人間の精神には仏性・神性が宿っています。
これが神仏の子としての人間の証明になります。
しかし、人を人とも思わない極悪非道の人間も現実に存在することもまた事実です。
これに対しては、目を背けるわけにはいきません。
このような一般的に悪人といわれる人たちに対して、宗教的にどのように考えどのような行動をとればよいのでしょうか。
聖書のマタイ福音書には以下のように書かれています。
『「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたがたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けてやりなさい。
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。』
「目には目を、歯には歯を」と言われているのはハムラビ法典のことを指していると思います。
聖書に基づくキリスト教の教えには、悪人を徹底的に粉砕するという考えは見受けられません。
悪に対しての正義の在り方はどうあるべきか、哲学ではどのように考えているのでしょうか。
ドイツ観念論哲学者のヘーゲルはこのように述べています。
『この世で正義(法)ほど高貴なものはありません。正義(法)の基礎は、神が思いのままにしつらえた自由にあり、正義(法)としてあるのは、神の世界が現実化したものであって・・・』法哲学講義
神の世界の秩序や正義を、この三次元という物質世界において具現化するために、法というものが存在すると解釈します。
更に、ヘーゲルの法哲学講義から引用すると次のようになります。
『刑罰が痛みとして感じ取られることは、法全体の前提事項であって、裁判所は、感じ取れないとわかったなら、感じとられるようにしむけます。
たとえは、大金持ちには罰金刑は何ともないが、損害を与えたことが有罪とされ、不法を働いたと宣告されることが、痛みとして感じられます。罰せられたものが痛みを感じず、刑罰を軽蔑する場合には、裁判所が感じ取れる刑を課すのが理にかなっています。
殺人の場合もそのような配慮が必要な場合がある。
例えば、死刑に処するような殺人が行われたとして、殺人者は人生がつまらないといった厭世気分から、特に宗教的観点からして、死の準備をし、永遠の淨福を獲得できる気分に身を置くだけの時間がある、と信じたがゆえに、殺人を犯したとする。
そんなとき、殺人者の意思はすでに人生の外へと出ていて、死刑も痛みも感じ取れないから、犯罪者の意思を攻撃するには、死刑を懲役刑に変えるのが理にかなっています。』
つまり、犯人が痛みを伴う罰を通して自分のおこした行為を反省しなければ刑罰といっても意味がないということです。
ヘーゲルの考察は、イエス様の教えと対立するように思えます。
「悪人に手向かうな」とは、霊的な意味が含まれているのでしょう。
「憎しみに対しては愛で応えなさい」という意味であるのかもしれません。
許す愛に通じるものがあるのかもしれませんが個人の霊性を重視した教えなのだと考えます。
ヘーゲルの考えは、ハムラビ法典に近い考え方で、確信犯的に悪を犯す人に対しては、その本人が一番苦しむ仕方で罰を与えるべきであると考えたのだと思います。
つまり、人の苦しみが全く分からない極悪非道の人間に対しては、苦しい罰を与えることで人の痛みや苦しみを実感として味わってもらうということでしょう。
そうして初めて自分の苦しみを通して相手の苦しみを理解することができるという意味が含まれていると思います。
ヘーゲル哲学とキリスト教の教えは対立しているように思います。
どのように調整をつければよいのでしょうか。
私は以下のように考えます。
「どのような人間にも仏性が宿っているという事実には違いありませんので、どこかに許す愛の気持ちを持っている必要は在ります。
しかし、悪魔のごとき人間の非道を許すということは、相手が死後、地獄に堕ちることを意味します。
ですから、死後、地獄に落ちないように悪を押しとどめるという行為も愛であると思います。
人の痛みや辛さを全く理解できない人間も現実にはいますので、そのような人には他の人に与えたのと同じ苦しみを与えることで相手の気持ちが多少なりとも理解できるようになるというのも事実だと思います。
地上に仏国土ユートピアをつくる目的がある以上、「悪をおし止め、善を推し進める、愛の思いを忘れずに」ということだと思います。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学