2017年06月25日

臨死体験から学ぶ愛の大切さ

臨死体験から学ぶ愛の大切さ

クリスマスキャロルという小説があります。
スクルージという意地悪なお爺さんがクリスマスイブに、過去の幽霊、現在の幽霊、未来の幽霊に出会い、過去や未来において自分の行いがどれだけ人々を傷つけていたかを知るに至り、心を入れかえることによって、すべてが輝いて見えるようになったという話であったと記憶しています。
同じ環境であっても心を入れかえることで、すべてが美しくみえてくるという、宗教的体験でもあると思えます。

臨死体験という実際に霊的世界を体験した人たちは、だいたい共通する認識をもちます。
死に対しての不安がなくなり人生を充実して生きるようになります。
また、愛の大切さに気がつく人が多いようです。ほとんど全員が愛は人生で最も大切なものだと言うようになります。幸福と願望達成は愛の証明であり、愛に比べるとすべてのものは色あせて見えてくるという人が大半です。

また、あらゆるものと、つながっているという感覚があるそうです。宇宙にあるすべてのものとつながっているという感じを抱いて戻ってくるそうです。
臨死体験は知識に対しても、それまでになかった敬意を抱くようになります。
光りの存在に、勉強(学び)は死によって中断されることはないと言われた人もいます。
知識はあの世に携えていくことのできるものであり、来世全体が知識を追求するための世界になっているという人もいます。

また、トンネルを抜けると光りの人々に会うという経験談も有ります。物質的な光で構成されているわけではなく、あらゆるものに浸透し、人を愛で満たすような、美しい強い輝きを放っています。体験者は、「光といっても愛といってもいいのです。結局、同じことなのだろうと思います。」と語っています。
きわめて強い光であるにもかかわらず、眼を傷めることはありません。それどころか、暖かで力強く、生気にあふれているようです。

心臓発作の激痛が、死の苦しみから深い喜びにかわったという報告もあるようです。

こうした体験をするとその後の人生も全く違ったものになるようです。人生をこの世限りだとする人生観、唯物論的人生観からでは、人間は不安と苦しみから抜けることはできません。



ギリシャの哲学者、プラトンの著作『国家』最終章には、戦争で最後をとげたエルという人物が10日前後に生き返り、自分がみてきた死後の世界を語りだす「エルの物語」が書かれています。

戦争で最後をとげた多くの屍体が埋葬の為、運ばれてきましたが、エルの屍体だけが腐敗せず残っています。
12日目、まさに火葬されそうとする瞬間にエルはよみがえり、自分がみてきた死後の世界についての話を始めました。

天の穴と地の穴があり、真ん中に裁判官が坐っていて生前の生き方について、正しい行いをした人に関しては、右側の天を通って上に向かう道を教え、不正をおかした人達については、左側の下に向かう道を教えていました。

エルは近づくと、「おまえは死後の世界について、人間たちに教えなければならないから、ここで行われることをすべて残らずよく見聞きするように」と言われました。

内容は、死後の世界は各人が犯した罪の10倍の償いを受けることになります。犯した罪や悪行はその10倍返しで自分に跳ね返ってきます。善行に関しても同じ割合で自分にかえってきます。

霊的体験が自惚れや慢心につながるのではなく、愛の大切さを実感として感じとれるものでありたいと思えます。

本当の霊性とは、深い愛と関係があるような気がします。



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posted by ガンちゃん at 10:34 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月19日

歴史の偉人たちが考察した時間と空間・仏教的時空論

歴史の偉人たちが考察した時間と空間・仏教的時空論

ニュートンの『プリンキピア』自然哲学の数学的諸原理 中央公論社があります。
時間・空間の説明として、「絶対的な真の数学的な時間は、それ自身でそのものの本性から、外界の何者とも関係なく、均一に流れ、別名を持続ともいいます。
総体的な見かけ上の日常的な時間は、持続の運動による精密にしろ、不精密にしろ、ある感覚的で外的な測度で、人々が真の時間の代わりに使っているものです。一時間とか一日とか一ヵ月とか一年というように」
時間の定義ですが、絶対時間と相対時間に分け、私達が通常使っている一時間とか一日というのは相対時間です。

空間に関しては、「絶対的な空間は、その本性としてどのような外的事物とも関係なく、常に同じ形状を保ち、不動不変のままのものです。
相対的な空間は、この絶対的空間の測度、すなわち絶対空間のどのようにでも動かしうる広がりで、我々の感覚によってそれの物体に対する位置より決定されるものであり(相対的な空間というのは、絶対空間の適当な部分の広がりを私達の感覚で受けとったものであり)人々によって不動の空間の代わりにとられているところです。
大気圏の広がりとか天空の空間の広がりとかといったものがそれにあたります。」

このような偉大な科学者ニュートンは、神の存在を信じていました。この宇宙はすべてが秩序立ち、数量的に完璧に計算しつくされているからです。
これは偶然ではありえません。
この宇宙は明らかに作られた形跡があります。

当会の教えも、大宇宙は神仏の念によって創造されたと説明されています。
念とはエネルギーであり、意志とはエネルギーの方向性ではないかと自分は考えています。

哲学者カントは、『純粋理性批判』で、時間と空間は、アプリオリ(先天的)な、経験に先だって与えられた「直観形式」あるいは純粋直観と説明していたと思います。

人間は、何かを考え、行動するにしても、基本的枠組みが決まっていて、その枠組みの範囲で物事を認識します。その認識の枠組みが時間・空間であるといった説明をされていたと思います。
時間・空間は我々の経験や条件に関係なく、先天的に与えられた直観形式です。

神秘学のブラヴァッキーは宇宙の存在に対して、宇宙には、存在しようとする意志があるからだと説明しています。空間は空虚な広がりではなく、力に満ちた実体であり、意志の現れである。と述べていたと思います。


若いころのシュタイナーは時間の始まりに関して、「その存在の本質が物質の世界に顕れ出た瞬間に、時間が始まる」と述べています。
時間はいつ始まるのか。それは、本質が現象化する瞬間であると言われています。
本質自体は没時間的でありますが、その本質が現象化する時に、一挙に、本質の凡てが物質界に現象することはありませんので、時間のプロセスの中で、本質的なものが次々に顕現していきます。

ゲーテ的にいえば、メタモルフォーゼと呼ぶのでしょうが、例えば、種を土に蒔きますと、土の中から芽が現れて、次第に茎がのび、葉が伸びて花が咲いていきますが、それぞれの存在段階においてメタモルフォーゼを遂げて、物質界に自らを現わしています。
物質界に自らを現わすのと時間が始まるのは同じことだとシュタイナーは言われていますが、一なるものから全てが流れている流出論に似ていると思えます。

ヘラクレイトスは「なる」が原理であり、真実であると認識していました。
「存在は非存在とおなじく存在しない。『なる』はあると同時にない」
存在と非存在は対立する関係で、対立する観念が一つに結ばれ、「なる」のうちには存在と非存在がともにあるとされています。
「なる」は生成だけでなく、消滅も含んでいますので、この二つがばらばらのものとしてではなく、同一のものとして「なる」のうちにある。両者が同一だという説明です。

自然は一瞬たりとも静止することがなく、対立に駆り立てられ絶えず流動しています。
この世では、生物であれ無生物であれ、時間の経過とともに変化しないものは皆無なのだ。森羅万象は流転する。


仏教的には縁起や諸行無常・諸法無我の思想にも通じているように思えます。
諸行無常が時間論に対応し、諸法無我が存在論(空間)に対応していると言えます。
諸行無常
すべては移ろいゆくものです。
時間の流れの中で変転変化していきます。
地上において固定的なもの変化しないものはありません。
時間の流れの中に変化が内包され、あるいは消滅が内包されていると思います。

諸法無我
すべては縁起によって成り立っています。
原因と条件に依存し、お互いが支え合って存在します。
この地上には、自らなる性質、自性なるものはありません。
実体のあるもの恒常不変なるものはありません。
仏教の存在論だと思います。

歴史の偉人たちに共通して言えることは、すべての根拠に神の存在があると信じているということです。
神を信じているからこそ、偉大なる思想が偉人達を通して私たちの世界に降ろされたと言えます。


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posted by ガンちゃん at 00:47 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする