2017年05月08日

心の法則と潜在意識の働きについて

心の法則と潜在意識の働きについて

仏陀とともに歩んでいる仏弟子としての証明は、心の法則を極めながら、心の法則に基づいた正しい実践を積み重ねることであると思えます。

心を磨きつつ、法を深いところまで理解し、愛の実践をすることが、仏弟子の証明になるのかなと考えています。

心の法則と潜在意識は、どのような関係にあるのでしょうか。
潜在意識の働きそのものが、心の法則に含まれているのでしょうか。

仏説正心法語 解脱の言葉『仏説・八正道』には、以下のように書かれている箇所があります。

自己も 世界も 原因の
種が 蒔かれて  【因】
水をやり     【縁】
果実が 実り   【果】
報いあり     【報】
果実の 甘さ 苦さにも
種と育ちに 理由あり

種とは、物事の原因に対応していると思いますが、ここでいう種、あるいは種子とは、その人自身の考えや思いであり、顕在意識あるいは表面意識で考えたことと定義しておきます。
その種子が、どこに蒔かれたかといいますと、潜在意識といわれている畑に蒔かれたということになります。

ある一定期間、顕在意識・表面意識で考え続けた思考内容は、やがて潜在意識の中に浸透していきます。
表面意識で考えた種は、潜在意識の中で繁殖していくことになります。

潜在意識は、表面意識から来た指令を受け取り、その種子(考えや思い)を何倍にも拡大していく働きがあるようです。

潜在意識は、物事の善悪までは判断しません。

ですから常に、表面意識によって正しい種を蒔き続ける必要があると思えます。

エマーソンやマルクス・アウレリウスや他の賢人たちは人間の本質について以下のように述べています。
「人間とは、その人が考えていることにほかなりません」
あるいは、「どの人の場合も、その鍵はその人の考えていることだ」

これは、霊的世界の法則を見抜いた言葉であります。
霊界においては、容姿を変化することが可能でありますから、相手を判断する手段にはなりません。
AさんがBさんの容姿を真似ることも可能でしょうし、悪魔が天使の真似をすることも可能でありますから、外的要因では相手を確実に判断することは難しいと考えます。

しかし、その人の個性、あるいは雰囲気というものは隠しようがありません。
その人の考え続けてきたことが、その人の個性や雰囲気(オーラ)を形成しますから、これは他の人では真似ができないということになります。


自分自身が過去に考えたことが、現実の世界(物質世界)に投影されていると言えます。
自分の心の中で考えるように、自分の外側の生活もなるということです。

ですから、いい意味でも悪い意味でも考えが潜在意識の中で繁殖したら、それは現実の姿をとって自分自身に反射される、あるいは,はねかえってきます(作用・反作用の法則)から、自分を害することなく、相手も害することのない思いを持つ必要があります。


思っていることが現実になる、と自己実現の本には書かれているようですが、潜在意識にまで浸透した考えは、霊界とは違って時間差があるにせよ、現実を引き寄せるということになります。
(霊界では、思った瞬間にその思いが現実化します。)

ただし、潜在意識は小型車のように小回りが利かない大型車のようなものなので、表面意識のほうで考えをあっちこっち変えると、せっかく蒔いた種を掘り起こしてしまう結果になります。

つまり良い種を蒔いても、否定的な考えがすぐに浮かぶようでは、中和して現状が何も変化なしということになってしまいます。

また旧約聖書に書かれていますが、「私がおおいに恐れていたことが、私にふりかかった」
ヨブ記(二・二五)

心に深く浸透したものは良くも悪くも引き寄せるという教訓が含まれていると思えます。




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posted by ガンちゃん at 01:04 | Comment(3) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月06日

ごく普通に神仏を信じることができる人は幸せだと思う

ごく普通に神仏を信じることができる人は幸せだと思う

地上的に頭が良いといわれる人であっても、目に見えない尊い存在や霊的世界に関して信じることが出来ないというのであれば、その知は本物とは言えないでしょう。
日本の学問的価値において優れていたとしても、宇宙的学問からみたらまったくの底辺である可能性もあります。

科学万能主義が行き過ぎた結果、実験的あるいは経験的に確認できる範囲内に学問の対象を限定し、それ以外、例えば、魂や霊的世界に関しては、充分に探究し研究しているとは言い難い状況になっています。

観念論哲学のカントは、確かに学問の対象を経験の範囲内に限定をかけて哲学を構築していますが、カント自身は論理的に証明できないからと言って神の存在を否定していません。

むしろ、悪人が栄え、善人が苦しんでいる姿を見ると、死後においてそれを精算して下さる存在がいなければ、正義が考えにくくなるという趣旨のことも述べています。

そもそも、霊的世界といわれる高次元世界を三次元的材料で証明しようとする考え自体が間違っていると言えます。
もし、三次元的な測定器を使用して、完全に証明できるのであれば、それは物質であって霊ではないということになります。


私も化学や物理は好きですから、否定するより積極的に肯定して自分自身の哲学の下支えにしているぐらいです。
しかし、私は証明できなくとも霊的世界は必ずあると信じる派ですから、物理の法則を霊的世界の証明に結びつけて考えることができないか、そちらの方に思考が働きます。


渡部昇一氏も「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するか?」という著書に、パンセの考えを引用して、最後は魂の存在、霊的世界の存在を信じるか、信じないかのどちらかであると述べています。
そして、どちらが得かと言えば信じる方にかけた方が良いと述べています。
理由は、人間は死んだらすべてが無に帰すると考えるならば、生きている間に魂の存在を信じたとしても死んですべてがなくなるのだから、どうということはない。
しかし、もし霊的世界や魂が死後の世界において存在するのであれば、信じることを否定した御自身は大変なことになりますよと述べていたと思います。

死んですべてがなくなると思うから、生きている間に好き勝手なことができるのであって、霊存在が自分の在り方を見ていたとしたら、とても恥ずかしくてできないことでもできてしまう。


人間の幸福を考えたときに、自然科学だけでは絶対に精神を満たす幸せを最終的に手に入れることはできないでしょう。
科学は、未知なるものに対しての解明と、人間を幸福にするための手段であって幸福そのものではないと言えるのではないでしょうか。

例えば、読書をすることで脳科学的には、血液が脳のこの部分に集中してくると実験的に証明できたとします。
しかし、どのような本を読んでいるかまではわからないでしょう。
哲学書か宗教書かマンガか、はたまたエ○本か、読んでいる本の内容までは解らないはずです。
読んでいる本の内容によって精神に与える影響力も化学的には解らないでしょう。

また、自然科学的に美しいとか醜いとか判断できるでしょうか。
できないでしょう。

芸術や音楽を聴いて美しいと感じたり感動したりすることができるのは、すべて魂の属性であって自然科学的に美しいと感じたりはできないのです。

ですから、自然科学は人間が幸福になるための手助けはしてくれますが、幸福そのものを得ることまではできないと思います。

そして、強制されることなく神仏をごく自然に信じることができる人は、すでに幸せを手にしていると思います。




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posted by ガンちゃん at 02:12 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする