2018年01月03日

唯物論の広まる範囲が地獄領域の拡大につながる 宗教的教えと政治活動の両面作戦で国民の意識を変える以外にない

唯物論の広まる範囲が地獄領域の拡大につながる 宗教的教えと政治活動の両面作戦で国民の意識を変える以外にない

どうして幸福実現党の活動が支持されないのだろうかと考えていました。
もちろんマスコミが報道しない、その他多くの理由もあると思いますが、天上界の天照大神様からしたらおそらく理由にならないと一蹴されることでしょう。
天照大神様を怒らしたら、もう誰にも止められないと思います。

広まらない理由の一つは、幸福の科学の宗教的な教えが日本国中に広まっていないのが一つの原因であると思います。
日本人に信仰が立たないという理由もここにあると考えられます。
他国では、仏法を一回聞いただけで信者になり国中に教えが報道されるなど信仰心が確立した国がある一方、本家本元の日本には何十年も教えが説かれているにもかかわらず広がり方が遅いです。
もちろん伝道力がない私たちの責任が一番問題だと思いますが、それ以外の理由を考えてみますと、左翼の唯物史観(日教組の間違った教育も含む)が最大の原因であると思います。

神仏を否定し、すべてを物質とその作用、あるいは偶然に考えを持っていこうとします。
すべての第一原因を“神”にしたくないのでしょう。

ですから、世界の英雄や宗教的指導者、救世主という存在を信じたくないのでしょう。

唯物論は邪教より始末が悪いと言えます。
間違った宗教は一般常識がある人たちからみると、言動がおかしい、あるいは行動が不自然であると外部からチェックすることが可能なので、間違っていると判断ができます。

しかし、唯物論は現実的に人に危害を加える、あるいは狂った行動をとるというわけでもないので、外からでは判断がつかないわけです。
そして徐々に人間の精神を高貴なものから動物と同じレベルまでおとしめてしまいます。

動物に宗教的真理を伝えても、伝わらないでしょうおそらく。

ですから日本人の意識の変革が必要です。すべての日本人に宗教的真理を受け入れ神仏に対しての信仰心の大切さを知ってもらうことが、マスコミや左翼系ロボット人間に勝つための方法でもあると考えます。
左翼の人たちが人の命が尊い、戦争反対と言っている理由は自分が死にたくないという理由です。

更に神仏を否定する唯物論の教えは必然的に地獄領域を拡大し、悪魔の活動範囲を広げていることを意味しています。

地上においては、光と闇は相対的と言われていますから、光を広げる以外に方法はないと思います。
日本人のすべてとは言わないまでも、半分を超える人たちが真実に目覚めたならば日本は変わり、幸福実現党にも票が入るでしょう。

私たちは、実現党の政策を具体的に訴える(増税反対や防衛力の強化、憲法改正など)と並行して、宗教的真理も訴えていかなくてはなりません。



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posted by ガンちゃん at 01:36 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

私に影響を与えたプラトン『パイドン』と聖書の福音書 西洋文明の繁栄を支える精神的支柱

私に影響を与えたプラトン『パイドン』と聖書の福音書 西洋文明の繁栄を支える精神的支柱

プラトンの著書に『パイドン』という書物があります。人間の魂の不死性を述べています。
内容は、哲学というよりは宗教ではないかと勘違いしそうなぐらいに、霊的世界について会話形式で書かれています。
ギリシャで説かれたプラトン哲学は、キリスト教と共に西洋文明に影響を与えています。

最後は、嘆き悲しむ友人たちをたしなめながら、毒杯を仰ぐソクラテスの姿は、悲しくもあり、感動的でもあります。
イエスキリストと同じように、ただ真実のために哲学者としての最後を全うした姿は、何千年たっても偉大であり、感動的です。

「死とは、肉体からの魂の解放であり離脱である。魂の解放を熱望するのが真の哲学者であり、哲学者の使命とはまさにこのこと、すなわち、魂の肉体からの解放にほかならない」と述べています。
真の哲学者の使命とは真実の宗教家の使命と同じであると思います。

ソクラテスは、唯物論的な人たちから、不死性について疑問を提示されます。
魂は肉体から離れるとどこにもなくなり、消滅してしまうのではないのか?肉体が死んだその日に、魂なるものも消えて雲散霧消してしまうのではないのか、という質問に対して以下のように切り返しています。

「人間の本質、魂あるいは霊性は、生まれてくる前から存在しており、地上に生まれ死して後にまた、生まれ変わってくる存在である。」
つまり、死者の魂は不生・不滅であり、永遠であるとはっきりと断言しています。

「魂が不死である以上、魂にとってできるだけ賢くなる以外に、悪から逃れることも救われることもない。魂がハデスへ行くにあたって持って帰れるのは、ただ教育と教養であり・・・・」と述べています。
ほとんど哲学というより宗教ではないかと思います。というより本来の哲学とは、魂の不死を論理的に説明することにあるかも知れません。
真実の哲学の使命とは、魂の真実を論理的に解き明かすことであり、人間の本質とは何か、どこから来てどこに行くのかといった根本的命題を解き明かすことにあると思います。


更に福音書に書かれている普遍的教えについて考えてみます。

キリスト教の教えは霊的世界を真実として受け入れなければ理解できないかもしれません。
感性的で神に対しての純粋な信仰が求められます。
教会の静寂した中で、一人美しい女性が、神に対して真剣に祈っている姿は、その姿自体に尊いものを感じます。

ユダヤ教は、神と人間の間に交わされた契約、戒律を守ることで人間の幸福を約束します。
福音書には、天なる父(エローヒム、エル・カンターレ)を信じ、イエス様の教えを守ることで人は救われるという教えだと思います

以下、イエス様の教えを考えてみます。
『もし、誰かが、あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には上着を与えなさい』と言われています。
一歩間違えると、悪を増長させてしまいかねませんが、内村鑑三氏は、この言葉は直弟子に対する教えだと解説されていました。
内村鑑三氏の聖書の解説で、イエス様の教えは大衆に対して説かれた教えと、直弟子に対して説かれた教えと分けて考えています。
キリスト教的な与える愛の教えかもしれません。

『敵を愛し、迫害するもののために祈れ』と説かれました。
許す愛に通じるものがあると思います。

『あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになる、あなたの父に祈りなさい』とあります。
これは、観念論哲学のヘーゲルも述べていましたが、人前で自分の信仰心があるようなふりをするなということだと思います

『目は体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいであろう』とあります。心の清らかさや、精神性の高さや悟りの内容によって、外見が変化してきます。
心の状態が反映されるのが目と言うことでしょうから、ある程度、外見で判断するとしたら目を見るのも一つの方法でしょう。

『人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなた方の、裁くその裁きで自分も裁かれ、あなた方の量るそのはかりで、自分にもはかり与えられるであろう』と書かれています。
これも許す愛に通じる教えであると思います。
ただし、明らかに相手が間違った行動や言葉、周りに対して悪い影響を与えている場合は、その間違った行為を正すことは大事なことです。
相手に悪を犯させないと言う意味で注意は必要だと思います。

『求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すであろう。』とあります。
まずは神の義を求めるべきでしょう。

『狭き門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者は多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。』とあります。
修行の厳しさを述べていると思います。
人生が魂の向上を目指し、周りの人に対して良い影響をあたえ、神の国をつくる目的であるならば、常楽我淨と言われる、四顚倒という四つの間違った考え方、これを否定しなければなりません。
この世での人生が常にずっと続く、この世は楽しい、快楽がある。肉体の自分が真実の我と思う。浄らかである、という考えは霊的世界からみればすべて間違えです。
霊的観点からすれば霊主肉従であり、肉体に宿っている霊的存在が真実の自分であり、肉体は仮ものです。霊的存在が地上で修行するための乗り物です。
ですから、肉体のみを喜ばす方向は滅びに至る門で、その門を通るものは多いということを、言われていると思えます。

『あなた方は、私の名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる』これは、信仰心の大切さを教えていると思います。

また、『一匹の羊を持っている人がいて、もしそれが安息日に穴に落ちたら、手をかけて引き上げてやらないであろうか。人は羊よりもはるかに優れているではないか。だから、安息日に良いことをすることは、正しいのである。』
安息日だろうとなかろうと、正しい行いをするのにそのような制約は関係がないと思います。

ルカによる福音書の記述に次のような例え話がある。
『盲人は盲人の手引きができようか。二人とも、穴に落ち込まないであろうか。
弟子はその師以上のものでないが、修行をつめば、みな、その師のようになろう』
指導者としての愛であると思います。
まず、自分自身の自己確立を完成し、修行途中の人たちを導く生かす愛であると考えられます。

次に律法学者が来て、イエスに質問した。全ての戒めの中で、どれが第一のものですか。という問いに、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。
第二に、自分を愛するように隣人を愛せよ。』とあります。
自分を愛するように隣人を愛せよとは、当然自分が関心を持ってしかるべき人で、愛の発展段階説でいえば、5次元的な愛する愛に通じる教えであると思えます。

『新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである』と説かれています。
今までのしきたりや、考え方、古い律法や戒律、習慣や時代性にとらわれて、新しく説かれる真実の教えを批判してはいけない。唯物論な間違った教育によってゆがめられた考え方や、見方によって主の説かれる法を価値判断してはいけない。という意味かもしれません。



『善人は良い心の蔵から、良いものを取り出し、悪人は、悪い蔵から悪いものを取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るのである。』
これは、お釈迦様の八正道の正思と正語に対応していると思います。
心の三毒を反省して、初めて正しい、適切な言葉を言うことができるのであって、心が欲望で真っ黒なのに、言葉だけをうまい言い回しをしても、人に見抜かれることになるでしょう。
逆に言葉が悪ければ、心の方にも問題があると考えられます。

このように西洋文明の繁栄を支えている精神的支柱には、ギリシャの哲学的な智慧とキリスト教の愛の教えがあります。
繁栄発展には、宗教が中心になければなりません。


その他、聖書のプチ解説
聖書の最後に書かれているヨハネの黙示録について。
『さて、天では戦いが起こった。ミカエルとその御使達とが、龍と戦ったのである。龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、天には彼らがおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たベビは、地に投げ落とされ、その使いたちも、もろともに投げ落とされた。』と書かれています。
また、『昔はいたが今はいないという獣は、〜かの七人の中の一人であって、ついには滅びに至るものである』
七人とは7大天使のことで、その中の一人とはルシ○○であろう。
よく聖書では、サ○ンは蛇(爬虫類)や龍に例えられています。
龍→ドラゴン→ドラゴリアン→レプタリアン・・・
霊的に観察すると、もともとの素性である、爬虫類型人間の姿が顕在化したのかもしれません。


イエスさまの最後の瞬間に、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。と書かれています。
わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか、と言う意味で翻訳されていますが、その記述の後に、そばに立っていた、ある人々がこれを聞いていった。
『そら、エリアを呼んでいる』とも書かれています。

人々とあるので、少なくとも数人の近くにいる人たちは”エリア”を呼んだように聞き取ったのであり、真実性が高いと考えます。
エロイ・エロイ・ラマとは、「エリア・エリア・ラファエロと叫んだのです。
わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですかでは、最後にイエス様は神を疑ったかのような誤解が生じてしまいます。

弟子の間違った解釈によりキリスト教の汚点として2000年間残ってしまいました。


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posted by ガンちゃん at 03:30 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする