2018年10月19日

仏教の幸福論 生天論・天国に還る教えと地獄に落ちる危険性の両面から説かれた幸福論

仏教の幸福論 生天論・天国に還る教えと地獄に落ちる危険性の両面から説かれた幸福論

仏法に関してまだよくわからない初心者向けに説かれた形式的な教えを次第説法と言います。
段階的に教え導き最終的に天国に生まれる(還る)ことを目的とした定番の説法です。

そして仏教には、天国に還る為の教えだけではなく、地獄に落ちる危険性も指摘されています。
地獄の世界観を具体的に描写し、心の状態によって地獄といわれる暗黒の世界に還る危険性をも教えとして説かれています。

それでは、天国に還る為の方法論である次第説法について考えてみます。
最初に為すべきことは邪見を捨て去りなさい、ということが出発点です。
邪見とは善因・善果、悪因・悪果を知らない人、あるいは信じない人です。

邪見を捨て去り原因結果の法則、縁起の理法を信じたのであれば、最初の目標は愛を与えていくために努力するということになります。
自我を押さえて他者に愛を与えていこうと決意すること自体が、すでに宗教的境地に足を踏み入れていると思います。
布論には、「財施」「顔施」「法施」「無畏施」等があります。
自分ができる範囲で努力することが大切であると考えます。

次は戒論です。
仏教で説かれている戒律の必要性、戒律の目的とはなにか。
修行者にとって地上は非常に誘惑の多い環境ですから、自身の身を守る為に一定の防波堤が必要になります。
心の修行が大切であるといっても、生活や行動が一般常識を逸脱しているようでは内面の修行に参入することはできません。
ですから、少なくともこの戒律は守りなさい、このようなことはしてはいけませんという防波堤が必要であったということです。

施論、戒論の結果として生天論があります。
人間としての道を踏み外さないように自分自身を律していきながら、与える愛を実践しよう努力することで天国に還ることができますという教えです。

天国に還れることが幸福であるといえます。
仏教に帰依することによる最大の幸福とは、この教えを守ることで天国に還ることが可能であると教えてくれていることだと思います。

次に地獄に落ちる危険性のある生き方について検討してみます。
仏教では正しい心の状態を重視します。
煩悩の炎を鎮め執着を捨てなさと教えます。
具体的には心の三毒といわれる「貧」「瞋」「癡」です。
「貧」とはむさぼりの心
「瞋」とは怒りの心
「癡」とは愚かな心です。
このような心を鎮めなさいという教えです。

結果的に地獄に堕ちたとしたら「貧」「瞋」「癡」のどれかに自分が該当したといえます。

地獄の描写を源信(942〜1017)の著書『往生要集』を参考に見ていきます。


もちろん、時間が流れているので、往生要集に書かれているとおりの霊的世界と変わっているところもあると思いますが、基本的に人間の持つ欲望自体は変わらないと思うので、現代でも参考になる重要な本であると、自分の中で位置付けしています。

まず、地獄を八つに分類して描写しています。
「等活地獄」「黒綱」「衆合」「叫喚」「大叫喚」「焦熱」「大焦熱」「阿鼻地獄」とそれぞれの心の在り方と、生き方によって行く世界が違ってきます。
どんな内容の地獄かは省略しますが、明確に分類されています。
一つ言えることは、どの地獄に落ちるにしても地上における苦しみの方がマシだと思えてくることは、間違いないようです。

伝道とは、地上こそがすべてであり、死ねば何もかもなくなると言った唯物論的な人達にきっかけを与えることでありますが、このようにも書かれています。
「自分がまだ彼岸に渡る力がなくて渡れないでいるのに、他人を渡すことはできない。自分自身が泥に埋まっている状態で、どうして他人に教えよう。また、自分が水に漂っているのに人の溺れるのを救うことができないようなものである。それゆえに、自分が渡り終わってから人を渡すのが当然だと説くのである。」

次に、「餓鬼道」「畜生道」「阿修羅」が描写されていますが、読んでみて地獄に落ちる一番の原因は、貪りの心と不当な怒りの心であると思われます。

『止観』の引用で次のように書かれています。
「いまだ人間の不浄の真相を知らない時は、この世を貪り執着し、あるいは煩悩の虜となる。だが、いったん不浄のなんたるかを目撃したなら、愛欲の情はたちどころにやみ、耐えられないものとなる。ちょうど、糞を見ない時は食事もおいしいものだが、もしもその臭気を嗅いだなら、たちまちむかついて吐き出してしまうようなものだ」
「身の不浄を知ることは、淫欲の情の溺れる人間の病を癒すところの、すぐれた効果のある煎じ薬といえよう」不浄観


四苦(生・老・病・死)に関しても無常という観点から説明されています。
「地・水・火・風の四つの要素の結合からなるこの身は、まことに苦の連続である。悦楽に耽るべきものではない。生・老・病・死の苦しみはかならずやってくるもので、逃げかくれしてやり過ごせるものではない。

ところが、人は貪りの心のために、己を直視することができず、どこまでも五欲に執するのが一般である。ために、はかない存在を永遠のものと錯覚したり、楽しみではないものを楽しみであると思いこんだりするのだ。・・・省略・・・ましてや剣の山、火と燃える熱湯の池が、ようやくおのれの身辺に忍び寄ろうとしているのに。
智慧のある者で、誰がいったいこの身を宝と観じて愛玩する者がいるであろうか。」

これを読むと、人間は死んでから地獄、天国に行くのではなく、すでに地上で生きている中に、あるいは心の中に天国・地獄が展開しているといえます。

また、「いまだかつて仏道にいそしむことを知らなかったゆえに、数多くの劫にわたって、いたずらに生死を繰り返してきたのである。いまにして勤め励むことをしなければ、未来もまた、同じ愚を繰り返すであろう。」

「仏の教えを受ける好機にめぐりあうことはまた難しいのである。たとえ仏の教えを聞く機を得ても、信心に至るのは、また難しいことなのだ。」


源信は、「どうか道にいそしむ者たちよ、いっときも早くこの不浄世界を厭い離れる心を発し、すみやかに解脱(さとり)の世界に入られよ。せっかく宝の山に入りながら、手を空しゅうして帰る愚を犯さないでほしいのだ」といわれています。

「身の実相はみな不浄なりと見る、すなわちこれ空・無我を感ずるなり」と言われています。
霊的世界が確実にあるとういう前提で読むと、肉体にまつわる煩悩や執着を断つ教えであると理解できますが、唯物論的な考え方しか持ちえない人が『空』や『無我』の話を聞くと、死ねば何もなくなるという結論にもっていかれる危険性もあります。


「かくのごときもろもろの塵労(煩悩)を滅せんと欲せば、まさに真実解脱の諦(真理)を修すべし」ということです。

また、大経の偈を引用して、「諸行は無常なり これ生滅の法なり 生滅の滅しおわれば 寂滅(悟り、涅槃)を楽しみとなす」と書かれています。

「修行者たるもの、このことに思いを潜め、ゆめゆるがせにしてはならない。説かれるところをよく観想し、貪りや怒り、愚痴といったいわゆる三毒の煩悩を、あたかも獅子が人を追い散らすがごとき遠ざけるべきである。仏の教え以外の邪説、邪道に迷わされ、無意味な苦行を行って、愚かな犬が土塊を追いまわすようなことをしてはならないのだ」

苦楽の中道や空・無我に関しても、現在当会で説かれている教えとかなり重なっていると思われるし、あるいは、難しい教えのところが理解できなくても、『人間の本質は肉体に宿った霊的存在です。』という教えを信じ、確信するところまでいけば、天国に還れる幸福を享受できる可能性が高くなります。







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posted by ガンちゃん at 20:04 | Comment(1) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月17日

地球的価値観の確立と善悪の基準 地球神信仰(アルファ・エロヒム・エルカンターレ)

地球的価値観の確立と善悪の基準 地球神信仰(アルファ・エロヒム・エルカンターレ)

地球には、様々な民族が存在しています。
民族の違いとは結局、宗教の違いであり、宗教の違いとは突き詰めて考えてみますと、他の惑星の価値基準の違いであるといえるかもしれません。

もちろん、教えの違いを根源まで突き詰めていきますと、主・エルカンターレにいきつくことになると思います。

イエス様が「わが父」とよび、主の魂の御兄弟であられる仏陀を地上に送られ、イスラム教の開祖であるマホメッド(ムハンマド)を地上に送られました。
このときに、何十人かの天使団を組んで、マホメッドを指導させたといわれています。
天使団に通信をされていたのが主・エルカンターレであり、マホメッドに対しての通信役としてガブリエルといわれる天使が選ばれたのでしょう。

上記の内容を世界の人々が信じるだけで、地球における争いの種は消えていくのではないでしょうか

キリスト教徒であれば、イエス様が天の父、わが父と言われた存在が主・エルカンターレであると信じることによって、キリスト教は幸福の科学に吸収されることでしょう。
幸福の科学の愛の教えと重なるはずです。

仏陀が主・エルカンターレの魂の御兄弟であると信じることで、仏教も幸福の科学に吸収することが可能になるはずです。

イスラム教においてもマホメッドに通信を送った奥におられる存在が、主・エルカンターレであると信じることでイスラム教も幸福の科学の法体系に組み込むことが可能であると思います。

更に言えば、モーセについても主・エルカンターレが指導されたといわれています。
旧約聖書・出エジプト記には以下のように書かれています。
「神はモーセに言われた『わたしは、有って在る者』」
(日本では「我は在りて在るものなり」というように翻訳されています。)
ユダヤ教も主・エルカンターレが指導されています。
ただし、旧約には「われ以外・神なし」という排他的なことをいう神の言葉が混じっている為、その部分が紛争の種になっていると考えられます。


三億数千年前に、地球神であるアルファが地球的価値観の確立の為に始原の法を説かれたといわれています。
他の星の人達が地球に住み始め、その星の価値基準や文化を地球にあてはめようとしていたのでしょうか。
地球的な価値基準か明確に確立されていなかったので、その隙に乗じて元いた星の文化を地球文化にしようとしたのかもしれません。
当然、混乱が生じるのでアルファは地球的仏法真理を説かれて、地球における価値基準を提示し、この法に帰依することが地球人になる為の条件であるとして統一されたのでしょう。

その後、地球における霊的磁場に地獄界が出来はじめ地上において混乱が生じてきたのかもしれません。
それに伴って、人々を正しい方向に導く必要性が生じ、エロヒムが御降臨されたのでしょう。
地球人に地球における善と何か、悪を何かを教える時期であったのでしょう。

地球的価値観と地球的善悪の基準は三億年たった現代でも引き継がれています。

そして、現代は主・エルカンターレが御降臨されています。

仏陀としての悟りを開き、その悟りの内容を明かされていたと思います。
最初の段階では個人の努力精進を通して、人格の向上あるいは霊性を磨いて霊的向上を目指す方向でご指導されていたと考えます。

次の段階で救世主として、迷いの中にある人類を救っていくという仕事に移行していったのだと思います。

更に地上における救済のみではありません。
この世を変えていきながら霊界をも改革されるという仕事まで含まれていると書かれていたと思います。
地獄界の拡大阻止から天上界の進化向上、あるいは天使達の力を強めるという仕事も含まれていると書いてあったと記憶しています。


最後に救世主あるいは根本仏に出会うことの奇跡について考えてみます。
盲亀浮木(もうきふぼく)という言葉があります。
法華経の例えですが、太平洋を泳いでいる目の見えない亀が、時々息を吸いに海面にでてくるのですが、海に浮いている木の穴に、亀が首を通して出るぐらいの確立しかないという意味です。

また、「優曇華の花は、三千年に一度しか咲かない」という言葉もあります。
仏陀の説法を聞くのは、三千年に一度しか咲かない優曇華の花を見るように難しいという意味だと思います。
要するにありえないということです。
ですから私達は奇跡の時代を生きているという自覚を持つ必要があると思えます。



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posted by ガンちゃん at 02:25 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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