仏教学から観た「幸福の科学」分析を読んでの自分なりの教訓、学びについて書いてみます。
霊言がでる以前から2人の著書は、それぞれ何冊か読んでいました。
2人とも仏教学者として、自分にとって非常に参考になり勉強になったと思いますが、死後においての行き先に大きな差が出てしまいました。
この世的な評価や権威、名声がストレートに霊界においては通用しないということだと思います。
これは地上における価値判断基準と霊界のそれとは、ちがう物差しで測られるということを意味しているのでしょう。
以前、同じ川の水を飲んで、牛はミルクをつくり、蛇は毒をつくるという教えを学んだ記憶がありますが、同じ教えを学んでも人それぞれ理解の仕方が違うということでしょう。
同じ真理を学んでも理解の仕方によって、謙虚になる人もいれば、反対に真理を知っているという自惚れが自我を拡大させ、真理を学んでいない一般の人以上に傲慢になる人もいます。
2人の違いは時代の価値観に迎合して唯物的に仏教を解釈した人と、信仰心や仏陀の威神力を理解したうえで仏教を解釈した人の違いであったと理解しています。
信仰心がなく、知識のみで仏教に限らず学問をした場合、勉強すればするほどその知識が悪い意味でプライドとなり、素直な心から遠ざかってしまうのかもしれません。
余談ですが、公開霊言で地獄に落ちた人達を観察しますと一定の共通点、共通項を見いだすことができるのではないかと思います。地上的には一定の評価をされ名声や権威を得ていますが、その名声が霊界においては地上と違う価値判断がなされ、普通の地獄よりも深い無間地獄に落ちています。
そしてその発言も質問や状況によってコロコロとかわり、考え方に一貫性を見出せません。嘘をついても何の良心もとがめることなく、言葉づかいにおいても人を責める傾向を見受けることができます。
また、人には反省をしつこく求めるのに、自分自身は絶対に反省しないという矛盾もあります。
このような公開霊言を拝聴させていただきますと、私自身もどこまでできるかは別として、一生を通して謙虚になり、上記で書いた反対を目指して努力しなければいけないと反省させられます。
この世的な評価が霊界において通用しない場合があり、それは地上と霊界においての正しさにおける価値基準に違いがあると書きましたが、仏教では『断常の中道』という言葉で説明されることがあります。
不常不断の中道とはどのような意味に理解すれば良いかを「悟りの挑戦 下巻」を参照しますと、「常」とは、己自身の自我なるものが継続していくこと、人間の自我なるものは常住であるという考え方で、一方の「断」断絶とは、死んだ時点で自分の自我なるものは消えてなくなる、人間は死を境として自我なるものを失っていくという考え方です。
仏陀はこの両極端を否定した中道にこそ真実なる道があると説かれたと思います。
地上においては肉体の諸条件に制約された生き方や考え方をしますが、霊天上界に帰ることで、感覚器官による制約から解放され、自由自在な存在形態になります。肉体に基づく感覚器官の機能に依存した世界観から、そのような条件に制約をうけない本当の意味での自由自在な存在に移行するという教えが『断常の中道』の意味ではないかと自分は理解しています。人間の本質は変化していく存在であるという考え方が正しい認識であると理解します。
仏陀は、神秘性と合理性を融合した唯一無二の存在であると渡辺照宏氏は述べていましたが、合理性だけを追求し神秘的な部分をはぎ取っていけば真実なるものが観えてくるといえばそうではなく、仏教も単なる唯物論と変わらなくなってしまうでしょう。
逆に合理性を無視して、神秘的な部分だけを強調すれば、妄想や夢想家が排出されて、地上におけるまっとうな人生を生きることは難しくなるのかもしれません。
仏陀の威神力を肯定し、信仰心に基づいて教学は深く学びながら修行する姿勢が大切だと感じました。
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