性とのバランスをとらなければいけません。
智慧や合理的精神が心を安定させ、自身の霊性を守ってくれると思います。
そして、信仰心で主とつがっていることで他力の救いがあると思います。


霊的現象がわが身に及ぶとは、万に一つのことかもしれません。
万に一つのことではあっても、霊現象が起きることがあります。
霊の声が聞こえる、姿が見える、近くに気配を感じるなど様々ですが、霊の道が開かれると避けて通ることができない問題に遭遇します。
それが悪霊、悪魔の惑わしです。

霊的現象は神秘的で魅力的です。
しかし反面、悪意ある霊からの攻撃に対して無防備であるともいえます。
霊的感覚が閉じているときはある意味で鈍感ですから、さして霊的な影響を受けることもなかったかもしれませんが、開いてしまったら直接的な影響を受けることになります。

天上界からの光の感覚なのか、悪魔の惑わしであり幻惑なのか自分自身で判断しなければなりません。
うぬぼれの心があれば勝つことはできないでしょう。
霊的な体験は主観的ですから、客観的に検証することは難しい問題を含んでいます。

カント的に言うなら、経験できないことは経験認識に対応する理性認識で判断できないということです。

地獄界と地上界は近い距離にあり、相互に影響を与えながら闇の領域を拡大しているといえます。
しかし悪魔には自分の意志で未来をきりひらくことはできません。
悪魔ができることは、地上に起きた混乱や事件に便乗して増幅させるだけです。
ですから人間には地上を天上界にすることができるのです。
そのためには、私達は主の存在を信じ、霊を受け入れなければなりません。


仏教的には神秘性と合理性、これら矛盾対立する二つのベクトルを融合しながら、あるいは、弁証法的に統合しながら両極端を否定した、中道的観点から自分自身の思考や行動をチャックしなければいけないと思います。
もし、霊的現象があったならば、それ以上に知性を磨き、理性的な判断力を鍛えて、霊的現象を静かに受け止めるだけの精神的安定感を持たなければ、その霊的な経験が自分にとっても、周りにとってもマイナスとして働いてしまうことでしょう。

神秘性の部分、霊的現象のみをありがたいと思っていると、いろんなもの振り回されて人生を送ることになると思います。
初めは天上界からのインスピレーションであったとしても、慢心した心があれば、そのインスピレーションも入れ替わる可能性が常にあり、入れ替わったインスピレーションの内容を正しく判断できるだけの知性や理性があるのかという問題も出てくると思います。



ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 12:54 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

自力と他力 霊現象と影響力について

自力と他力 霊現象と影響力について


釈尊在世当時に遡ってみる「仏教の全体構造」について

仏教では、自力門と他力門という、大きく分類すると二つの法門があります。
釈尊在世時代の教えの中心は、自力門であることはほぼ間違いありません。
修行は各人が、自分でするものだというのは、釈迦の基本的な考え方です。

仏陀は苦行をやめて、中道に入りました。中道に入ったことによって仏教はジャイナ教と分かれ、世界宗教になります。
苦行を捨てて得ようとした悟りとは、人間が正しく生きるための智慧でした。
実在界に還った時に困らないような生き方をするにはどうしたらよいかという、その智慧を得ることが実は修行の目的であったと考えます。
智慧の元にあるものが「教」、教えです。教えを学ぶことによって、それを体得した人は智慧を得たことになります。
智慧を得ることによって、自らを照らすことができます。さらに、その智慧を他の人に分け与えることによって、他の人もその光を得ることができるようになります。


他力門の根拠について考えてみます。

易行道、念仏系統は、仏教の元の本筋からみると、教えと行動パターンには、かなりの異端性があると見てよいでしょう。
釈迦が、本当に『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と称えたら救われると教えたかどうかというふうに考えてみたら、これは教えていないと見ていいでしょう。

ただし、アングリマーラのような人でも救いの対象になるのなら、ほとんどの人が救いの対象になるのではないかという教えの広さがここにあると思います。
その意味で他力門にも根拠がないわけではないと考えることも可能です。

釈迦が入滅する時の話でも、来迎のときに天上界の諸神霊が迎えに来ることは思想的にも言っています。そういうことを救いとして、他力門が出てきた背景にはあると思いますが、釈迦の教えの主力ではなかったことは間違いないのです。

自力門の検討 禅の悟りの問題点ついての考察

只管打坐の問題点について
釈迦は、単に坐っていただけではないのです。四諦・八正道、十二因縁、縁起の理法などを坐って「考えて」いたのです。
「ただ坐れ」という、只管打坐でなかったことは間違いなく、禅には中身があったのです。
中身が大事なのです。
ブログで例えれば、自分のブログで中身は他人という自分では何も考えない人は、上記のただの正座にすぎません。
自分では「立ち上がりました」といっても周囲から見れば、「立ち上げてもらっています」としか見えず、私から見れば、すべてコピペなのによく言えるなという感じはします。
間違いなく仏教の修行から外れている行為です。(しかも、知っていてもやめない確信犯)

空の思想の問題点についての考察
大乗仏教では、「信」と「空」の二つの特徴があります。
道徳的な考えではなくて、「信仰をたてる」というのが大乗の一つのスタイルです。

もう一つが、「一切は空なり」という空の教えです。
結局、問題があるのは空というものを、現在ただいまで一切のものがないというだけの静止した状態でとらえると、単なるニヒリズム、虚無主義になってしまうということです。

釈迦の説いた諸行無常・諸法無我の教えには、時間の流れや空間的観点が入っていました。

それらを「空」という言葉で言い換えることによって、現在ただいま全部が幻でパッと消えるように聞こえてしまいます。
空のお教えの怖いところは、執着を断つところにも使えるのだけれども、修行を断つことにも使えるのです。プロセスというのを無視しては、この世の修行は成り立たないのです。


頓悟禅の悟りの問題点について

神秀は、この身体は悟りを得るための元であり、心は大事な鏡なので塵や埃がつかないように大切に手入れをしなければいけないというオーソドックスな詩を書いたのです。
一方、慧能の偈は、神秀のたとえを否定し「本来無一物」と言いました。
これは達磨の言った「廊然無聖」(がらんとして空)であり、先ほどの空の思想です。
「この世のものは夢幻。本来なにもないのに、どうして塵や埃がつくのだ。これを拭うのだの、払うのだの、努力しようなどとは、ばかなことを言うな」と言って論破したのでした。

慧能の偈は、神秀を批判しているようで、実は釈迦の教えや修行を全部吹っ飛ばして要らなくしています。
「本来無一物」は無執着の教えとしては良いのですが、人間が諸欲のなかを生きており、様々な煩悩が出てくるので、(釈迦は)煩悩を片付ける修法をいっぱい教えています。
一方、神秀は、「釈迦が八正道を説いたように、心の曇りはある、だからそういう執着を取れ」という、オーソドックスな教えを説いており、こちらのほうが、釈迦の教えに近いのです。

全人類を導く真の悟りとは
それぞれの人は頓悟禅ができます。それは月刊誌に載っている体験談のとおりであり、何かの言葉で悟りを開くことがあるのです。
「その人にとっては、それが救いの悟りである。その人にとっては目が開ける。目の鱗が落ちる。悩みの正体がわかった。」これが、禅の本筋なのです。

しかし自分がそういう悟りを得たからといって、その悟りが全部の人に通じるというわけではなく、普遍的でそれだけしかないわけではないのです。

いろんな人の悩みを解決するために、教えがたくさんあるのです。そのために教えがあって、教学があって、それで伝道し、布教しているのです。こういう全体の枠組みがあると思います。


伝道に霊的現象は必要かどうかについて

自分自身の経験から考察してみます。
初めに感じることは、自分自身が発している人格の香りというかオーラが、どのようなものか、あるいは自分から発している思いの波動がどのようなものか、ということが結構大事でないかと思います。
なぜかと言えば、相手が幸福の科学の教えがどのようなものかをしる手かがりは、伝道者すなわち自分を通して知ることになるからであり、言葉の内容以前に自分の人徳を感じ取られるからです。

その人が本当に自分を信用してくれなければ、心を開かず、まして相手は、自分自身の本音を話そうとはしないでしょう。
ですから最初の時点で、信用されなければその後にいくら良い話を組み立てても、相手の心に入っていかないと思います。

『信仰と情熱』という著書にプロの伝道者の条件として、正しく精進している人の特徴として以下の内容が書かれています。
「そうした人の特徴は、会った瞬間に、柔らかい温かい感じがするのです。己れ自身の自覚のもとに厳しい修行を為していることとは別に、他の人に対しては、柔らかい優しい光が出ていることが特徴です。」

今までの人生で、他の人(子供でもかまいません)が自分に対して、「優しいね」、「優しい感じがするね」と言われたことがないなら、霊的な話をする前に、自分自身の精進の仕方に何か不純なものが混じっていないか考えてみてもいいかもしれません。
(自分自身に対しての戒めとして)

真理知識を勉強し理解を深め、実践を通して自分のものにしていく過程で、自分の人格が人に対して優しいかどうかは、重要なチェックポイントだと自分では思います。

しかし、人間の本質は霊的存在なので、霊現象を通して、霊的世界を直接感じてもらうことは、伝道していくうえで大事であるとは思います。

(幸福の科学ができた最初のころは、自分が誰それの生まれ変わりとか、自分で自己評価して他の人に吹聴している人を見かけましたが、教学の部分の詰めが甘いと思って当時は静かに見ていました。)


心の中で思っていることは、言葉に表現されるし、文書に書いた内容にも表れてくると思います。

ジェームズ・アレンは以下のような内容を書いています。
「心の中に蒔かれた(あるいは、そこに落下して根づくことを許された)思いという種のすべてが、それ自身と同種のものを生み出します。それは遅かれ早かれ、行いとして花開き、やがては環境という実を結ぶことになります。良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます。外側である環境は、心という内側の世界に合わせて形づくられます。」

出発点は、やはり自分の心を整えることかと思います。






ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 01:30 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする