2018年02月21日

釈迦の本心 時間縁起と空間縁起について

釈迦の本心 時間縁起と空間縁起について


仏教の旗印は三法印と呼ばれています。
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静です。
すべての存在は、原因や条件に依存してそれ自体(単一)で存在しているものなどありませんから、すべてのものには実態がないといえます。
また、恒常なもの・形を変えないものはこの物質の世界にはなく、感覚的なものはいつかは時間の流れの中で滅びゆくことになります。

諸行無常ゆえに、すべては時間の流れとともに変転変化していきますので、地上においては定義できるような本質的なものなどないのです。
ですから仏陀は、滅びゆく感覚的なものに執着することで苦しみが生じると説かれたのだと思います。
(仏教の修行論、戒・定・慧を否定しているわけではありません。)

時間縁起、空間縁起の時間と空間の意味を考えてみます。

時間と空間はいまだその本質が明らかにされていないと思えます。

時間と空間は古今東西の謎です。
現在、すべての人に共通する時間を決めることにより、より良く生きていくための基盤としています。私達は時計の時間とともに、1日、1年という単位で生活をしています。
時の長さの単位“秒”はセシウム原子の出す、特定の色の光の周期の9192631770倍であるとされています。
しかし、時計的時間は人間が約束事として決めたことですから、不変性があるとは言えません。

ニュートンはあらゆる観測者にとって一様に流れる時間(絶対時間)を仮定し力学の体系をつくりあげた。
また、現代では時間をエントロピー増大(注1)の法則に結び付けた説明をされています。外部からエネルギーや力を加えない限り、秩序から無秩序へ、使用可能なエネルギーから使用不可の状態のエネルギーへ時間は変化していきます。
(注1)
変化にあずかる系全体のエントロピーは断熱変化では決して減少せず、断熱非可逆変化では常に増大する。熱力学第2法則から導かれる。


相対性理論では相対運動する座標系では時間の進みは遅くなります。
速度が速いほど、加速するほど時間の進みが遅れるといいます。
ただ、私達日常の生活において光速で移動することなどありませんから、考えなくてもよいでしょう。

キリスト教父アウグスティヌスは時間を意識と結び付けて考察しています。
時間の過去、現在、未来について
「過去は私達の記憶・現在は私達の直観・未来は私達の期待」とし時間の主観性を説いています。

観念論哲学のカントは時間と空間を主観的な純粋直観形式としました。
カントにおいては時間と空間は感性的であると同時にアプリオリな直観であり(純粋直観)感性的直観の内容を受容する形式とされます。

純粋とは自分の感情や経験といった主観的なものを含まないという意味で純粋と述べていると思います。
私達が何かを観察するときに時間・空間という形式の中で対象を認識し価値判断します。
時間・空間は私達の主観や感情、経験に一切関係なく存在し、感覚的直観の内容を受容する形式(枠組み)と考えたと思います。
カントにおいては経験や感覚を含まぬアプリオリに可能な認識が純粋な認識とされます。
時間と空間は感性的でありアプリオリなものとして純粋直観といわれています。
アプリオリ(先天的)
アプステオリ(後天的)

幸福の科学的時間論を整理すると以下のようになります。

@時間を同心円状と考えると、中心で根源の神の思いがあり、外側に行くほど時間の幅が長くなる。 次元が下がるごとに時間の幅が長くなる。(時間が遅くなる)

A時間は、意志が表象化するまでの間の期間

B時間とは、存在の運動形式

C時間が流れることによって、空間も霊的存在及び霊界も存在が可能。

D空間の本質とはエネルギーが、稼働するための必要な領域

E時間とは直線的に流れるのではなく、渦のように回転運動をしている。渦の大きさも一様でなく各個人の意識の違いによって、違った大きさの渦の中に存在する。

F時間とは本来はなく、神の側から見たら我々が時間と呼んでいるものの本質は、愛である。

Bの、時間とは存在の運動形式について考えてみます。
我々は現象の変化を通して時間の流れを認識します。
運動形式とは、現象が変化することを意味し、現象が変化するには、エネルギーの作用があるのではないかと考えます。
エネルギーが作用したということは、その作用した分、エネルギーを消費したということであり、時間とは自然界におけるエネルギーの消費を意味するかもしれません。
時間とは、現象の変化、存在の運動形式であり、現象の変化がエネルギーの消費をもたらすとしたら、現象の変化が、激しければエネルギーの消費量も大きく、時間の進み(流れ)も速いはずです。
逆に、現象の変化が、ゆっくりであれば、エネルギーの消費が少なく、時間の進みが遅いと考えられます。

時間とは、人間の意識と結びついているときは、過去、現在、未来は同時存在が可能であると思います。
私達は過去の思い出を振り返るときに、私自身は現在に存在しながら意識は過去の時間と結びついて過去に存在しています。
生物の時間概念は円環的です。

物理的時間に関しては、現象の変化とともに消滅していくものです。

時間縁起、空間縁起は意識を持った人間との関係で成り立っています。
原因・結果の法則は意識を持った人間にあてはまるものであり、縁起とは主体的に自分の意志によって自身を変化されることが可能な原理です。

無我について簡単に整理してみます。
無我とは二律背反する思想でもあります。

説一切有部という学派が釈迦の無我の思想を、実体としての魂、霊というものはく、五蘊の仮和合(色・受・想・行・職)であるとしました。
肉体、感受作用、表象作用、行動(意志の作用)、認識作用これらが仮に和合して人間なるものができており、死んだあとはすべてがバラバラになって雲散霧消して霊気のようななんだかわからないものに拡散していく。と考えています。(法華経信者もこのような考え方をしていると思われます。)

おそらく説一切有部は霊的な認識まで及ばなかったのではないかと思います。
考え方の土台に唯物論的なものがあったのでしょう。

法を体系的に理解していかないとこのような間違いを犯してしまいます。
あれだけ修行の大切さを説かれた仏陀が、無我とは、死んだら終わりであるというようなことを言うはずがありません。
死んで終わりであるなら、八正道とは何だったのだろうとなってしまいます。

修行することで、自分がという考えが薄らいでいくのが中道的修行だと思います。

無我とは、自分に対しては厳しい態度でのぞみ、人に対しては優しく接するような心境だと思えます。
自己中心的考えや自我我欲を捨て去る教えであると思います。



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posted by ガンちゃん at 19:54 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月03日

神を知るための徹底的な自助努力と潜在意識の開発

神を知るための徹底的な自助努力と潜在意識の開発

情報を集めて終わりでは、自分自身の智慧になっていないと思います。
なぜなら、思考力が働いていないからです。
思考力を鍛えてこそ、潜在意識が働き始めます。
潜在意識に方向性を与えるのは、思考力だと思います。

P・Gハマトンの知的生活には以下の内容が書かれています。
「あまり望ましくない生半可な才能を持った人たちが、常におかす致命的な間違いのひとつには『霊感がひらめくのを待つ』ということです。何週間も何週間も何もしないでブラブラ待つのです。戦場のナポレオンにひらめいたような知的霊感にあやかろうと、怠惰に待つのです。そんなことをしていれば、頭も財布も空っぽになります。
霊感は修練を積んでいるものにのみ、ひらめくのです。怠惰な者はいくら待っても無駄です。」


霊的指導やインスピレーションがおりてくるには、地上で生きている人間側の自助努力が絶対に必要です。ハマトンが述べているように、霊感は、修練を積んでいるものにのみ、ひらめくというのは真実であると思います。

自分の仕事や学問、あるいは得意分野に関して、徹底的に考え、思考しつつ、努力を積み重ねることで初めて、天の一角からインスピレーションがおりてくる、良いアイデアが浮かんでくる、このようにハマトンも述べています。

表面的な見方をする人は、「あの人はもともと自分の頭とはつくりが違うのだ」と自分が努力しないことを棚に上げてつぶやいていますが、立派な仕事をする人や深い考えのある人は、誰も見ていないところで人知れず努力を積み重ねているものです。

継続的努力は、表面意識から想念帯を通過して潜在意識を活性化させていく作用を与えていきます。
努力が天上界の意志にかなうものであるならば、潜在意識を通して天上界の力がその人に作用し、物理的力として3次元世界に影響を与えることでしょう。

想像力はあらゆる想念に形を与えます。想像することで自分の中に眠っていた思いが、形あるイメージになるのです。とマーフィーは述べています。
アトランティス時代のトス神も、心の物理的作用について述べています。
「この世の人間が、意志の力を強め、念力を強め、あるいは「心の力」を強めることにより、それと連動して守護霊の力も強くなってくる」

肉体を持って地上で生活する私達の意志の力が強まれば、潜在意識の世界に存在する守護霊の力も増幅されるということです。
想像力を増すためには、準備段階として努力が必要であり、知識を自分のものとした範囲で想像力も働くでしょう。

ですから、情報集めに専念し自分自身で何も考えがない人には、おそらく天上界の光は下りてこないでしょう。必然的にそのような人は信用できないということになります。

潜在意識の働きは、地上に生きている人間の自助努力と連動しています。
しかし努力してもわからないこと、証明できないことはあるのだ、ということは知識として知っておいた方がいいでしょう。

努力と信仰心の関係も考えておきたいと思います。

努力にこだわりすぎると、それが自我力になる可能性もあると思います。
正当な自助努力は、努力している本人は努力していると思っていないところにあります。

自我力とは、自分はこれだけの努力をしたのだから、これだけ評価されなければおかしいというように自分に帰するところがあるように思います。
本物の自助努力とは、仏教的には無我の思想と連動しているのではないかと考えます。

アウグスチヌスは、信仰の真理を理解するには、理性の努力が必要であると述べています 。
「信じるために理解し、理解するために信じなさい」と言われています。

アウグスチヌスは、信仰を理解するには、理性的努力が必要であると述べています。
信じる信仰と物事を合理的に判断できる理性は、相互に補う関係にあるという意味だと思えます。

スコラ哲学のトマス・アクィナスも理性と信仰は対立するものでなく、補う関係にあるという意味の言葉を残しています。
「理性は神から与えられたものでありますから、信仰と対立することは決してない」としました。
ただし、信仰のうちには理性で証明できる部分と、証明できない部分があるのでそのことは忘れてはいけないと述べています。

「努力なくして天上界のご加護はない」これだけは間違いないと思います。



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posted by ガンちゃん at 03:20 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする