2018年06月14日

五感で感知できない存在がいても別に自然法則に反したりはしません

五感で感知できない存在がいても別に自然法則に反したりはしません

以前「心霊と進化と」アルフレッド・R・ウォーレスを読んだことがあります。

自然淘汰の第一発見者であるウォーレスは、同時に熱心な心霊研究家でありました。

進化論といってもダーウィンの進化論とは、探求される方向性が全く違います。
感覚器官を通して確認できない、知的生命体や霊的世界に関して、努力に努力を重ねて、探究されました。

ウォーレスは以下のように述べています。
「厳密な事実の検討から私は、第一に、宇宙に人間を超えた、発達程度を異にする知的存在がいること、第二に、その知的存在の中には、人間の五感では認知できないにもかかわらず物質に働きかけることができるものがいて、現に、我々の精神活動に影響を及ぼしているという、二つの結論に到達して・・・・・」

スウェーデンボルグも同じ内容を述べられていたと記憶しています。
私達は、目に見えない世界からの影響を受けている存在です。
憑依という現象があります。
自分で考えて行動しているようでありながら、実は霊的存在によってコントロールされているということが現実としてありうるということです。

感情の部分、欲望や怒りの心に同通して、本人の感情を増幅し操ろうとしているのでしょう。
感情の領域が増幅することで相対的に理性が弱まるので合理的判断能力が低下しますから、正しい判断ができなくなるのでしょう。


現代の科学者や哲学者が否定するその陰で、霊的存在は暗躍しています。

もちろん霊的世界には高級神霊が存在しますが、地上における影響力という観点で考えてみますと、低級霊や地獄霊の人間に対する影響力のほうが大きいと言えるでしょう。
なぜなら、地上における物質的波動と地獄界の波動は周波数が近いからです。

しかし、事実は事実、真実は真実であり、いくら現代的知識人が、確たる証拠もなく、霊的世界や高級神霊を否定しようとも事実を変えることはできません。



1848年から始まる、心霊主義、スピリチュアリズムの運動から1980年代の幸福の科学の発足に至るまで霊的革命が継続されています。
「客観的に証明のしようがないという理由で、学問的対象から外して、一切、認めない」とする考え方は、限定された狭い範囲内での断片的な認識でしかありません。

唯物論的な知識、思想を基本として持っている哲学者や精神外科、科学者は、自分は賢くて、宇宙の真理に通じていると思っているのでしょう。
しかし、地上において賢いといわれている人達であったとしても、真理に対して無明であるならば、死後、自分が死んだことすら理解できないで、さまようことになるでしょう。

ましてや、そのような人たちは、自分は頭が良いと錯覚していますから、誰が説教をしても聞かないでしょう。
おそらく救いようがないということになります。

ウォーレスは、「人間の五感に感知できない知覚をもつ存在があっても、別に自然法則に違反することにはならないであろう。そうした超人的知的存在がもし証明されれば、それはいかに我々の五感が、宇宙の限られた部分しか認識していないのかを示す新たな、そしてより強力な証拠を提供するにすぎない」と述べています。

本来宗教は、政治経済、哲学、思想、科学等、すべての学問を内包したものなのです。

すべては、霊的世界における善悪の価値基準に基づいて学問が再構築されるべきだと思えます。


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2018年06月11日

仏説・正心法語と慈悲

仏説・正心法語と慈悲

仏説・正心法語の真理の言葉「正心法語」の内容と慈悲の関係について考えてみます。

正心法語には
『大宇宙に光あり 光は仏の生命なり 生命によりて人は生き』とあります。
宇宙に発生した光は始原の光であり、それは仏の生命であると同時に、その光のエネルギーによって人を含めたすべての存在が生かされていると考えられます。

その光は地上における電磁波(光)とは違うと考えられますが、その霊的光の供給によって人間を含めたあらゆる動植物は生かされているのだと思われます。

その霊的光の供給こと慈悲と呼ばれているものだと思います。

その仏の慈悲がなければ、あらゆる生命及び鉱物はその存在の根拠を失い、すべては消え去っていくことでしょう。

人間は自己中心的になると、自分は勝手に生きていると考えるものです。
しかし、人は自分一人の力だけではその生命を維持することはできないです。
生命とは地上の肉体における命だけではなく、霊的生命をも含みます。

人間は仏の慈悲によって生かされた存在であると考えます。
自分が好き勝手に生きていると思うか仏の慈悲により生かされていると思えるか、どちらの考えを選択するかで、天国に行くか地獄に落ちるか決まってくるのではないかと思います。

『光 分かれて七色の 虹は天空 地に架かる 仏の慈悲は広がりて』とあります。
七色光線の説明がされていますが、光りが分かれて9次元の七色光線に分光したとするならば、光が分かれる前の大宇宙に光ありの「光」とは9次元より高い次元でなければならないはずです。
その9次元に分かれる前の光りは、『仏の生命なり』とあるので、必然的に仏の存在は10次元以上ということになるのでないでしょうか。

人間は、仏の生命によって生かされていると同時に、仏と同じ光を心の奥に内在している存在でもあります。
仏と同じ光を心の奥に有しているからこそ、愛や慈悲、無我の思想が大切になってくるのです。

もし、人間という存在が唯物論者の考えているように死んだらおしまいであるとか、人間機械論のように肉体がすべてとするならば、愛の大切さや、目に見えない人間としての素晴らしさすべてが、意味のないことになってしまいます。

『自他は これ 別個に非ず 一体なり』であるからこそ、愛の大切さが導かれてくるのです。

すべての人間が魂の奥に仏性あるいは神性を宿しているからこそ、愛の発展段階説によって人間は仏に近づいていくことが可能であると思うのです。

自と他の関係や自分と世界の関係を考えるだけではなく、自分自身の内に深く穿ちることが大切であるといわれています。

自我が固まった状態とは、湖面に大きな波が立ってその波が個性をもっている状態と説明されています。
波であるなら必ず周波数があり、その周波数の違いが個性の違いとして表現されているのかもしれません。
その大きな波が静まって湖面全体が一つになるような澄みきった状態が無我の境地であるといわれています。

慈悲とは、無我の境地のように自分とすべてが孤立した状態ではなく一体と思える状態かもしれません。

慈悲は地球の力であり、悪い宇宙人や地獄の悪魔から私達を守ってくれる力でもあります。



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