2019年02月11日

不況は悪 日本の発展を阻害してきた人たち

不況は悪 日本の発展を阻害してきた人たち

神様は人類の発展を願われています。
ですから、経済的不況によって人々が苦しむ姿は、何かが間違っているのです。

過去の不況は何が原因だったのでしょうか。

GHQの占領政策が、私有財産を攻撃する左翼的なものであったこと。
さらに戦後のマスコミや教育界が左翼勢力に牛耳られていた為に、国民が富や財産は「悪」であるという考えに洗脳されてしまったのです。

経済をしらない政策であり、人災です。

GHQによる占領政策を説明しますと、例えば、農地改革です。
この農地改革の根底にあったのが私有財産は悪という考え方です。
先祖代々受け継いできた農地を一片の法令によって奪い取り、小作人に分配する。金があるところから法令によって合法的に奪い取り、分配するという考え方は、社会主義政策そのものです。
農地改革を策定し、実行したのはGHQであり、その連中によって日本を社会主義政策の実験場のようにされてしまいました。

彼らは、農地改革や財閥解体、あるいは労働運動の奨励などという「民主化政策」を実行しましたが、実体はというと本質的には民主化ではなく、私有財産の否定、富に対する攻撃でした。

その流れで私有財産を軽視することが、あたかも正義であるかのように思われてしまいます。
戦後日本に富は悪であるという思想的なものが広がった背後には、GHQの影響も大きかったのではないかと思います。

不況の原因は、国家社会主義思想の持ち主が官僚の中にまだ生き残っているからです。
早く死んでくれるといいのですが、教育界では、社会主義を奉ずる日教組が日本の子供達に社会主義思想による洗脳を続けてきました。

それでは私有財産を否定する「悪魔の思想」の根拠となったのは、どのような考えから来ているのでしょうか。
マルクスの労働価値説です。
マルクス経済学では、労働価値説は基本的な真理の立場にあり金科玉条となっています。
労働価値説とは、人の労働には価値の差がないという考え方です。

しかし、現在のような情報化社会における経済学において労働価値説が成りたつわけがありません。
個人における仕事に対しての能力は様々で、能力が違えば、仕事による報酬もまた違ってくるのは当然のことです。

労働価値説が通用するのは、農業や工業などが中心の経済段階の時代です。
農業が主体の経済であれば労働価値説でも十分に通じると思いますが、現代の自由主義国家ではこのような労働価値説などは、まったく通用するはずがありません。
マイクロソフト社のビル・ゲイツが生み出す価値と、普通の労働者が生み出す価値は全く違うはずです。

旧ソ連をはじめとする社会主義陣営はこのような事実は認めようとはしませんでした。
労働価値説という考えにしがみつき、一人ひとりの労働が生み出す価値は平等であるという考えを改めようとはしませんでした。

一人一人の才能には違いがあります。
しかしそのような才能の違いを一切無視するのが社会主義的考え方なのです。

さらにバブル経済が頂点に達した1989年、当時日本銀行総裁に就任した、「三重野康氏」はマスコミから平成の鬼平ともてはやされていましたが、この鬼平がやったのは、高騰していた株価と地価を下げるという金融政策でした。株や土地が高騰しているから、その上昇を抑えるというのでなく一度あがった価値を無理矢理に引き下げるという政策をとっています。

三重野氏が金融引き締め政策を行い、土田正顕氏が総量規制を通達して「バブル潰」をし、平成不況をひきおこしたのです。

このような政策から考えても、この人達の頭の中にあったのは、「国民の資産を減らすことは正義」という思想であったと思います。
土地や株が下がれば、それを持っている人の資産が減ることを意味しているからです。

社会主義的な発想をすて、個人の努力に対して最大限報われる本当の意味での自由主義経済が望まれます。

社会主義的イデオロギーが蔓延していた為に日本人はお金を稼ぐ人、お金持ちイコール悪という考えに毒されてきました。
お金持ちイコール悪という考えの根底には、イギリスの元サッチャー首相が言っていたように、お金持ちに対しての嫉妬心があります。
また、それを煽りつづけてきたマスコミにも原因があるといえます。

本当の民衆の搾取者は、私有財産を否定する国家をつくった連中だったのです。

実際、お金を儲ける人がたくさん出たからといって、誰かが貧乏になったりするわけではありません。
お金持ちがいるからこそ福祉も充実するのです。



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posted by ガンちゃん at 02:35 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月29日

過てる日本の歴史認識を覆し未来に希望が持てる国家 勇気ある政治家待望論

過てる日本の歴史認識を覆し未来に希望が持てる国家 勇気ある政治家待望論


日本が未来に向けて発展繁栄するためには、日本の国民すべてが歴史に対しての正しい認識を持つ必要があります。
日本のすべての人たちが日本の歴史の正しい知識を持つことで、未来に対しての自信につながっていくはずです。

日本という小さな島国に、これほどの多くの神々が降臨するとはどういう意味があるのでしょうか。
このような時代は、地球の歴史上それほどないはずです。
私たちには神がついていてくださるのですから、もっと自信をもっていいはずです。

現代の日本人が歴史に対して自信をもって語ることができない理由は、東京裁判史観にあります。

東京裁判史観それは、日本だけが悪い国である、日本の歴史は汚辱の歴史であるとする捏造であります。
事後法による東京裁判を正当化するために「人道の罪」をつくり、捏造されたのが「南京大虐殺」です。

細川内閣以降、日本政府は中国に何かを言われても反論もできないで頭を下げるだけの腰抜けになっていました。
昭和12年、日本軍が南京を占領したときに30万人以上の中国人を大虐殺したといいます。
しかし、今や「南京大虐殺」は東京裁判のために捏造された虚構であることは、いろんな資料によって証明されてきています。
東京裁判とは、戦勝国が敗戦国を裁くという「やってはならないこと」をやったものであり、裁判とは名ばかりの戦勝国たる連合国にとって不利な証拠は一切却下してしまうという、じつにひどい裁判でありました。
南京大虐殺が行われなかった証拠の一つとして、渡部昇一氏が常に引用する証明法を1つ上げておきます。

東京裁判における最重要証人でありますマギー牧師の証言です。
マギー牧師は南京における膨大な殺人、強盗、強姦、暴行、累々たる屍等について見てきた証言をしました。
ブルックス弁護人は、「殺人行為の現行犯をあなた自身はどのくらいご覧になりましたか」と尋問します。答えは、一件。その一件ですら歩哨に誰何されて逃げた人でありました。
実に30万人という数字の根拠など曖昧であったというしかありません。

日本が南京を占領したとき、30万人の中国人を大虐殺したと、東京裁判が始まった時、米占領軍の意をうけてNHKはじめ日本のマスコミは大宣伝しました。
その後、ジャーナリストや学者で南京大虐殺を蒸し返えし、これは本当だと触れまわった輩が続出してしまったのです。
その為、いまでも多くの人が南京大虐殺を行われたと思っています。
小室直樹 著者参照

渡部氏曰く、「南京大虐殺」について、「戦争中に敵の将兵をやっつけることは当然ですから、虐殺というからには、あくまでも市民の殺戮が問題になるべきです。そこで伺いますが、あなたはいったい何人の市民が殺されたと認識しているのですか」この質問にきちんと答えることができる人は一人もいないはずです。なぜなら、そのような事実はほとんどないからです。
それでもなお無理矢理に「何十万人だ」というように答える人がいたならば、「それはどのような資料から調べられますか」と問えばよい。おそらく誰も答えならないでしょうということです。

虐殺事実の存在を否定する最も優れた研究の一つに、田中正明氏の著した「南京事件の総括」があります。田中氏は15の論拠を上げていますが、いくつか紹介します。

当時の南京の人口ですが、犠牲者が30〜40万人といわれていますが、当時の南京にはそれほどの人口がいませんでした。安全区を管理していた国際委員会の公文書では人口20万人、米誌ライフには15万人、日本軍の捕虜になった中国軍将校の記録では、「非戦闘員10万人」「南京市民20万人」とあり、南京防衛軍5万人とあわせても、どんなに多く見積もっても25万人しかいませんでした。

また南京安全区国際委員会の公文書から人口問題の個所を抽出しますと、日本軍の南京入場後に人口が増加していることが分かります。東京裁判の記録によれば、南京占領後、虐殺、暴行、略奪などが6週間において行われたとありますが、そんな治安の状況下で人口が増えるわけがありません。

他にもいろんな資料が明らかになっています。
日本人は劣等感をもつ必要などなく、日本の歴史に誇りと自信を持って生きていくべきでした。

そうしたことを前提に政治家としての資質について考えてみます。

プラトンの考えを参考にしながら、現在の政治家がどのような点で問題があるのかを浮き彫りにしていきたいと思います。

プラトンは政治家として特徴的な資質を以下のように述べています。
1つは「慎重なる性格」
2つめは「勇敢なる性格」の2点です。

「慎重なる性格は、国内において全国民と平和な精神に徹した交友関係を深めていくとともに、諸外国に対してもやはり同様な方針にしたがいながら、万難を排してある意味での平和外交を貫きたいと願っています。
そして、これほどの平和愛好心というものは、必要限度を超えて間の抜けたものになるのが常です。
この種の人々は自分では気づかないけれど、外部からの侵略者によって蹂躙される寸前に立っています。
そして、ひとたび外的によるこの破局が訪れてきたら、この種の人々も子女も、そして当然その国家全体も、もはや自由な姿のものでなくなって、すべてはまったくの奴隷にされてしまうのでありますが、そうなってしまったあとで自分の非を気付いても後の祭りであることが、諸国家の過去を見るとまことに頻繁に起こっているのだ」

「それに対して、勇気のほうを偏愛する傾向にある人々の場合はどうでしょうか。人々は尚武の気概に満ちた生活を必要以上に激烈に求めたがる欲望に駆られて、自分らの所属する国家を、つねになんらかの戦争をおこなうようにと叱咤教導しつづける結果、多数の強国から憎悪を受けるような窮地にたつことになって、自分らの祖国を完全に滅亡させるか、あるいはうまくいったとしても、これらの敵国に奴隷のように屈従する属国な地位に祖国を没落されるか、そのどちらかの道をたどるものだというのが、むかしからの事実ではないのか」ポリティコス(政治)岩波書店参照 と述べています。

ともに政治的資質としては優れた素質だと思いますが、慎重さも勇敢さも、その両極端に揺れますと、国を滅ぼすことになり、国民を不幸にします。

理想的な指導者とは、慎重さと勇敢さを兼ね備えた人であるとプラトンは考えました。
なぜ勇敢さが必要なのでしょうか。
いざという時に国民を守ることができない弱腰の指導者では、他国の言いなりになり、一国自体が滅ぼされてしまうでしょう。理想国家日本の条件より

プラトンは、慎重な性格や勇敢な性格は大事な素質ではありますが、知識として真理を知っていることが大事であると述べています。

なにが美であり、なにが正であり、なにが善であるのか、さらに、なにがこれらのそれぞれの反対であるかについて、深いところで認識していることが大事であると考えます。

勇気ある魂が、深いところまで真理を理解しているならば、なにをさしおいても国家における正義の顕現活動に参与したいと、さいわいにも願うようになります。
ところが、真理の恩恵に浴さない場合は、正道を逸脱して、野獣同然のすさまじい凶暴性を目指すような邪道への堕落をますます深めていきます。

また、慎重なる魂も、考えの基本に真理をしらなければ、「単純愚直なお人よしだ」という非難されるべき呼び名をつけられることによって、ひろく世間から悪評をうけることになるでしょう。
ポリティコス(政治)岩波書店参照

プラトンの考えの中には「絶対平和主義」という幻想的な考えはありません。どんな時でも戦争が悪であり、武器を持って戦うことを否定するような、愚かな考えなどありません。

プラトンは慎重な性格と勇敢な性格は、ベクトル方向が異なるので、一人で両方の性格を兼ね備えた人物がいない時は、縦糸と横糸が交わるがごとき、慎重タイプと勇敢タイプ両方をバランスよく入れて、彼らが協議して国の方向性を決めていくべきであると述べていたと思います。


現代の日本には、慎重な人もいることでしょう。また、勇敢な人もいると思います。

しかし、仏法真理を知っていなければ判断を間違えて国を没落させることにつながります。

現代の政治家に必要なものは、正しい歴史認識、また、高度な専門知識を有していながらも仏法真理の価値観によって正しい判断ができる人です。
これが私の政治家待望論です。



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posted by ガンちゃん at 19:31 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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