2017年03月05日

真理と美しさの関係

真理と美しさの関係

過去の宗教家、哲学者、思想家、神秘家は言葉や書物を通して、真理とは何かを説いてこられました。
しかし、芸術を通して神の世界、真理というものを表現する手段もあるはずです。
美しさの究極には、神の教え、真理と融合する世界があるはずです。

昔からギリシャには、「悪魔には芸術を解さない」ということわざがあるといわれています。
数千年前のギリシャは、芸術的な光りを放つことが、偉大な神の子としての証明になっていたということです。

ギリシャ的といいますか、ヘルメスの愛の教えには、単に人を愛するということのみではなく、愛の中に美があり、愛の中に知があると教わっています。
ギリシャ的な愛の教えは、知ることは愛することであり、美しいことは同時に愛である。ギリシャ的な愛の中には、すべてのよきものが含まれていると言われていますが、真理を知識として学ぶことは、とても大事なことでありますが、それとは別に真理を美しさという視点から学ぼうとすることも、神につながって行く道であると思います。


地獄の悪魔たちは、闘争と殺りくの中に生きています。
その様な心の状態では、心から美しいと思う心にはなれないでしょう。

音楽を楽しむ余裕も、詩を吟ずる余裕も、文学を語る余裕も彼らにはないと言われています。
精神的な余裕がないということは、美しさからかけ離れた精神状態であるといえます。

アトランティス文明の美の基準は、シンメトリーといいますか対称性を好んでいたと言います。
物理の世界でも対称変換することで、すべての力を統合しようとする理論も存在します。

人間の肉体や動作を最大限に美しく表現したダンス、クラシックバレエは美しさを限りなく追求した芸術であると思えます。

美しい音楽に合わせて身体を動かすということは、人間の本性にかなった芸術であると思います。
美しさを表現できるということは、真理にかなっていると思えますし、心の中が闘争と破壊、欲望にまみれていては、人の心をなごませる美しさは、決して表現できないでしょう。

以前書いたと思いますが、バレエを習っている方は、身体の中心軸がぶれないで、どの人も姿勢がよくなっています。
アン・ドゥオールという言葉がありますが、外へ、という意味です。アン・ドゥダンは内へ、という意味で対になっている言葉です。

バレエは基本的には、アン・ドゥオールの舞踏といっていいのではないかと思います。
外へ、外へと大きく開いていく舞踏であると思います。
ちなみに日本舞踏は、内足を基本としています。
和服を見ると内へ内へと巻きつけるように纏う衣装です。
民族の性質の違いかもしれませんが、西洋人は外に向かって自分を表現する民族だと思いますが、日本人は基本的に内に籠る性質があると思われます。

バレエの基本はアン・ドゥオール(外へ)で胸をはり、背筋を伸ばし、堂々とする、そのような表現です。

そして、バレエは常に音楽とともにあります。
稽古では、常にピアノの伴奏がつきます。
美しいピアノ音楽に合わせて踊るバレエは魅力的ですし、人に感動を与えるという意味で、真理であると思います。

バレエはたんなる体操とは違います。美と結びついたひとつの表現芸術なので、表現する心を学ぶことで、優雅な身のこなしも会得できるし、心のゆとりや余裕につながり良い精神状態につながると思います。


クラシック音楽も、いろんな楽器の音色が調和して、一つの音が形成されます。
その調和された音楽が人の心の状態をやすらぎに導くならば、それは、真理を表現していると言えます。

宗教家や哲学者、修行者は理性、知性、悟性をつかって真理を理解しようとしますが、感性的に美を学ぶことで、真理の世界、神の世界を認識する方法もあると思います。



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posted by ガンちゃん at 02:54 | Comment(2) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月27日

愛の本質 道徳だけでは正しさの根拠を導き出すことはできない

愛の本質 道徳だけでは正しさの根拠を導き出すことはできない


地上的な善悪の価値判断や人間としてやるべきこと、してはいけないこと、人間としての生きていくうえでの正しい生き方を道徳は教えています。
マルクス・アウレリウスは、「善い人間の在り方を如何について論じるのはいい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」と述べています。
自分自身が素晴らしい人間になりなさということでしょう。

人間社会における正しい価値判断、善いことや悪いことは、誰がどのように決めたのでしょうか。

地上における善悪の価値判断の根拠は霊的世界にあり、更には、仏がお決めになったと言えます。
仏の教え仏法が、光の天使たちを通して地上に降ろされ具現化されたのでしょう。
霊的世界において、天国・地獄があるということは、善いこと、悪いことがあるということです。

道徳は自由を抑圧するものではありません。
車社会の交通ルールと同じで、もしルールがなければどうなるのでしょうか。
自分勝手に走れるから自由だと考えたならば、大変な事態になることでしょう。
どこから車が飛び出てくるかわからないし、危険が増すばかりです。何をしてもかまわないという責任を無視した自由は結局、自分と相手を不幸にする考え方であると思います。

しかし、単純に他の人に迷惑をかけないというだけでよいのかということです。
道徳は、人間としての行動を外部から規制しているともいえます。
ですから、道徳だけでは心の状態までチェックが入りません。

道徳だけでは、信仰心ある人も無神論者も違いがわかりません。
無神論が間違った考え方である理由は、人間は神や仏から分かれた神性あるいは仏性を持った尊い存在であり、物がすべてという考えはこれを否定することになるからです。

ソクラテスは、「一番大切なことは、単に生きることではなく、善くいきることである」と言いました。無神論や唯物論的な考え方からでは、どうして人間として正しく生きなければならないのか納得いく答えが得られないでしょう。
無神論・唯物論では、人間の本質が理解できないからです。


また、それぞれの正しさの基準、正しさのものさしが食い違っている場合もあります。
キリスト教圏とイスラム強圏では、正しさの基準が違うでしょう。
その違いが衝突を生み、そこに憎しみが生まれるかもしれません。
しかしその価値観や正しさの違いを乗り越えるものがあります。
それが『愛』と言われているものです。

宇宙で一番大事な教えは何かと言われたら現時点で一番大切なのは『愛』であると自分は考えます。
私が愛について考えた結論は、愛とは時間や存在をあらしめる力であり、思想的宗教的なだけではなく、物理的にも存在の根源をなしているということです。
ですから、愛が止まったら、あるいは愛の大河が流れなくなったら、すべては消えることでしょう。
そのような意味ですべての存在は生かされていると言えます。


勝手に生きていると考えて人生を生きていく人と、自分という存在は神の愛で生かされていると考えて人生を生きていく人では、生き方が全く違ってくることでしょう。

宇宙の生命体の中では『力』がすべてと考えている爬虫類型宇宙人も存在します。
しかし、その存在をもあらしめている神の愛があるということだと思います。

その愛の力を少しでも知ることができたなら、人は神仏に対して謙虚になる以外になくなると思う。
人に対しての傲慢な態度や、自分が偉いという思いあがった言動がでてこなくなると思います。
それを考えると、愛といっても条件付きの愛は、少なくとも神の愛とは言えないと思えます。

しかし、いつも愛を意識し、そちらの方向に向いていることが、自分が成長し、神仏に近づくことになると思います。
小さい子供でも優しそうな人には自分から寄ってきて、話しかけてくるでしょう。
我々も神仏に向かって心を開き歩み寄っていくことが大切であると思えます。

宗教の大切さとは、道徳の根拠でもあり、自分は神の子であり、他の人も神の子である。
同じ仏性を持った存在だからこそ、そこに優しさや、思いやりの心、他を愛する気持ちが芽生えてくるのでしょう。

全宇宙の生命体は、深いレベルで霊的につながっている存在であると思います。
そのような視点を持ちたいし、持つように努力すべきであると考えます。

それゆえに信仰心が大切になってくるのでしょう。
アウグスティヌスは「信仰は目に見えぬものを信ずることである。そして信仰の報酬は信ずるものを見ることのできる事である。」と言いました。
また、マハトマ・ガンディーの自伝か何か忘れましたが、「宗教心を持たずしては、何人も生きられない。」と言われています。

魂の生みの親である神仏を信じることで、相手も自分と同じ仏性を持った神仏の子供、兄弟なのだという見方ができるようになるのかもしれません。






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posted by ガンちゃん at 02:07 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする