トルストイは、信仰について語られています。
「信仰のない人間の生活は・・・動物の生活である」。
主は言われました。
「目に見えない尊い存在を信じ、理解し、それに基づいて行動することができるということは、人間として尊いことです。」
動物は感覚器官で確認できるもの以外に認識できません。
動物の魂には、神仏を信仰する精神性が人間に比べて極端に低いと思えます。
つまり神仏を信じるということができないのです。
人間はどうでしょうか。
唯物論者は目に見えないものを信じることができません。
悲しいことですが、自分をこえた高貴なる存在を信じることができないのです。
これに関しては、どうにもなりません。
説得しても客観的証明はできませんから、死んだ後でも納得しないことでしょう。
各人は自由に考え、行動することができますが、大きな流れの中では、基本的に仏や神を崇拝し、法に基づいて生きていくべきであることを納得することが大事であると考えます。
更にトルストイは人間を河に例えています。
「人間は河のように流れ動くものです。人間は同じ人間であっても毎日、同じ人間とは限らず、ばかであった人が利口になったり、意地の悪かった人が、親切になったりする。そしてその逆も真である。人間を裁いてはならない。こちらがある判断をくだしたとき、相手はすでに別人になっているのである。」と言われています。
イエス様も言われています。
「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」
「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることはないであろう。許してあげなさい、そうすれば許されるであろう」
人を憎まずとは、人間に宿りたる仏性・神性を信じなさいということでしょう。
ただし、正義という観点からみて明らかに間違っていることに関しては注意する必要があります。
心理学的に見ても人を憎むという行為は、自分を憎んでいるのと同じなのです。
潜在意識において、相手を憎むという行為は、相手という主語が取れて憎しみだけが潜在意識に残るのです。
ですから、他人を憎むという行為は、自分に対して憎んでいることになるのです。
トルストイは述べています。
「実際に存在するのは精神的なものだけである。肉体的なものはすべて単なる見せかけにすぎない。」
正心法語に書かれている「霊は 全ての 全てにして 肉体は これ 霊の影」と同義語です。
キリスト教の思想とは、汝の主なる神を愛し、隣人を愛し、自分を愛するという教えではないかと思います。
主なる神を愛するという前提には信仰心が不可欠です。
信仰心と愛は同義なのです。
信仰も愛も五感では確認することなどできません。
だから尊いのです。
そしてキリスト教の愛と信仰は、主エルカンターレの愛の教えと重なっているのではないでしょうか。
主エルカンターレの教えである現代の四正道(愛・知・反省・発展)の智慧の部分は、仏教が担っていると思います。
反省は、仏教とキリスト教においても説かれています。
自分の犯した罪を悔い改めなさい、懺悔しなさいというキリスト教と、八正道によって自分の犯した過ちを反省しなさいという教えは、共通していると思います。
仏教の慈悲とキリスト教の愛も共通していると思いますが、信仰を強く押し出しているのはキリスト教であると考えます。
主エルカンターレの説かれる現代の四正道の愛の教えと自己犠牲的な精神は、キリストの愛の思想として西洋文明に広がったと考えます。
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