2017年03月12日

キリスト教に流れる仏教精神

キリスト教に流れる仏教精神

幸福の科学の教え以外にも、神智学・人智学から、仏教の教え及び、仏教とキリスト教の関係を霊的観点から考察しています。

イエス様を霊天上界から指導した存在、西洋文明を霊的に指導している存在、それが仏陀であると喝破しています。
霊天上界に存在するアーカーシャを読み取っているようです。

ドイツ観念論哲学などは、仏陀の指導による啓蒙運動だといえます。


仏陀は、慈悲と愛の教えを説かれ、愛の教えがキリスト教に流れています。
更に仏陀は、教団内において生まれによる身分の差別を廃止しています。
インドには、カースト制度による身分の違いがあり、人間としての価値が決められていました。
一番上の階層が婆羅門という祭司階級、僧侶階級です。
次に、クシャトリヤという武士階級、更に、奴隷階級のシュードラ、それ以下の階級さえありました。

率直に考えて、生まれによる身分によって人間の尊さや価値が決まるのだろうかと疑問に思うところです。なぜなら、努力する余地がないからです。
当時としてはカースト制度が何の疑問もなく当たり前の価値として受け入れられていました。

しかし、仏陀は生まれによる身分の違いによって、人間としての価値、尊さが決まるわけではない。
人間は、その心の在り方と行為によって、婆羅門となり、クシャトリヤとなり、シュードラとなるのであると喝破されました。
人間は自らがなした行為によって偉大なる智に値する者となるのであって、生まれによって偉大になるわけではないということです。

イエス様も、地上的に虐げられた人、身分が卑しいといわれる人に対して非常に優しく接しておられたといわれています。
ある意味で、地上的権威に抵抗していたと言えるかもしれませんが、人間の価値が地上的価値判断で決まるわけではなく、その行為によって人間の偉さが決まってくるということだと思います。

そして、仏教の慈悲とキリスト教の愛が地獄霊及び悪魔に勝つための武器ともなると思います。
仏教では「苦」を説きますが、人間は己自身の苦しみを通して相手の苦しみを理解することができます。
苦しみの世界を理解したとき人間は慈悲の心、他者に対しての愛の気持ちが芽生えてくるのでしょう。

人は、愛や慈悲の心にふれたとき、苦しみや悲しみから立ち上がることができます。

その様な優しい心に、地獄の悪魔達も勝つことはできないと自分は信じています。

また、キリスト教の教えには、転生輪廻の教えが明確に説かれていないという問題点を指摘する考え方もあると思います。

しかし、キリスト教にも努力を伴う修行があります。
「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
人間の自然発生的な感情から、自分の敵と思える人を愛することはできないでしょう。
自分の利害に関係なく、むしろ自分にとって害のあると思える人を愛することは、努力を伴う修行でありましょう。
人間の一生が、死んで終わりならば、なぜ、敵を愛せよといわれるのでしょうか。
唯物論的な考え方からでは、答えはだせません。

人間の命、魂は永遠不滅であり、神の子であるからこそ、敵と思える相手であっても、心から血が流れるまで愛しなさいと言われたのでしょう。

転生輪廻の思想が明確に説かれていなくても、永遠の生命であるということが、人間の生まれ変わりの証明であると自分は考えます。

仏教は八正道、八つの正しい道を説かれます。
人間は生まれたときに、可能性としては平等であっても、平等でないものがあります。
それは、前世においてつくりあげた魂の傾向性という、以前の存在段階で組み込まれたものです。

魂の傾向性の違いが、個性の違いとして顕現することはよいと思います。
しかし、間違った考え方、思いが固定化した状態で、すべてを正しく見ることはできません。


八正道は、いろいろな個性を持った魂が、仏や神の方向を見失わないための正しさの、「ものさし」なのでしょう。

キリスト教の愛の教え、仏教の智慧と慈悲が融合する可能性がある宗教、それがエルカンターレの法なのでしょう。


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2017年03月06日

人は感性的表現によって感動するもの

人は感性的表現によって感動するもの


総裁先生は以前、すぐれた「詩」は哲学や思想、文学より霊的に優れていると、おっしゃっていました。

それは、本質やエキスを凝縮して、内容を美しい言葉で表現し、人の感性に訴えかけ、感動を与えるからです。

天上界から降りてくる「詩」等は、頭で考えて理論整然と組み立てて理解していくという形式ではありません。
あくまでも霊的感覚で感じ取るものであると思えます。
感性的に神の世界を感じ取り、心が感動するのでしょう。

ヘーゲルは、神と人間の関係を以下のように述べていました。
『宗教は、人間と神は信仰を通して結び付けるが、哲学は論理で人間を神の位置にまで高める』
しかし、トマス・アクィナスは正しい信仰を持つためには、その宗教の教義が正しいのか間違っているのか、理性的判断能力が大切であるといわれていたと思います。
ですから、信仰を持つ前段階として、理性的な価値判断ができる必要があるということです。

これに対して人智学のシュタイナーは、ヘーゲルの哲学を絶賛してはいますが、あまりに抽象的・論理的で普通の人の理解力では到底、ヘーゲル哲学の真意を汲み取ることはできない、論理的すぎるので感情、感性にささらないので心が温かくなると言うことがない。と述べていたと思います。

本質的内容を短く美しい言葉で表現し、人の感情に訴えかけ感動を与えると言うことは素晴らしいことであると同時に、霊的にも優れていることと思います。

しかし、感性にかたよりすぎると、物事の善悪の判断があいまいになり、間違った決断をする可能性もあります。

魂の性質である、感性・知性・理性・悟性をバランスよく高めていくことが理想であると思いますが、少なくとも真理を知識として知っていれば、それほど間違った判断をすることもなく、中道を外れることはないとおもいます。



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posted by ガンちゃん at 01:25 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする