2017年09月13日

日本仏教の問題点

日本仏教の問題点

ゲーテは、「本当の宗教はただ二つしかない。そのうちの一つは、われわれの中および、まわりにある聖なるものを、まったく形をはなれて認め、敬う宗教であり、もう一つは、もっとも美しい形において認め、敬う宗教である」と述べています。

聖なるものを、まったく形を離れて認める宗教は、基本的に教義、教えがある宗教で、この教えに則って教学を学び深めていく過程で、自分自身の認識力が高まり、宗教的人格が形成され、その徳の力で周りの人を感化していくような宗教だと思います。

もう一方の、美しい形において認め敬う宗教とは、信仰の対象を通して、霊的につながることを意味していると考えます。
マリア像やイエス・キリストの像に対してお祈りをしたり、仏像を拝んだりすることで、信仰を深めていく宗教形態であると考えます。
教学をしっかり学ぶ智を中心とした宗教というよりは、信心を中心とした宗教であると思います。

日本人の持つ宗教意識あるは宗教観とは、どのようなものなのかを、渡辺昭宏氏の著書を参考にして考えてみます。
御経を毎日読んでいる僧侶が、いったいどの程度、内容を理解している定かではありませんが、日本の仏教教団の特徴は、経典の内容を理解するためのものではなく、儀礼に用いるのが第一義であるようです。形式に重点が置かれ、内容を理解し自分のものとして昇華するものではないようです。

日本に伝わる以前の本来の仏教とは、どのような宗教だったのでしょうか。
信仰の対象として考えられるさまざまな姿をした仏陀は、『智慧』と『慈悲』とを根本的な特質とするといわれています。
すべての生きとし生けるものが救済の対象になります。本来、仏教は解脱の宗教と認識されていますが、救いの宗教でもあるのです。

日本の仏教は、自助努力し智慧を完成し解脱する方向には向かわずに、救済の方向に向かいます。
救済の方に向かえば、そこには他力信仰がでてきます。

自己の努力によって自分の理想を追求するというものではなく、人間をこえた存在(仏陀や神、菩薩、天使)の慈悲によって救済されるという思想です。

ただ、インドの文献によると、他力による救済は決して窮極的なものではないとのことです。
信仰によって浄土に生まれるとすれば、それで最後の理想に達したということにはなりません。

ところが仏教が中国に伝わると、別の来世観がでてきます。浄土に生まれること自体が窮極的な理想という考えも出てきました。

その思想が日本に入ってくると、さらに簡素化されて、生理的な死と、極楽浄土と、成仏の三つが混同され、しかも僧侶の営む宗教儀礼によってこれが実現されることになりました。
死人をホトケといい、読経や念仏をもって菩提をとむらうというような言い方が、何の疑念もなく受け取られるという点まで堕落しました。

人間の理想実現の追求という仏教の根本理念が、死霊の儀礼という行事にすり替えられてしまいました。

一般的に日本人は宗教的体験を内面的実質的に求めようとせずに、形式のうえで把握しようとする傾向があると思えます。
仏教の教義や倫理観、生活態度を学ぶより先に、寺院を建て、仏像を作り、儀礼を営むことを覚えました。
日本人は外観や形式を覚えることに関しては異常なほどの才能を示しました。
外観に見合った内面性や教義、倫理観がともなっていなかったので必然的に形式主義がはびこっていったと考えられます。

仏教の基本教義は、『三法印』といわれています。
第一の法印は、諸行無常です。
すべての存在は、河の流れのように時間の流れの中で変化し続けていき、変化しないもの固定的なものはありません。存在は無自性で滅びを内包しています。

第二の法印は、諸行無我です。
もの自体は、単一で成り立っているものはありません。すべては、他に依存しながら存在しているのであり、自立的なものはありません。すべては無常であり、移り変わり消滅していきます。すべてのものの中に永遠に自己同一性を保ち続ける本質、実体はありません。すべての存在は無我であります。

第三の法印は、涅槃寂静です。
すべての修行者の目標とすべき到着地点は、この涅槃と言われています。解脱が束縛からときはなれた自由の境地であるとするならば、涅槃は平和の境地と教わっています。

仏の三法印は仏教の旗印と言われています。

そして、空の悟りを知っていくための修行論が展開していきます。
仏教の修行とは、「戒・定・慧」の三学です。
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。智慧を得ることでこの世的な束縛、執着を断ち切る力を得る。沈黙の仏陀 参照
正当な仏教であるかどうかの判断は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印と修行論の戒・定・慧の三学が説かれているかどうかで判断できると思います。

三宝印と修行論を判断基準にして、正当な仏教かどうかの見分けがつきます。

法華経教団は、日蓮大聖人が仏陀より偉い位置付けと考えていますが、間違っています。
仏教を説かれた仏陀より、日蓮のほうが立場的に偉いということはありえません。

仏陀は、「南無妙法蓮華経」を朝から晩まで唱えることで、人間としての真実の幸福を得るとは言われませんでした。

南無とは、尊いものに帰依するという意味で、妙法とは妙なる教え仏法のことです。蓮華とは、あの汚い泥沼に咲く美しい蓮華、教とは教えという意味です。
「あの泥沼にさく美しい蓮華のような尊い仏法に身も心もささげます」というような意味だと思います。
何回何百回と南無妙法蓮華経を唱えても、苦しみの原因を取りのぞかない限り、苦しみはなくなりません。
苦しみの原因を八正道という正しさの基準に照らしながら、誤った思いや行動は反省することで軌道修正しながら人生を渡っていきなさいという教えが仏陀の真意であると考えます。



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posted by ガンちゃん at 14:17 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月11日

愛を与えるということ その2 現在進行形の宗教が非常に大事である理由

愛を与えるということ その2 現在進行形の宗教が非常に大事である理由


唯物論の延長にある研究や技術は日進月歩の世界に生きています。
しかし、哲学者や宗教家は遠い過去の存在のように認識されているのではないでしょうか。

現在進行形の正しい宗教は非常に大切であると考えます。
現在進行形で生きている宗教が光を放ち、人々を輝かせているということが非常に大事な時代を迎えています。

「人はなぜ殺してはならないか」ということに宗教指導者が答えられないということが、オ○ム真理教のような人殺しをしても恥じない宗教団体が存在できた理由です。
宗教学者は、見える範囲内で過去の宗教と照らし合わせて、正しいかどうかの判断をしているのではないでしょうか。
しかし、一番大切なのは形式的なことより、教えの中身であるはずです。
法の中身を判断できない人が、宗教学者をやっているような時代です。

オ○ムの指導者も上記の宗教指導者と会っています。
お互いに善悪の区別がつかなかったということなのでしょう。

邪悪な結果がでるまで、邪悪な魂だということを見抜けていません。
その宗教指導者には正しい意味における霊感がないと思えます。
言葉としては仏教用語を述べているかもしれませんが、本当に深い瞑想に下り霊的本質を観ることができなかったのでしょう。

心の話は目に見えず、言葉でしか表現できないので、人々に理解させるのは非常に難しいことだと思います。
たとえ、言葉で表現しても、その奥に霊的なるものを実体験としてつかんでいるかどうかが、非常に大きな力になると思えます。

次に、宗教の世界が世俗法で裁かれない理由を考えてみます。

世界の宗教において、奇跡のなかにはトリック、大げさに吹聴されたもの、つくられたものも数多くあると思います。(例:サイババ)
これを全部剥ぎとっていったら、真実のものは一割残るかどうか定かではないかもしれません。

一方、この世的な法律で判断してはいけないものがあることも事実です。
例えば病気治しは古代から宗教ではやっているので、おかしいことではないのですが、医師の資格を持ってやったかというと何かおかしい感じになります。
宗教活動そのものの中に、現代の法律と様々にぶつかる面はあると考えられます。

行動や結果に基づいて裁くのが世俗法であり、思いの善悪を厳しく見つめるのが宗教の使命であると思います。

一概に論評するのは難しいのですが、宗教が現世的な法律の適用を受けるべきではないという理由は、現世的な法律とは、あくまでも人間の行動や起こした結果に基づいて、悪とみるかどうかを判断しています。

ところが、宗教の世界においては、イエス様が言った通り、心に思ったことでも罪になります。
これは現代人には理解不可能のことであると思えます。

霊的世界においては、思い即行動であり、思いは即その人物。「人を殺したい」と思ったら、思い即攻撃であり、思いにおいて罪になります。

逆にいえば、思いにおいて善念を発信している人は、すでに善なる行為をやっているのと同じであるといえます。



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posted by ガンちゃん at 01:37 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする