2017年03月13日

悪魔の攻撃パターンを分析する

悪魔の攻撃パターンを分析する


宗教や神秘学でも言われていると思いますが、悪魔が最初にする仕事は、霊的なものから人間の関心をそらそうとすることです。
「目に見えない霊的世界」、「人間の本質は肉体に宿っているところの魂である」このような霊的真実を嘲笑しあざ笑うように仕向けてきます。

これは、現代に蔓延している唯物論的価値観であると言えます。
目に見えないもの、科学的証明が不可能なもの等、すべては肉体的感覚を中心とした考え方で物事の価値を決めようとします。
これらは、すべて人間を有限な世界に閉じ込めた世界観であり、人間を最終的に堕落される方向に向かわせることになるでしょう。

このような物質がすべてとする唯物論的考え方に人々を引きずり込むという攻撃パターンがあると思います。


聖書には、イエス様が40日40夜、荒野において悪魔の試みを受けています。
イエス様は断食をし、空腹になられていたと聖書に書かれています。
その時の悪魔は、イエス様を誘惑してきます。
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石をパンになるように命じてごらんなさい」
と誘惑してきます。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口からでる一つ一つの言葉で生きるものである」
とイエス様は切り返します。
更に悪魔は、イエス様を聖なる都に連れていき、宮の頂上に立たせて、「もし、あなたが神の子であるなら、下へ飛び降りてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手で支えるであろう』と書いてありますから。」と誘惑してきます。
ここで確認しておかなければならないことは、悪魔も聖書の言葉を引用するということです。
現在でも宗教的悪魔は、生半可な宗教用語を使って誘惑してきます。
「主なるあなたの神を試みてはならない、と書いてある」とイエス様は切り返します。
次に悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れていき、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言います。
「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と誘惑します。
「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を排し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と切り返します。

これらを読んでみると、悪魔の攻撃パターンが見えてきます。
それは『誘惑』です。
地上的喜びや快楽を餌に、修行者を堕落させようとしていることが明らかに見て取れます。

更に、仏典や仏陀の証明には悪魔の軍隊の諸相が書かれています。
順に書いていきますと、「欲望・嫌悪・飢渇・妄執・ものうさ・睡眠・恐怖・疑惑・みせかけと強情・誤って得られた利得と名声と、自己をほめたたえて他人を軽蔑すること」です。

信仰心が確立し、教団内部が固まってきますと、こんどは外部からの攻撃が開始されます。

スンダリー事件とチンチャー事件です。
教団を貶めようと、いろいろな画策をして、世間の信用や信仰心をぐらつかせようと働きかけてきます。

イエス様の場合、ユダがイエス様を試そうとして、わずかな金銭で主を裏切りました。
ユダの裏切りによって、外部の敵を引き寄せてしまいます。

このようにみていきますと、悪魔の攻撃は大きく分けて二種類あると言えます。
一つは、直接的攻撃、間接的攻撃です。
二つ目は、誘惑です。
攻撃をしかける悪魔は、人間に不安・恐怖を与え、精神性を否定したいという思いを引き出そうとします。ゾロアスター教の闇の神アーリマン的存在でしょうか。

誘惑する悪魔は、人間を夢想や官能の世界に引きずり込んで、霊的世界から目をそらせようとします。
アダムとイヴを誘惑した蛇、堕天使ルシファー的存在でしょうか。

これらの攻撃や誘惑に勝つためには、信仰心を手放さないということに尽きると思います。
その信仰心が本物か偽物か試される時があるかもしれませんが、最終的に勝つためには、信仰のロープを手放さないということだと思います。


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posted by ガンちゃん at 01:39 | Comment(4) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

キリスト教に流れる仏教精神

キリスト教に流れる仏教精神

幸福の科学の教え以外にも、神智学・人智学から、仏教の教え及び、仏教とキリスト教の関係を霊的観点から考察しています。

イエス様を霊天上界から指導した存在、西洋文明を霊的に指導している存在、それが仏陀であると喝破しています。
霊天上界に存在するアーカーシャを読み取っているようです。

ドイツ観念論哲学などは、仏陀の指導による啓蒙運動だといえます。


仏陀は、慈悲と愛の教えを説かれ、愛の教えがキリスト教に流れています。
更に仏陀は、教団内において生まれによる身分の差別を廃止しています。
インドには、カースト制度による身分の違いがあり、人間としての価値が決められていました。
一番上の階層が婆羅門という祭司階級、僧侶階級です。
次に、クシャトリヤという武士階級、更に、奴隷階級のシュードラ、それ以下の階級さえありました。

率直に考えて、生まれによる身分によって人間の尊さや価値が決まるのだろうかと疑問に思うところです。なぜなら、努力する余地がないからです。
当時としてはカースト制度が何の疑問もなく当たり前の価値として受け入れられていました。

しかし、仏陀は生まれによる身分の違いによって、人間としての価値、尊さが決まるわけではない。
人間は、その心の在り方と行為によって、婆羅門となり、クシャトリヤとなり、シュードラとなるのであると喝破されました。
人間は自らがなした行為によって偉大なる智に値する者となるのであって、生まれによって偉大になるわけではないということです。

イエス様も、地上的に虐げられた人、身分が卑しいといわれる人に対して非常に優しく接しておられたといわれています。
ある意味で、地上的権威に抵抗していたと言えるかもしれませんが、人間の価値が地上的価値判断で決まるわけではなく、その行為によって人間の偉さが決まってくるということだと思います。

そして、仏教の慈悲とキリスト教の愛が地獄霊及び悪魔に勝つための武器ともなると思います。
仏教では「苦」を説きますが、人間は己自身の苦しみを通して相手の苦しみを理解することができます。
苦しみの世界を理解したとき人間は慈悲の心、他者に対しての愛の気持ちが芽生えてくるのでしょう。

人は、愛や慈悲の心にふれたとき、苦しみや悲しみから立ち上がることができます。

その様な優しい心に、地獄の悪魔達も勝つことはできないと自分は信じています。

また、キリスト教の教えには、転生輪廻の教えが明確に説かれていないという問題点を指摘する考え方もあると思います。

しかし、キリスト教にも努力を伴う修行があります。
「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
人間の自然発生的な感情から、自分の敵と思える人を愛することはできないでしょう。
自分の利害に関係なく、むしろ自分にとって害のあると思える人を愛することは、努力を伴う修行でありましょう。
人間の一生が、死んで終わりならば、なぜ、敵を愛せよといわれるのでしょうか。
唯物論的な考え方からでは、答えはだせません。

人間の命、魂は永遠不滅であり、神の子であるからこそ、敵と思える相手であっても、心から血が流れるまで愛しなさいと言われたのでしょう。

転生輪廻の思想が明確に説かれていなくても、永遠の生命であるということが、人間の生まれ変わりの証明であると自分は考えます。

仏教は八正道、八つの正しい道を説かれます。
人間は生まれたときに、可能性としては平等であっても、平等でないものがあります。
それは、前世においてつくりあげた魂の傾向性という、以前の存在段階で組み込まれたものです。

魂の傾向性の違いが、個性の違いとして顕現することはよいと思います。
しかし、間違った考え方、思いが固定化した状態で、すべてを正しく見ることはできません。


八正道は、いろいろな個性を持った魂が、仏や神の方向を見失わないための正しさの、「ものさし」なのでしょう。

キリスト教の愛の教え、仏教の智慧と慈悲が融合する可能性がある宗教、それがエルカンターレの法なのでしょう。


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posted by ガンちゃん at 02:35 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする