2023年09月23日

高度な哲学を凌駕する幸福の科学の仏法真理 主の謙虚さに学ぶ

人間の認識には限界があります。

宗教家としての在り方と哲学者としての在り方の違い等を含めて考えてみます。


真理に込められた内容を深いところで理解することは、その人の魂の成長度と比例関係にあると思えます。



仏説・正心法語の中の真理の言葉・正心法語の中の一節に



「自他は これ 別個に非ず 一体なり」とあります。



非常に平易な言葉で書かれています。



唯物論者は、自分と他人が一体であるという認識はしないでしょう。

おそらく、自分と他人が一体であるというのであれば、その理由を説明しろ

と言ってくるかもしれません。



自他一体の理由は全ての人に神性、仏性が宿っているからです。



というとおそらく、人間に宿っている仏性を証明してみろと言ってくるかもしれません。



仏性が宿っている理由は全ての人に愛の気持ちがあるからです。



幸福の科学の仏法真理から説明するとするならば、このような説得になると思います。



しかし、哲学者の認識は客観性を重視する傾向があると言えます。



カントは、人間の概念は、物の本質を知ることはできない。

概念が認識できる範囲は、物の本質の一部分すなわち、現象として現れた部分のみです。

五感で確認できる領域、あるいは感覚器官を通して経験できる範囲での現象としての部分だけに限定されています。



しかし、



ヘーゲルは概念こそ自然物の本質で、相手の概念を深く認識することで相手と一体になったのと同じことであると考えます。

概念と存在は別のものでなく、自分の内にある概念を深く知ることで、相手にある共通する概念を知ることになり、それは自分と他者が一体になったのと同じことである。

といわれていたと思います。



ヘーゲルは自分のうちにある概念を深く掘り下げることで、相手にもある共通する概念を知ることになり、相手にある概念を知ることができれば、自分と他人は一体になったのと同じであるという認識なのだと考えます。



カント哲学ですと認識できる範囲に限定をかけています。

感覚器官で認識できるは、本質の一部分が現象として現れた領域です。

五感で確認できる領域、あるいは感覚器官を通して経験できる範囲での現象としての部分だけに限定しています。

ですからカント哲学では仏性の証明は難しいし、自他一体の悟りをつかむのは無理だと思います。



宗教家と哲学者の徹底的な違いは、宗教家は本来難しい真理をいかに簡単に平易に説明するか、相手に合わせて簡単に説明できるかが重要になります。



哲学者はいかに論理的に整合性をもって理論を組み立てるかということでしょうか。



幸福の科学では、現代の経典である仏説・正心法語に書かれている

「自他は これ 別個に非ず 一体なり」

を毎日当たり前のように読誦されているとおもいますが、哲学的に自他一体の認識を得るには容易なことでないということです。



しかも、霊的世界の真実に裏付けされた教えであるゆえに、哲学や科学では到達できない真理が解き明かされています。



更に、大川隆法総裁先生は、人間としても謙虚に努力されています。

その姿は、教えのみならず、実践の中での学びにも大変、勇気づけられます。



この後ろ姿を見たら、自惚や慢心なんかできませんね
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posted by ガンちゃん at 23:30 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月17日

時間論 時間とは主観的なものなのか

一般的な時間についての考え方は以下の通りだと思います。

時の流れのある一瞬の時刻。

ある時刻とある時刻の間の長さ

という意味でつかわれることが多いようです。



しかし、上記の時間に対するとらえ方は物理的時間のとらえ方であり、過去から現在・未来へと一様に流れる、一方向に流れる時間で、逆方向に進むことはないと考えられています。

一般的感覚としてもその通りでしょう。



しかし、生物の時間は物理的時間のように未来に向かって一方向に流れる時間ではないと自分は考えています。

生物の時間は、円環的な時間の流れ方をしていると考えています。

総裁先生も、時間は円環的に渦のような流れ方をすると言われていたと思います。



生命・生物の円環的時間概念は、物理的時間概念とは違った流れ方をすると言うところでとどめておきます。



未来に向かって一方向に流れる物理的時間は全ての人にとって同じ時刻を共有していると思われていますが、時間についての考え方やとらえ方は、人それぞれなので、時間は客観的なものではなく、個人に帰属するのではないかとも思えます。



そこで時間について、誰がどのように考えていたのかをまとめてみます。

多種多様な考え方があるということは、時間とは客観的なものではなく、主観的なものであると結論付けたいと思います。



カントの時間に対しての考え方

時間・空間は現象に依存する規定ではなく、現象そのものを可能ならしめる普遍的条件であり、外的な現象の根底に必然的にあるアプリオリ(先見的)な表象である。

人間の直感は、必然的に時間・空間の中で働かざるを得ない。

それゆえに時間と空間は人間にとって根本的な直観の形式である。

人間の直感は、時間・空間の枠組みの外に出ることはできず、時間・空間という規定された、枠組内でしか、直感することができません。

ゆえにカントは、時間・空間を直観するための根本形式であると言ったのです。

そして時間と空間は、他の条件や経験、考え方などに左右されることがないので純粋直観と述べました。



キリスト教父・アウグスチヌスの時間に対しての考え方

もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。

なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、ないものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。

過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?
また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。

現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。

時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。

過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。

すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは現在の期待である。

私は時間を測ることを知っている。

しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。

また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。

また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。

それでは何を測るのか?

現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。



シュタイナーの時間に対しての考え方

存在の本質が物質の世界に現われた瞬間に時間が始まる。

時間はいつ始まるか?

それは本質が現象化する瞬間である。

時間のプロセスの中で、本質が次々に顕現していく。

物質界に自らを現すのと時間が始まるのは同じだ。



ブラバッキーの時間に対しての考え方

空間とは空虚な何かではなく、力に満ちた実態である。

空間は存在への意思である。

そこに何か存在がある時、存在しようとする意志が働いている。





時間論も認識論同様、非常に難しい内容を秘めています。

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posted by ガンちゃん at 04:42 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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