仏法に関してまだよくわからない初心者向けに説かれた形式的な教えを次第説法と言います。
段階的に教え導き最終的に天国に生まれる(還る)ことを目的とした定番の説法です。
そして仏教には、天国に還る為の教えだけではなく、地獄に落ちる危険性も指摘されています。
地獄の世界観を具体的に描写し、心の状態によって地獄といわれる暗黒の世界に還る危険性をも教えとして説かれています。
それでは、天国に還る為の方法論である次第説法について考えてみます。
最初に為すべきことは邪見を捨て去りなさい、ということが出発点です。
邪見とは善因・善果、悪因・悪果を知らない人、あるいは信じない人です。
邪見を捨て去り原因結果の法則、縁起の理法を信じたのであれば、最初の目標は愛を与えていくために努力するということになります。
自我を押さえて他者に愛を与えていこうと決意すること自体が、すでに宗教的境地に足を踏み入れていると思います。
布論には、「財施」「顔施」「法施」「無畏施」等があります。
自分ができる範囲で努力することが大切であると考えます。
次は戒論です。
仏教で説かれている戒律の必要性、戒律の目的とはなにか。
修行者にとって地上は非常に誘惑の多い環境ですから、自身の身を守る為に一定の防波堤が必要になります。
心の修行が大切であるといっても、生活や行動が一般常識を逸脱しているようでは内面の修行に参入することはできません。
ですから、少なくともこの戒律は守りなさい、このようなことはしてはいけませんという防波堤が必要であったということです。
施論、戒論の結果として生天論があります。
人間としての道を踏み外さないように自分自身を律していきながら、与える愛を実践しよう努力することで天国に還ることができますという教えです。
天国に還れることが幸福であるといえます。
仏教に帰依することによる最大の幸福とは、この教えを守ることで天国に還ることが可能であると教えてくれていることだと思います。
次に地獄に落ちる危険性のある生き方について検討してみます。
仏教では正しい心の状態を重視します。
煩悩の炎を鎮め執着を捨てなさと教えます。
具体的には心の三毒といわれる「貧」「瞋」「癡」です。
「貧」とはむさぼりの心
「瞋」とは怒りの心
「癡」とは愚かな心です。
このような心を鎮めなさいという教えです。
結果的に地獄に堕ちたとしたら「貧」「瞋」「癡」のどれかに自分が該当したといえます。
地獄の描写を源信(942〜1017)の著書『往生要集』を参考に見ていきます。
もちろん、時間が流れているので、往生要集に書かれているとおりの霊的世界と変わっているところもあると思いますが、基本的に人間の持つ欲望自体は変わらないと思うので、現代でも参考になる重要な本であると、自分の中で位置付けしています。
まず、地獄を八つに分類して描写しています。
「等活地獄」「黒綱」「衆合」「叫喚」「大叫喚」「焦熱」「大焦熱」「阿鼻地獄」とそれぞれの心の在り方と、生き方によって行く世界が違ってきます。
どんな内容の地獄かは省略しますが、明確に分類されています。
一つ言えることは、どの地獄に落ちるにしても地上における苦しみの方がマシだと思えてくることは、間違いないようです。
伝道とは、地上こそがすべてであり、死ねば何もかもなくなると言った唯物論的な人達にきっかけを与えることでありますが、このようにも書かれています。
「自分がまだ彼岸に渡る力がなくて渡れないでいるのに、他人を渡すことはできない。自分自身が泥に埋まっている状態で、どうして他人に教えよう。また、自分が水に漂っているのに人の溺れるのを救うことができないようなものである。それゆえに、自分が渡り終わってから人を渡すのが当然だと説くのである。」
次に、「餓鬼道」「畜生道」「阿修羅」が描写されていますが、読んでみて地獄に落ちる一番の原因は、貪りの心と不当な怒りの心であると思われます。
『止観』の引用で次のように書かれています。
「いまだ人間の不浄の真相を知らない時は、この世を貪り執着し、あるいは煩悩の虜となる。だが、いったん不浄のなんたるかを目撃したなら、愛欲の情はたちどころにやみ、耐えられないものとなる。ちょうど、糞を見ない時は食事もおいしいものだが、もしもその臭気を嗅いだなら、たちまちむかついて吐き出してしまうようなものだ」
「身の不浄を知ることは、淫欲の情の溺れる人間の病を癒すところの、すぐれた効果のある煎じ薬といえよう」不浄観
四苦(生・老・病・死)に関しても無常という観点から説明されています。
「地・水・火・風の四つの要素の結合からなるこの身は、まことに苦の連続である。悦楽に耽るべきものではない。生・老・病・死の苦しみはかならずやってくるもので、逃げかくれしてやり過ごせるものではない。
ところが、人は貪りの心のために、己を直視することができず、どこまでも五欲に執するのが一般である。ために、はかない存在を永遠のものと錯覚したり、楽しみではないものを楽しみであると思いこんだりするのだ。・・・省略・・・ましてや剣の山、火と燃える熱湯の池が、ようやくおのれの身辺に忍び寄ろうとしているのに。
智慧のある者で、誰がいったいこの身を宝と観じて愛玩する者がいるであろうか。」
これを読むと、人間は死んでから地獄、天国に行くのではなく、すでに地上で生きている中に、あるいは心の中に天国・地獄が展開しているといえます。
また、「いまだかつて仏道にいそしむことを知らなかったゆえに、数多くの劫にわたって、いたずらに生死を繰り返してきたのである。いまにして勤め励むことをしなければ、未来もまた、同じ愚を繰り返すであろう。」
「仏の教えを受ける好機にめぐりあうことはまた難しいのである。たとえ仏の教えを聞く機を得ても、信心に至るのは、また難しいことなのだ。」
源信は、「どうか道にいそしむ者たちよ、いっときも早くこの不浄世界を厭い離れる心を発し、すみやかに解脱(さとり)の世界に入られよ。せっかく宝の山に入りながら、手を空しゅうして帰る愚を犯さないでほしいのだ」といわれています。
「身の実相はみな不浄なりと見る、すなわちこれ空・無我を感ずるなり」と言われています。
霊的世界が確実にあるとういう前提で読むと、肉体にまつわる煩悩や執着を断つ教えであると理解できますが、唯物論的な考え方しか持ちえない人が『空』や『無我』の話を聞くと、死ねば何もなくなるという結論にもっていかれる危険性もあります。
「かくのごときもろもろの塵労(煩悩)を滅せんと欲せば、まさに真実解脱の諦(真理)を修すべし」ということです。
また、大経の偈を引用して、「諸行は無常なり これ生滅の法なり 生滅の滅しおわれば 寂滅(悟り、涅槃)を楽しみとなす」と書かれています。
「修行者たるもの、このことに思いを潜め、ゆめゆるがせにしてはならない。説かれるところをよく観想し、貪りや怒り、愚痴といったいわゆる三毒の煩悩を、あたかも獅子が人を追い散らすがごとき遠ざけるべきである。仏の教え以外の邪説、邪道に迷わされ、無意味な苦行を行って、愚かな犬が土塊を追いまわすようなことをしてはならないのだ」
苦楽の中道や空・無我に関しても、現在当会で説かれている教えとかなり重なっていると思われるし、あるいは、難しい教えのところが理解できなくても、『人間の本質は肉体に宿った霊的存在です。』という教えを信じ、確信するところまでいけば、天国に還れる幸福を享受できる可能性が高くなります。
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