2018年11月30日

正義の実現とキリスト教の対立 悪人に対してどう考えるべきか

正義の実現とキリスト教の対立 悪人に対してどう考えるべきか

人間の精神には仏性・神性が宿っています。
これが神仏の子としての人間の証明になります。
しかし、人を人とも思わない極悪非道の人間も現実に存在することもまた事実です。
これに対しては、目を背けるわけにはいきません。

このような一般的に悪人といわれる人たちに対して、宗教的にどのように考えどのような行動をとればよいのでしょうか。

聖書のマタイ福音書には以下のように書かれています。
『「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたがたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けてやりなさい。
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。』

「目には目を、歯には歯を」と言われているのはハムラビ法典のことを指していると思います。
聖書に基づくキリスト教の教えには、悪人を徹底的に粉砕するという考えは見受けられません。


悪に対しての正義の在り方はどうあるべきか、哲学ではどのように考えているのでしょうか。


ドイツ観念論哲学者のヘーゲルはこのように述べています。
『この世で正義(法)ほど高貴なものはありません。正義(法)の基礎は、神が思いのままにしつらえた自由にあり、正義(法)としてあるのは、神の世界が現実化したものであって・・・』法哲学講義

神の世界の秩序や正義を、この三次元という物質世界において具現化するために、法というものが存在すると解釈します。


更に、ヘーゲルの法哲学講義から引用すると次のようになります。
『刑罰が痛みとして感じ取られることは、法全体の前提事項であって、裁判所は、感じ取れないとわかったなら、感じとられるようにしむけます。
たとえは、大金持ちには罰金刑は何ともないが、損害を与えたことが有罪とされ、不法を働いたと宣告されることが、痛みとして感じられます。罰せられたものが痛みを感じず、刑罰を軽蔑する場合には、裁判所が感じ取れる刑を課すのが理にかなっています。
殺人の場合もそのような配慮が必要な場合がある。
例えば、死刑に処するような殺人が行われたとして、殺人者は人生がつまらないといった厭世気分から、特に宗教的観点からして、死の準備をし、永遠の淨福を獲得できる気分に身を置くだけの時間がある、と信じたがゆえに、殺人を犯したとする。
そんなとき、殺人者の意思はすでに人生の外へと出ていて、死刑も痛みも感じ取れないから、犯罪者の意思を攻撃するには、死刑を懲役刑に変えるのが理にかなっています。』

つまり、犯人が痛みを伴う罰を通して自分のおこした行為を反省しなければ刑罰といっても意味がないということです。

ヘーゲルの考察は、イエス様の教えと対立するように思えます。

「悪人に手向かうな」とは、霊的な意味が含まれているのでしょう。
「憎しみに対しては愛で応えなさい」という意味であるのかもしれません。
許す愛に通じるものがあるのかもしれませんが個人の霊性を重視した教えなのだと考えます。


ヘーゲルの考えは、ハムラビ法典に近い考え方で、確信犯的に悪を犯す人に対しては、その本人が一番苦しむ仕方で罰を与えるべきであると考えたのだと思います。
つまり、人の苦しみが全く分からない極悪非道の人間に対しては、苦しい罰を与えることで人の痛みや苦しみを実感として味わってもらうということでしょう。
そうして初めて自分の苦しみを通して相手の苦しみを理解することができるという意味が含まれていると思います。

ヘーゲル哲学とキリスト教の教えは対立しているように思います。
どのように調整をつければよいのでしょうか。

私は以下のように考えます。
「どのような人間にも仏性が宿っているという事実には違いありませんので、どこかに許す愛の気持ちを持っている必要は在ります。
しかし、悪魔のごとき人間の非道を許すということは、相手が死後、地獄に堕ちることを意味します。
ですから、死後、地獄に落ちないように悪を押しとどめるという行為も愛であると思います。

人の痛みや辛さを全く理解できない人間も現実にはいますので、そのような人には他の人に与えたのと同じ苦しみを与えることで相手の気持ちが多少なりとも理解できるようになるというのも事実だと思います。
地上に仏国土ユートピアをつくる目的がある以上、「悪をおし止め、善を推し進める、愛の思いを忘れずに」ということだと思います。


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posted by ガンちゃん at 19:35 | Comment(1) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月28日

アラブとイスラエルの対立をのりこえる転生輪廻の思想と許しの原理である慈悲 民族神を束ねる地球神エローヒムの存在

アラブとイスラエルの対立をのりこえる転生輪廻の思想と許しの原理である慈悲 民族神を束ねる地球神エローヒムの存在

イスラム教やユダヤ教は、正義か悪かという善悪の価値判断を明確にし、悪と判断した場合には徹底的に相手を粉砕するとういう考え方を根底に持っているように思います。

日本独自の善も悪もない、あるいは善悪の価値判断がつけられずに優柔不断な立場をとるということは中近東の宗教にはありません。
善と悪に関しては、神の名のもとに徹底的に白黒をはっきりつける民族性があると思えます。

しかし冷静に考えてみれば、片方が完全な善で片方が完全なる悪ということはありえません。

ヤハウェが「われ以外、神なし」といって偶像崇拝を否定しました。
要するにギリシャの神やエジプトの神を否定したのです。(多神教を否定した結果になります)
宗教戦争がおきている理由はここにあります。

更に問題なのが、ヤハウェが三千年以上前に「カナンの地をおまえたちに与える」と言ったのでモーセは民をつれてエジプトを出てイスラエルを目指したわけです。

しかし、そこには先住民であるアラブの人たちが住んでいたのです。
アラブの人達から言わせれば「おれたちの土地を勝手に与えると言った神は、神ではなく悪魔だ」ということになります。
イスラエルから言えば、神が与えると言ってくださったのだから占領にいったのだということになるのでしょう。

アラブの人達から見れば迷惑なわけです。

現代のイスラエル対アラブの戦いはモーセの時代にさかのぼるのです。
数千年の歴史を有していますので、そう簡単には解決がつく問題ではありません。

正義と正義がぶつかり合う対立関係を包含するのが許しの原理でもある慈悲です。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教徒と民族によって信仰している神は違うかも知れませんが、更に上位には至高神『エローヒム』が存在します。
エローヒムは地球神であり、根源の神です。

宗教としてちがう現れ方をしているかもしれませんが、その源流は地球神であるエローヒムあるいはエルカンターレが存在するのです。


ユダヤ教とイスラム教が根源において同じ神であるならば、お互いに愛しあい理解しあえる可能性があるわけです。
現代、ユダヤ教の神とイスラム教の神は別であると理性的に二分法で区別されて認識されています。
イスラエルが正義であるならば、対立関係にあるアラブは悪であり、悪魔であるという論理構造になっていす。
お互いの宗教は、悪に対しては妥協しないで徹底的に相手を粉砕するまで終わりません。

真実はいろんな民族や宗教の神が存在し、企業間競争と同じように切磋琢磨しています。
そしてその上には究極の神がいるということです。


確かに神の価値基準には、善と悪の価値判断が明確にわかれており、その価値基準から善をとり悪は捨てていく中に個人としても、国としても発展していく道があるとは思います。
また、そこに住む民族の気質に合わせて宗教が説かれ、それが宗教としての多様性として現れてきたと思いす。
しかし、違いだけに目を向けずに共通する点や、普遍性の部分を見抜いていかなければならないと思います。

善と悪の対立をのりこえるのは、愛と慈悲と転生輪廻の思想であろうと思われます。

多様な価値観、宗教的な教えの違いは有りますが、自分が属している宗教の教えにない教義であっても、その価値を認めるところに愛の教えがあると考えます。

相手を理解したということは、相手を愛したということなので、正義という観点とは別に、愛や慈悲という観点からも他の国の宗教をみていく必要があると思います。

仏教的な慈悲(キリスト教的愛の思想)、転生輪廻の思想を知ることで、対立ではなく和解が生じると思います。

物事を善と悪というように二分して、悪に対しては粉砕するという考え方を超えて、転生輪廻に基づく愛と慈悲によって和解できる可能性があるのです。

現在は、アラブ人でも過去はイスラエル人であったかもしれないことを信じることができれば、国や宗教の教えの違いによって相手を悪と決め付けるのではなく、そこに相手に対しての寛容性、愛の気持ちが芽生えるのではないかと思います。

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