2017年10月01日

哲学以前の根本論

哲学以前の根本論


人間の認識できる世界は、肉体に備わっている感覚能力の範囲内に限定されています。
カントは、人間による理性認識は五感から得られる経験的な認識の範囲に限定をかけてきました。
それを超えた世界に関しては、確認することができないため、客観的に証明をすることができません。
客観的証明が不可能なものは学問として成立しませんから、哲学の対象を人間の認識でわかる範囲に絞り込んでいます。
カント哲学は、観念論哲学といわれていますが、認識の出発点が経験にあるという意味で、完全なる観念論とはいえない面があると考えます。

感覚器官を通して経験的認識と理性認識が対応関係にあるということは、五感を超えた六感や七感が肉体の機能として備わっていたとすれば、我々が体験する世界が全く違った形で展開する可能性もあるということです。

シュタイナーは自由の哲学のなかで、次のように書かれています。
「経験人間がこれまでの感覚以上の感覚を持ったならば、あるいは、そもそも人間に別種の感覚器官が与えられているとするならば、世界はまったく別の姿をとって現れてきます」

人間が観察できる範囲は、人間の身体組織に属する感覚器官に働きかけるものに限られます。
ですから身体組織の制約を受けた知覚内容が、絶対に正しい価値基準と思うところに、認識の過ちが潜んでいるのかもしれません。

どの知覚内容もそこに潜んでいる現実の一部だけしか与えてくれません。
つまり、感覚器官を通して入ってくる情報は断片的なものであり、事物の本質を知ることができないのです。

私達は、観察を通して知覚内容を得ることができます。
しかしその知覚内容は、無秩序で整理されていません。
そのバラバラで無秩序な知覚内容を統一的にまとめ上げるのが思考の役割です。

知覚内容は思考を通して概念と結ばれます。
概念から照らされる光によって初めて知覚内容に意味付けがされます。

しかし真実の世界は、カントがいう感覚器官を通して経験できる範囲の先にあるものです。

それが、宗教です。
宗教とは、目に見えない神仏について語り、神仏の説かれる法を語り、人々を霊的世界に導く力でもあります。

真実の宗教は、愛の教えを説きます。そして自分が犯した過ちに対して反省を説きます。
なぜでしょうか。
それは人間の魂は偶然に発生したものではなく、仏や神の愛によって創られた存在であるからだと思うのです。仏や神の慈悲(愛)によって誕生し、生かされている存在であるからこそ、人間にとって一番大切なものを最初に学ばなければいけません。
それが、「愛の教え」だと思います。

しかし、肉体に宿った魂は感覚器官の制約を受けていますから、神や仏の存在を手に取るように確認することができません。
だからこそ人間には、尊い存在に対して謙虚になり信じることができる本能というべきもの、信仰心が与えられているのだと思います。
人間が人間である理由は、「五感で感知できるもの以上の尊いものを理解し、それに基づいて行動できるという点にあります。この本能が人間を人間あらしめているのです。」繁栄の法より

尊いものを信じることができる信仰心は、人間にとって哲学以前の根本論ですので、正しい宗教を信じ、その教えに基づいて自分を統御し、行動するという行為は、哲学を包含しつつそれを超えたものであると自分は思います。


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posted by ガンちゃん at 06:24 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月27日

宇宙樹と人間の関係

宇宙樹と人間の関係

人間と宇宙論の関係を考えてみます。
人間原理宇宙論という理論があり、人間の意識と宇宙とはお互いに依存関係にあるという考え方です。
人間が観測したとき、はじめて宇宙は実在する?といった量子力学の哲学的な側面、純粋思索から生まれた考え方です。
「宇宙は、観測者である我々人間に依存してはじめて存在する」といった、一瞬不可解に思える結論です(もちろん人間原理が全くのナンセンスと考える人の方が多いことは承知しています。)

一般的な科学的世界観によれば、この世界は客観的現実であり、たとえ観測者であるわれわれ人間が存在しなくとも、世界は厳然として存在します。

古い哲学的命題にこういう話があります。
「森の中で木が倒れましたが、あたりにはそれを聞く人が誰もいませんでした。はたして、木は倒れる音を発するでしょうか?」
この問いに対する科学的な回答は常にこのようなものでした。
「森で木が倒れたならば、必ず音を発し、大気中に音波が伝わると・・・」
しかし、量子力学では、観測されないかぎり何事も客観的には実在しないとして、この仮定に疑問を投じてくるのです。
例えは、1個の電子が粒子として、あるいは波としても観測されます。
なぜ、1つの電子が波としての性質と粒子としての性質を有しているのでしょうか。
波として観測されるか、粒子として観測されるかの違いは、観測装置をあらかじめどちらに設定するかによって決まってきます。
しかし、私たちは1個の電子が同時に波であり、粒子ではありえないことも知っています。
波は粒子ではなく、粒子は波ではないからです。

意識ある存在(人間)がどちらの実験方法を選択するかによって、1つの粒子の性質が変化します。
それは、1つの実在は観測者(意識ある存在)が実験方法を選択することによって、観測結果が違ってくるということを意味し、実在は意識ある存在に依存していることを意味します。
客観性という言葉の持つ意味を再検討する必要があるということかもしれません。


観測という行為が可能なのは唯一「意識ある存在」のみです。
つまり、宇宙は観測されなければ存在しない。そしてそれを観測できるのは、意識ある生物だけであります。
ですからそこに、生物が存在するから宇宙があるといった考え方です。

もしかしたら、物質と精神作用との間に実際的な、「共生関係」が存在する可能性が指摘できるのではないかとも思えます。

もし、大宇宙神霊意識と人間の意識が相互に影響しあうとすればどのようなことが起きるのでしょうか。
人間の考え方や想いが、大宇宙神霊意識が思われる方向性と違う方を向いていたら、宇宙全体の調和を乱すことになるのではないでしょうか。
地球は地球として独立した星というのではなく、地球に住む人類の考え方が間違ったならば、それは他の星や宇宙にも悪影響を及ぼすのかもしれません。

人間の意識あるいは思いの方向性が、神仏の目指すべき意志と一致すれば、宇宙の進歩発展と調和に貢献したことを意味すると思います。

人類の意識が神仏の願いと反対の方向を向くのであれば、個人や人類の反作用のみならず、宇宙の調和を乱す作用が働きます。

地球人であろうと宇宙人であろうと、1つの宇宙に存在する意識ある生命体は、それぞれ独立した存在のように思えますが、実は互いに影響し合う存在であるというのが、昔から語り継がれてきた宇宙樹の意味だと思えます。




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posted by ガンちゃん at 19:35 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする