2017年11月05日

ヘラクレイトスと仏教の共通点 変転変化と弁証法

ヘラクレイトスと仏教の共通点 変転変化と弁証法

ヘラクレイトスの思想は、プラトンやヘーゲルの哲学に大変な影響を与えていると考えられます。
ヘーゲルは「ヘラクレイトスの命題で、私の『論理学』のうちに、とりいれられなかったものは一つも有りません。」と言わしめています。

ヘラクレイトスの考え方の特徴として、消去法を用いるのではなく、結合法を用いた論理の組み立て方をしていると考えられます。『これか・それか』というのではなく、『これも・それも』という、弁証法的思考方法です。
例えば、ある土地に家を建てれば、そこにある草地を破壊しますが、家を破壊すれば、草地を創りだす。破壊を伴わない創造はないし、逆もまた真なりということです。

論理的な一般原理として、このように述べています。「存在は非存以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。真理は対立物の統一としてしか存在しない。」一切は流れる。なにものも存続せず、おなじままということはない。

この考え方は、仏教の『空』の思想と同一と考えても良いかと思います。
感覚的なものは、すべて変化するものであり、実体として、あるいは本質を有しているものではありません。すべては、原因や条件に依存し縁起によって存在しているがゆえに、変化をしない固定的な存在はありません。
ヘラクレイトスが言うように、「存在は非存在以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。」と同じ意味だと考えます。

ヘラクレイトスは、一だけがあり、他の一切はこの一が形を変え、変化し加工されてものである。この一以外の一切は、ながれ固定せず、自分をもちこたえない。つまり、真実は「なる」であって「ある」ではない。
ヘラクレイトスは「なる」が原理であり、真実であると認識していました。
「存在は非存在とおなじく存在しない。『なる』はあると同時にない」
存在と非存在は対立する関係で、対立する観念が一つに結ばれ、「なる」のうちには存在と非存在がともにあるとされています。
「なる」は生成だけでなく、消滅も含んでいますので、この二つがばらばらのものとしてではなく、同一のものとして「なる」のうちにあります。両者が同一だという説明です。

自然は一瞬たりとも静止することがなく、対立に駆り立てられ絶えず流動しています。この世では、生物であれ無生物であれ、時間の経過とともに変化しないものは皆無なのだ。森羅万象は流転する。

ヘラクレイトスは仏教に通じる思想を残しています。
「同じ河にわれわれは入っていくものであり、入っていかないのでもある。われわれは存在するとともに、また存在しないのである」

「私は、事物が変化するというこの瞬間に、私自身も変化している」

真理とは、「なる」過程のことであり、ちがうものあるいは、対立するものが一体化していく過程を表現しています。

「死なぬ者が死ぬ者であり、死ぬ者が死なぬ者なのだ」
どれも、霊的に深い洞察が伺える内容です。
ヘラクレイトスによると、人間の生においても死においても、生きることと死ぬことが一体になっています。なぜなら、我々が地上において生きている時には、霊魂は死んでおり、肉体に閉じ込められています。逆に、地上において死を迎える時、霊魂はよみがえって霊的に生きるから。

ヘラクレイトスは、すべての存在がながれ、感覚的に確信されてものはあると思ったときにはもうない。だから感覚的な知のうちには真理はないと述べています。



ヘラクレイトスは、火を根本原理としていたようです。常に万物は火と、火は万物と交換されると言われていたと思いますが、この火を現代的なエネルギーに置き換えると、アインシュタインが物質とエネルギーが等価変換されるといわれていた意味とほとんど同じではないかと考えます。

エネルギーは、質量に光速の二乗をかけたものと同じである。

エネルギーと質量.jpg

あるいは
エネルギーと振動数.jpg
エネルギーは定数×振動数である。

25世紀も先駆けてこのように考えることができるとは、真理は昔も今も表現の違いはありますが、不変であるということなのでしょう。

仏教との関係でヘラクレイトスの思想を考えていきます。

ヘラクレイトスは、「生まれてから、生きていくつもりになるが、それはまた、死を覚悟することなのだ」
と言われていますが、善勇猛般若経には、「出現する性質のものは、なんでもすべてが滅する性質をもつ」「出現の本質、それはおのずから破滅することであり、それが『滅』である。」
「生起と同時に滅である」と書かれていますが、述べられている内容は同じことであるとみてよいでしょう。
断常の中道で言われていますように、今の自分の状態が常に続いていく考えは、まちがえであります。また、死ねばすべてがなくなるといった唯物的な考え方も間違えです。
魂自体は来世も続いていきますが、運動形式や表現形態がちがっていきますので、変化しながら存在するが正解であるということだと思います。

肉体を含めて物質的なものは、その生まれた瞬間、生じた時、発生した時点ですでに滅びに向かっており、永遠に続いていく存在ではありえませんが、だからこそ逆に、この世を超えた霊的世界に対して目を向ける必要があると考えます。
また、地上という相対のなかに生きているからこそ、霊的世界の素晴らしさを再認識できるとも教わっています。
ヘラクレイトスは、「悲しい日々を体験しなければ、楽しい日々を過ごすことができないし、不幸についてせめて漠然とでも認識していなくては、幸福を評価することができないのである。苦痛に対する快楽や、涙から切り離された笑いについても、同じことが言える」と述べています。

真実の世界観を獲得する智慧は大事なものでありますが、真理を聞いても右から左に抜けていく人がいます。
ヘラクレイトスが言うには、「実は考えることは万人に共通なのだが、知というものは大多数の所有物ではないのである。たいていの人々は、歩いているうちに、道がどちらに向いているのかを忘れてしまうのである」と述べられています。
また、「彼らは眠っている時の所業を忘れているように、覚めているときの所業にも気づかないのだ。そしてロゴスには出会う前も後も、気がつかない。」といわれています。
ヘラクレイトスの言葉に「いてもいない」という名言がありますが、肉体はその場にいても、思考する主体、魂が別のところに飛んでいて、真理を聞けども音にしか感じ取れないという人が今も昔もいるということでしょう。

ロゴスとは、概念・意義・定義・説明・理由・理論・思想・等に用いられたり、あるいは、言語の能力・思惟・理性・思考力の意に用いられたりしますが、ヘラクレイトスに関しては、一切を貫き支配する理法(世界理性)という意味で使用していると考えられます。

ヘラクレイトスは、五感から生じる認識は間違いであると、いろんな箇所で指摘しています。

一般大衆の認識に関しての間違えは、ロゴスの代わりに、五感を用いることに執着しているからだ。あるいは、「目は耳よりも正確に証言するが、もちろん、これは識別能力を有する人の目の場合である。逆に、野蛮人には目も耳も語らない。なにしろ誤謬は五感というよりも霊魂に依存しているし、霊魂が愚鈍ならば、それはすでに・・・・」と辛口の言葉を述べていますが、自分が思うに、ヘラクレイトスはソクラテスやプラトン同様に霊的能力をもっていたのではないかと思えます。
仏教のように高度な霊的能力を有しながら同時に、理性的な人物であったのだと思えます。

また、智に関しても厳しく論じています。
「智を求める人は、実に多くのことを探究しなければならないのである。そしてその際に、表面にあるものであれ、一見して現れているものに迷わされることなく、ものの内部に隠れているものであれ、それぞれのものを徹底的に検討しなければならないのである。
もの自体は美しくも醜くもないし、良くも悪くもないのであり、それらの目的によって初めて、そういうものとなるのである。
仏典には、物自体は空であり人間が分別しているだけであるという意味が書かれています。

それだから、神々が戦争を淘汰とみなす以上、それは望ましものかもしれませんが、それは人間からすれば死をもたらすから最悪のものである。どの現実も肯定的な面と、否定的な面という両面を必ず有する。海水は魚には貴重だが、人間には致命的である。一見して凹状に目えるものが、凸状にあることもありうる。
あることが、正しいか正しくないかを決めるために、人間は理性にではなく、五感に頼っているが、このことから錯覚に陥るのである。そして、賢者が人間に警告をしている時にでも、彼らは信用しなくて、まるで眠っているかのよう行動する。」

なんと現代にも当てはまる言葉であろうか。
ヘラクレイトスの思想が仏教の思想とあまりにも共通していると思います。

ヘラクレイトスのまとまった思想書がありませんので、記述が断片的になってしまいましたが、仏教とギリシャのヘラクレイトスの思想の共通点が理解されたらいいと思えます。


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posted by ガンちゃん at 23:25 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

現実の中に神の理念をみることができないからこそ信仰心が大切です

現実の中に神の理念をみることができないからこそ信仰心が大切です

ヘーゲルの法の哲学には、「哲学は、理性的なものの根本を究めることであり、それだからこそ、現在的かつ現実的なものを把握することであって」とあり続いて「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」と述べられています。中央公論社 ヘーゲルより

どのような意味かを考えるにあたって、ヘーゲルの歴史哲学講義 岩波文庫を読んでみると、最初におどろかされるのは、その圧倒的な教養ではないでしょうか。そして現実の歴史の中で、隠された歴史の本質を見抜いています。

しかし、本質を見るといっても個々の歴史的事実、事件を無視して、理念のみの抽象概念だけで語られているわけではありません。
例えば、ペルシア戦争やペロポネソス戦争といった現実にあった戦争の中に潜んでいる本質をみています。つまり個々の事件や個別事象を離れた理念や本質ではないということです。

現実からかけ離れた理念は単なる空理空論でしかありません。理念といっても過去のすべての歴史を知った上での理念ということになると思います。
圧倒的な教養あるいは、知識を学びそのうえで、霊的世界にある理想、高次元にある理念を学びつかみ取る。
そして霊的なる真実の価値観や高度な理念から再び、個々の事象に帰ってくる。そうしてこそ、初めて歴史とは、人間の思考錯誤によって築かれたものではなく、神々の世界計画のもとに歴史が自己展開してきたのであるということを、つかみ取ることができるのではないのかと思います。

これが「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」という言葉の意味ではないかと思えます。

これは、天台大師が説いた三諦円融と意味においては、同じではないかと思います。
空諦において、この地上におけるすべてのものは、変化しないもの、固定的なものなどありません。
すべては原因と条件に依存しており、定義できるような本質的なもの、実体があるものなどないのです。
ゆえに霊的世界こそ真実の世界であり、この世は仮の世界であるので執着してはいけませんという教えであると思います。
しかし、空諦にばかりに意識がとらわれると、地上における修行の観点がなおざりにされます。そこで仮諦という考え方がでてきます。
哲学で言うところの実存主義に近い考え方かもしれませんが、仮の存在であってもその中に積極的な意味合いを見つける、あるいは人生は一冊の問題集であるという観点でこの世の中を見つめていくという考え方であると思います。
しかし、仮諦にばかりとらわれると今度は、この地上がすべてだという唯物論的な考え方が蔓延してきます。
そこで、霊的な価値基準とこの世の中は修行なのだという観点の両方から現在の自分の有り方を見つめるということが大事であるというのが三諦円融であると思います。

通常、人間は感覚を超えた霊的世界においては、経験を通して知ることはできないし、確認することもできません。それだからこそ信仰心が大事であるということです。

誰が言ったか忘れましたが、「信じることは人間にとって一番、美しい姿である」といった哲学者?がいましたが、目に見えないからこそ信じるという行為がとても大切なのだと思います。

霊的世界があるのか無いのか、五分五分のかけではありますが、信じた方が信じないより得だから霊的世界を信じると言うのであれば、それはそれでも良いとは思いますが、純粋な信仰心とはちょっと違うものがあるのではないかと考えてしまいます。


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posted by ガンちゃん at 02:52 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする