2017年03月26日

ナグ・ハマディ写本 イエス様復活の真実を考察

ナグ・ハマディ写本 イエス様復活の真実を考察


ナグ・ハマディ写本 白水社を読んだ私の考察になります。
幸福の科学の公式見解とは違いますのでご了承ください。
(黄金の法講義は参照しています。)

ナグ・ハマディ(町名の英語読み)で発見された福音書があります。
この福音書の一つに『ピリポ福音書』というものがあります。
これは、現代正統派としての新約聖書の記述とはだいぶ違う内容のようです。

「・・・〔救い主〕の伴侶はマグダラのマリア〔である〕。
〔しかしキリストは〕彼女を〔どの〕弟子よりも〔愛した〕。そして彼は、彼女の〔口〕に〔しばしば〕接吻をした。他の〔弟子たちは感情を害し〕・・・彼に言った
『なぜあなたは私たちすべてよりも彼女を愛するのですか』。
救い主は彼らに答えて言った。
『なぜ私は彼女を〔愛する〕ようにおまえたちを愛さないのであろう』」

明らかに、イエス様の伴侶はマグダラのマリアと書かれています。
マグダラのマリアは娼婦だということで、社会的地位は低かったのかもしれません。
ですから、新約聖書を整理する段階で、マグダラのマリアを除外し、イエス様の母親であるマリア様を聖母マリアということで前面に立てたのでしょう。
正統派の福音書としては、「マタイ福音書」「マルコ福音書」「ルカ福音書」「ヨハネ福音書」の四つの福音書がありますが、実際、それ以外にマリアの福音書、トマスの福音書、上記で書いたピリポの福音書等、多数の福音書があるようです。

正統派から除外されたグノーシス(知識という意味)主義者は、復活を文字通り受け取る見解を「遇者の信仰」であると呼んでいます。
大事なことは文字通りに見るということではなく、霊的にみることです。
彼らの亡き師が生き返ったと宣言した人々は、霊的真実と実際の出来事を混同している。と述べています。
ですから、イエス様の復活に関して、真実は霊的復活現象を物質的な現象と混同して考えた人々がいたということでしょう。

グノーシス派の教師が弟子に書いた手紙『復活論』がナグ・ハマディで発見されていますが、その中で次のように書かれています。
「復活を幻影だと思ってはならない。それは幻影ではなく実在するものである。むしろ、この世が復活よりも幻影なのだ、と言われるべきであろう」と述べています。
さらに、通常の人間の存在は霊的には死にあたると説いています。
これは仏教的世界観、空の思想に通じるものがあります。

復活とは覚醒のときであり、真に存在するものがあらわになることで・・・新たなる存在への転移(移行)だからであると書かれています。

どのような意味があるのでしょうか。
真に存在するものがあらわになるということは、イエス様が肉体を脱ぎ捨て、霊的実在(存在)に移行したという意味だと解釈します。

『ピリポに送ったペテロの手紙』もナグ・ハマディで発見されていますが、イエス様の死後弟子たちが、オリーブ山で祈っているときの話が記されています。
「大いなる光が現われ、その結果、現れた者のところから山は輝いた。そして、一つの声が呼びかけて言った、『聞きなさい・・・私はイエス・キリストであり、あなたがたとともに永遠にいる者である。』」
彼らの前に現れた救世主イエス・キリストは、元の姿ではなく、見えざる霊として現れたようです。
そして、その容貌は大いなる光の天使の容貌であったと書かれています。

光り輝く存在として現れたと同時に、自身をさまざまな型に変容していたと『ピリポ福音書』にも書かれているようです。
「イエスは彼らすべてをひそかに連れて行った。なぜなら、彼は実際そうであったように示さず、彼らが彼を見ることができるように示したからである。
彼は自分自身を彼らすべてに示した。彼は自らを大きい者には大きい者とし・・・小さい者には小さい者として現した。
イエスは、未熟な弟子には子供として、一方、円熟した者には知恵の象徴である老人として現れた。」
グノーシス派の教師が述べているように、各人はその人自身の仕方で主を認め、その仕方は同様ではないのである。と書かれています。

これは、どう考えてもベガの人達の能力であるとしか思えません。
各人が見たいと思うとおりにイエス様が見えるということですから、このような能力の持ち主はベガの人達以外に考えられません。

ですから、弟子たちは霊的に復活したイエス様を目撃しましたが、その他多くの人達(民衆)は、いろいろなイエス様の姿に変化した、ベガ星人を目撃したのではないでしょうか。


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posted by ガンちゃん at 03:07 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

獣の世界に近づく人間世界を救えるのは慈悲の光

獣の世界に近づく人間世界を救えるのは慈悲の光


獣の世界とは、闘争と破壊が繰り広げられる世界です。
お互いに相手を食いあい、常に恐怖が支配する世界のことを言います。

獣の世界に近づいたこの世界を、どうしたら神仏の正しさが支配する世界に戻すことができるのでしょうか。

そのためには正しい宗教の教え、法を広げていく必要があり、霊的世界を信じ、神仏の存在を信じる信仰心を持った人たちの力が必要です。

幸福の科学の教えは多岐にわたり、一言でまとめてお話しするのは難しいかもしれませんが、仏教的な教えがベースであると自分は思っています。

現代の四正道である、愛・知・反省・発展のなかで、知の部分は仏教的な智であると考えています。
もちろん、それ以外にも知に含まれるものは、政治や経済・科学、歴史等、知の範囲は限りなく広がりますが、人間の魂を向上させる教えという意味では、仏教的教えが中心であると自分は考えています。


基本的に仏教の修行は自力で、戒・定・慧の三学であると言われています。
戒律を守る過程で自分の日常生活の在り方を律していきながら、禅定を通して自分の心を落ち着け、霊天上界との交流をはかり、智慧を得る。
戒も定も最終的には智慧を得ることが目的であり、この世的な束縛やとらわれから自由になり、その結果、解脱をすることが可能であるといわれています。
真実の自由とは実在界のおける価値観を体現した自由であり、自分が真実解脱したことを知る解脱知見があると教わっています。

この地上は相対的な世界であり、相互依存で成り立っています。
あるいはお互いの関係で成り立っており、それ自体の性質からなるものはありません(無自性)。

ナーガールジュナの『中論』には、不浄と淨についての説明として、「淨と不浄とがそれぞれ自身の本質(自性)を持つならば淨は不浄を離れても存在し、不浄とは淨とは独立に不浄として存在するであろう。しかし、淨も不浄も自然的存在のありかたであるから、独立に存在することは不可能である。」
両者は互いに無関係ではありえず、互いに他を予想して存在しています。
淨は不浄によって淨であり、不浄は淨によって不浄である。
したがって両者は独立には存在しているとはいえません。すべてはお互いに相互依存で成立しています。

私達は、感覚器官を通して物質的なものを実在と思い、実体があると考えています。
しかし、実体性とはしょせん、限定されたものにすぎません。
物質的なものが未来永劫続いていくものではありません。
ある限られた時間の範囲で存在するだけです。
どこまでも限られた意味において実在するのであり、すべての存在には滅びが内包されています。

このように、空の思想をもって、あるいは『諸行無常』『諸法無我』を説くことで、地上に対する執着をなくしていくようにします。
地上に対しての執着がなくなることで、自分さえよければいいというような共食いは、なくなっていくことでしょう。


四正道の『愛』とは、キリスト教的なる愛とヘルメス的な愛が合体した『愛』であると思います。
無我なる愛と言えるかもしれません。

この愛に、先ほどの仏教的な智慧が融合して、『慈悲』に昇華されると思います。
慈悲とは、愛と智慧の結晶であると考えます。

仏教の根本命題は「上求菩提・下化衆生」であり自分の悟りが高くなるほど救済力が高くなり、影響力も増してくると教わっています。

愛と智慧の融合が上求菩提に対応し、慈悲が下化衆生に対応していると思います。

『仏陀・悪魔との対話』岩波文庫には伝道に関して次のようなことが書かれています。
「尊い方!尊師は教え(真理)をお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは、教えを聞かなければ退歩しますが、[聞けば]真理を悟る者となりましょう」。

伝道する対象を選別しています。
慈悲とは基本的に全ての人が救いの対象なのでしょうが、優先順位をつけて、合理的に伝道の対象者を絞っています。


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