フロイトとユングの違いは、宗教に対する考え方と、霊的体験の違いであると思えます。
ユングの自伝 みすず書房を読むとユングは霊的な体験をしています。
地球即我的な幽体離脱をした、体験談が書かれています。
「私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこに紺碧の海と諸大陸とがみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。・・・・私は地球から遠去かっているのだということを、私は自覚していた。
どれほどの高度に達すると、このように展望できるのか、あとになってわかった。それは驚いたことに、ほぼ1500メートルの高さであった。」
ユングは霊的経験を自分の実体験として、自覚していたのでしょう。ですから、心理学という同じ学問であってもフロイトとユングでは、その意味は全く違ったものであったと思います。
ユングは宗教を肯定する立場、それは自分の実体験を通して確信していたに違いないと自分は思います。一方、フロイトの見解は宗教とは幻想であるという立場で、宗教は必要がない、医者が現代的には宗教に変わって尊敬や信仰を集めているという立場のようです。
心理学は学問的なのでストレートに霊界や魂について語ることは少ないようですが、ユングをあらためて読み返してみると、人間の本質は魂であるという理解をしていたのではないかと思います。
「われわれは肉体的な死を超えて、心の中の何ものかが続いてゆく何らかの可能性があるということができる」と書かれています。宗教的には、肉体が滅びても魂は、霊的世界において永遠に生き続けるということでしょう。
「無意識的な存在が本当のもので、われわれの意識の世界は一種の幻想であり、夢の中では夢が現実であるように、特殊な目的に従って作りあげられた、見せかけの現実なのではないかと示唆している」とも書かれています。
これは仏教的な空の思想に、近い考えであると思います。我々は物質によってできている3次元空間こそ、確かな現実として認識していると思いますが、実は一定の時間の幅の中で一時的に存在している仮の存在であるという考え方が、空の世界観でしょう。
すべては、無自性(自ずからなる性質がない)で他の関係で成り立っています。もし、コップがコップとしての本質は有しているのであれば、コップ以外の役割を果たさないはずですが、コップに花をさせば、コップは花瓶としての役割をします。つまり物質には本質的な実体がなく相互関係で成り立っています。あるいは、他に依存しながら存在しているといえます。
それをユングは、見せかけの現実であると言われているのではないかと考えます。
また、フロイト霊は、マズローの心理学を金儲けと否定していました。
アメリカの心理学者アブラハム・マズローの考え方は、だいたい次のような考え方だと思います。
マズローは欲求という問題について、低次な欲求を満たされると、どんどん高次な欲求が現れてくることを明らかにしています。
低次な欲求とは、食事をするなどの生きていくうえで、最低限の欲求をさします。「生理的欲求」。この生理的欲求が充足されると、身の安全を求める「安全と安定」の欲求が現れ、次に、仲間が欲しいことや、誰かに認められたいという「承認や自尊の欲求」に移り変わり、自分自身をより向上させたいという「自己実現」の欲求に移行するとしています。
フロイト霊はマズローを簡単にあしらっていたような印象を受けましたが、フロイトのすべての原因を性欲にもってくる考え方は、マズローの欲求段階説で見ると一番低次な「生理的欲求」に分類されるのではないかと思えます。
フロイトの精神分析はマズローの段階説と比較すると一番低次の欲求になるので、フロイトにとっては都合が悪いということになるかもしれません。
また、フロイトはイエス・キリストを否定していましたが、ニーチェもイエス様を完全に否定していたと思います。
フロイトの内面は、性欲という認識の枠組みが出来上がっており、感性を通して入ってくる情報を、フロイトの内面、概念と結びつけることで、すべての原因を性欲にもってきているような感じもうけます。
いずれにしても、フロイトの負の影響は、現代において学問的な領域にかなり広がっていると思えます。
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