2019年02月10日

主エルカンターレの愛の思想を担うキリスト教と信仰心について

主エルカンターレの愛の思想を担うキリスト教と信仰心について

トルストイは、信仰について語られています。
「信仰のない人間の生活は・・・動物の生活である」。
主は言われました。
「目に見えない尊い存在を信じ、理解し、それに基づいて行動することができるということは、人間として尊いことです。」
動物は感覚器官で確認できるもの以外に認識できません。
動物の魂には、神仏を信仰する精神性が人間に比べて極端に低いと思えます。
つまり神仏を信じるということができないのです。

人間はどうでしょうか。
唯物論者は目に見えないものを信じることができません。
悲しいことですが、自分をこえた高貴なる存在を信じることができないのです。
これに関しては、どうにもなりません。
説得しても客観的証明はできませんから、死んだ後でも納得しないことでしょう。

各人は自由に考え、行動することができますが、大きな流れの中では、基本的に仏や神を崇拝し、法に基づいて生きていくべきであることを納得することが大事であると考えます。

更にトルストイは人間を河に例えています。
「人間は河のように流れ動くものです。人間は同じ人間であっても毎日、同じ人間とは限らず、ばかであった人が利口になったり、意地の悪かった人が、親切になったりする。そしてその逆も真である。人間を裁いてはならない。こちらがある判断をくだしたとき、相手はすでに別人になっているのである。」と言われています。

イエス様も言われています。
「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」
「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることはないであろう。許してあげなさい、そうすれば許されるであろう」
人を憎まずとは、人間に宿りたる仏性・神性を信じなさいということでしょう。
ただし、正義という観点からみて明らかに間違っていることに関しては注意する必要があります。


心理学的に見ても人を憎むという行為は、自分を憎んでいるのと同じなのです。
潜在意識において、相手を憎むという行為は、相手という主語が取れて憎しみだけが潜在意識に残るのです。
ですから、他人を憎むという行為は、自分に対して憎んでいることになるのです。


トルストイは述べています。
「実際に存在するのは精神的なものだけである。肉体的なものはすべて単なる見せかけにすぎない。」
正心法語に書かれている「霊は 全ての 全てにして 肉体は これ 霊の影」と同義語です。

キリスト教の思想とは、汝の主なる神を愛し、隣人を愛し、自分を愛するという教えではないかと思います。
主なる神を愛するという前提には信仰心が不可欠です。
信仰心と愛は同義なのです。
信仰も愛も五感では確認することなどできません。
だから尊いのです。

そしてキリスト教の愛と信仰は、主エルカンターレの愛の教えと重なっているのではないでしょうか。
主エルカンターレの教えである現代の四正道(愛・知・反省・発展)の智慧の部分は、仏教が担っていると思います。
反省は、仏教とキリスト教においても説かれています。
自分の犯した罪を悔い改めなさい、懺悔しなさいというキリスト教と、八正道によって自分の犯した過ちを反省しなさいという教えは、共通していると思います。

仏教の慈悲とキリスト教の愛も共通していると思いますが、信仰を強く押し出しているのはキリスト教であると考えます。

主エルカンターレの説かれる現代の四正道の愛の教えと自己犠牲的な精神は、キリストの愛の思想として西洋文明に広がったと考えます。



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posted by ガンちゃん at 01:29 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月13日

仏陀の慈悲がキリスト教の愛の教えとして開花する 信仰心を守る自己犠牲的精神の大切さ

仏陀の慈悲がキリスト教の愛の教えとして開花する 信仰心を守る自己犠牲的精神の大切さ


自己犠牲を言葉で表現することは非常に難しいことです。
自己犠牲とは、自分の肉体生命より他者に対する愛のほうが大きいときにできる行為だと思えます。
あらためて新約聖書・福音書を読み直してみると全体的に愛の教えが基調(愛の思いや行動の基本的な考え)をなしていると思います。

福音書のイエス様の言葉には自己犠牲を思わせる内容があります。
『もし、誰かが、あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には上着を与えなさい』
『敵を愛し、迫害するもののために祈れ』
霊的視点から見た自己犠牲と思えるお言葉です。
仏教的なる無我(自我を否定した境地)の精神に基づいて慈悲の現れだと思います。

徹底的に自分というものを捨てた愛の行為です。
『あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになる、あなたの父に祈りなさい』
やたらと「主よ、主よ」と主の名前を唱える人が神を信じている優れた信者であるわけではありません。
イエス様が言われるように、わたしの天の父(主・エルカンターレ)の御心を行うものが天国に入れる人なのでしょう。

どのような人が主の御心を行っている人なのでしょうか。
福音書には以下のように書かれています。
『目は体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいであろう』
身体の中で心の状態が反映されるのが目と言うことでしょうから、ある程度、相手を外見で判断するとしたら目を見るのも一つの方法なのでしょう。

仏教の教えはキリスト教に大きく影響しています。
『人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなた方の、裁くその裁きで自分も裁かれ、あなた方の量るそのはかりで、自分にもはかり与えられるであろう』
仏教の縁起の理法や、因果律、因果関係をあらわした言葉であり、正しい宗教に共通する黄金律です。

ただし、正義という観点からすると、間違ったことに関しては正当な批判は必要です。
例えば、ブログで主を信じていますと主張しながら、著作権を無視してコピペばかりしてカモフラージュのために短い文を足して、自分が悪いとは思っていないような人は主の御心にかなう人とは私には思えません。

『求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すであろう。』
何を求めるべきなのか、それは真理であると思います。
真剣に真理を学んでいる人であるならば、学んだ内容を自分の言葉で話したいはずです。
仏法を何年も学んでいながら、まったく自分の言葉で書いたり話したりできない人は、真剣に真理を学んでいるとは思えません。
自分で考えていないから自己犠牲の精神と自虐精神を同じと考えているのでしょう。

『人々にしてほしいと望むことは、人々にもそのようにせよ。』
この教えも仏教とキリスト教の教えの共通点といえます。

『狭き門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者は多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。』

これは修行の厳しさを表した言葉だと思いますが、人生が魂の向上を目指し、周りの人に対して良い影響をあたえ、神の国をつくる目的であるならば、常楽我淨と言われる、四顚倒という四つの間違った考え方、これを否定しなければなりません。
この世での人生が常にずっと続く、この世は楽しい、快楽がある。肉体の自分が真実の我と思う。浄らかである、という考えはすべて間違えであるとおそわっています。
真実は霊主肉従であり、肉体に宿っている霊的存在が真実の自分であり、肉体は仮のものであり霊的存在が地上で修行するための乗り物であるという認識が大事であろうと思います。
だから肉体のみを喜ばす方向は滅びに至る門で、その門を通るものは多いということを、言われているのではないかと思います。

『あなた方は、私の名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる』
信仰心の大切さを教えています。
信仰心を持って一生を生きるとき、この世的な価値観と相当対立します。
また、現代進行形で様々な事件が勃発し、信仰が揺れるときがあると思いますが、最後まで主を信じて教えを守る信念が大切だと思います。



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posted by ガンちゃん at 14:24 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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