2017年04月10日

地球人の身体構造と霊流及び動物型宇宙人の関係について

地球人の身体構造と霊流及び動物型宇宙人の関係について


人間は生まれる前に両親を自分自身が選んでくるといわれています。
人智学のシュタイナーも、人間は両親を選んで生まれてくるという見方をしています。
つまり、子どもの魂は地上に生まれてくる前に、自分の素質を生かすのに相応しい身体を提供してくれる男女を選んで生まれ変わってくるということです。

しかし、シュタイナーは親が提供しれくれる身体は、完全に魂と一致するわけではないので、徐々に自分の魂の傾向性に合った身体に作りかえていくと述べています。

生まれてから約7年間は生命エネルギーが身体形成に使われるので、この時期にこの霊的パワーを知育に用いると、あるいは、知育教育の比重がたかくなると虚弱体質になってしまうとのことです。

幼い時の記憶がないのは、思考に使われるエネルギーが、身体形成に使われるためであると考察しています。


今日の科学が主張しているような意味での遺伝は、生まれてから7歳ぐらいまでに当てはまると言えます。
そして、7年を過ぎたころから、自分の魂の傾向性にあった身体に作り上げていきます。

ですから、生まれてくる子供の魂の傾向性(周波数)と両親の傾向性(周波数)がある程度、同じでなければ、魂が身体に宿ることは難しいのかもしれません。

子供の身体は生まれてから数年間は、親の遺伝の影響が大きいのですが、それ以降は、本来の魂の傾向性にあった身体を作り上げていくということです。

更に、人間のなかでは、動物が有する特性が少しずつ総合的に調和されて流れているといいます。

人間は動物が持っているすべての特性を少しずつ持っているとはどのような意味なのでしょうか

虎には残忍さがあります。
人間は虎ほど残忍であるとはいえませんが、いくらかの残忍さがないとはいえません。
人間はライオンほどの威厳はないかもしれません。
しかし、いくらかの威厳はあるといえます。

人間はあらゆる動物の特性を総合的に含んでいます。
動物界は拡散された人間であり、人間は収斂された動物界であると言えるかもしれません。

しかし、その人間の身体に宿る精神、魂は、その総合的動物の特性を乗り越えて高次なもの、あるいは神仏をもとめるように創造されていると思います。
人間の尊さは、総合的動物の特性をもつ身体の支配を振り切って、精神的なものに目覚め、神性あるいは仏性を輝かせることができるという点にあると考えます。

ところで、宇宙人の種類には、地球に生息する動物型や爬虫類型等が多いことに気づきます。
この事実をもってダーウィンの進化論など、子供だましであることがわかるのですが、なぜ、地球に生息する動物等に似ているのか不思議に思っていたのですが、単純に考えて結論付けると、地球に存在する動物は、はるか太古に宇宙から飛来した宇宙人が地球において退化し、現在に姿になったと考えることができます。

そのような宇宙人の特性を総合的に内包し、調和している姿が、地球的人間の姿かもしれません。
もちろん、主が人類を創造されたのですが、総合的に調和され進化した姿が人間であるという可能性もあると考えます。

先ほど、魂が肉体に宿るには、ある程度傾向性が一致していなくては難しいのではないかという仮説を立てましたが、現在、宇宙人が人間の身体に宿る(この場合、地球神の許可が必要)、あるいは、ウォーク・インできるということは、地球人の身体の特徴が宇宙人の魂の周波数と許容範囲内で一致しているからではないかと思われます。






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posted by ガンちゃん at 01:33 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月02日

形式にこだわると争いが生じる 宗教の本質は愛である 

形式にこだわると争いが生じる 宗教の本質は愛である 


イスラム教は、偶像崇拝を否定します。
また、ユダヤ教においてもモーゼは偶像崇拝を否定しました。

しかし、偶像崇拝を否定した本当の意味とは何かを考えてみますと、人間には仏性や神性があるという点で、本質的に神と同じものがありますが、だからといって神ではありません。

偶像崇拝を否定する本来の意味は、人間が神と同じように、同列に見られる恐れがあり、神に対して畏敬の念をもつ必要性を感じなくなる可能性があるからだと思います。

ある意味において、形だけを守ることに重点がある宗教は、知らず知らずのうちに唯物論的な考え方に影響を受けているように感じます。

仏教の宗派の一つに座禅を中心に進めるところがありますが、形のみで中身があるとは思えません。
形だけを見れば、仏陀も座禅をしていましたが、ただ座っていただけでないことは明らかです。
瞑想して霊天上界と交流していたのでしょう。

ですから、偶像崇拝自体が間違えというわけではなく、心から神に対して信仰心があると言えますか、畏敬の念をお持ちですかという点が大切なのだと考えます。
偶像をみたら破壊する行為は、明らかに間違えであり、神の御心から離れています。

世界の三大宗教である、キリスト教・仏教・イスラム教の教えは、本来、根源の神から降ろされた教えであると教わっています。

その根源には、愛と慈悲と智慧の神である主エル・カンターレという御存在がいます。
主は多様な教えがあることを「よし」とされています。
なぜ、多様な教えがあることを善としているのでしょうか。
それは、自分が正しいと思っている教え以外にも、神の正しさを有している教えがあり、そのような多様な神の教えを学ぶことで、無限に進歩する可能性があるからだと思います。

しかし、哲学的には人間の認識力に限界がないと説いている哲学者もいますが、一般的に言って人間の認識力には限界があると考えていいと思います。
ですから、他の宗教との違いに関心が集中して、共通点を見出し理解し合うということができませんでした。
理解ができないということが憎しみに変わり、相手を否定する行為につながっていったのでしょう。

仏教には転生輪廻の思想が確立して、当然のこととして仏教徒たちに受け入れられていることでしょう。

ところがキリスト教には転生輪廻の思想が、聖書を読む限りにおいて明確に説かれているとは思えません。
しかし、よくよく聖書を読んでみると、転生輪廻の思想がなければ成り立たない会話があります。
「イエスが弟子たちと、ピリポ・カイザリアの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、『人々は私を誰と言っているか』。彼らは答えて言った、『バプテスマのヨハネだと言っています。また、エリアだと言い、また預言者の一人だと言っている者もいます』

上記の会話は、転生輪廻を前提として受け入れていなければ成立しないと自分は考えます。
おそらくキリスト教が国教になる時点で、転生輪廻の思想が削除されたのではないかと考えられます。

正統派といわれる教会は転生輪廻の思想を異端として退けてきましたが、実は、教えとして十分に残っていなかったことが原因であったということです。

ですから、仏教とキリスト教は相性がいいのです。
というよりイエス様は仏教の教えを学んだといわれていますから、キリスト教には仏教の教えが含まれているのです。
グノーシス派では、人間の悩みの原因を智慧の不足と考えていたようですが、仏教においても苦しみの原因は、真理を知らない無明が原因であるといわれています。
キリスト教の愛の教えと仏教の慈悲は同じものでしょう。

仏教とキリスト教は融合可能な宗教です。

しかし、ここで『われ以外、神なし』と言った霊存在がいます。
この霊存在は、ヤハウェといわれていますが、ヤハウェはアブラハムであり、ルーズベルト、フビライ・ハンといわれる霊存在です。

われ以外に神がいないということは、必然的に他の宗教の神は偽物であるということにつながります。
これが、宗教同士で争いが絶えない根本的原因であると考えられます。
信じれは信じるほど骨肉の争いに突入します。

宗教間の争いは、神の責任ではなく、神の教えを正しく理解できなかった人間側の認識力の問題であるともいえます。
宗教間の争いを思想レベルで統合し、止揚統一できる宗教は、幸福の科学の教えであります。
思想レベルで融合し、具体的力によって教えを広めることが地球レベルの平和につながるものだと信じる者です。

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posted by ガンちゃん at 02:44 | Comment(2) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする