2017年06月25日

「生・老・病・死」の死を乗り越えて 魂の不滅と転生輪廻

「生・老・病・死」の死を乗り越えて 魂の不滅と転生輪廻

死について考えてみます。
フランシス・ベーコンは次のように述べています。
「子供が暗闇に行くことを恐れるように、人は死を恐れる」。
黄金の法によりますと、英国経験論哲学の創始者フランシス・ベーコンは一般的には知られていませんが、霊能者であったと書かれています。
ベーコンは、「随筆集」や「ニュー・アトランティス」岩波文庫の著書で知られている哲学者です。
経験論哲学だからといって、ベーコン自身が死を恐れていたわけではありません。

現代に蔓延している唯物論者、唯物論的科学者や唯物論的哲学者など、この世的には知的にうつる人達が、五感で確認できないこと、科学の条件である追試(同じ条件で実験したら、必ず同じ結果になる)ができなければ、否定的な立場にたつ態度が地上に誤った価値観を蔓延させてしまいました。

しかし哲学者のプラトンはこのように述べています。
「哲学とは、死に対する準備である」と。
どのような意味なのでしょうか。

それは、人間としての正しい生き方、生まれてくる目的と使命を知るということでしょうか。

近年スピリチュアリズム(神霊主義)が、心霊研究、霊魂についての存在証明や霊界の実態についての科学的な研究が進んできました。

この現代に蔓延している唯物論的価値観を打ち破るために、天上界からいろんな働きかけがあるのと同時に、地下に生息する者たちの惑わしもあります。
霊言にしても、声が聞こえたことをもって、何のフィルターも通さずに天上界からの通信と信じこんでしまうことは危険があると思います。それは私が言わずしても、他の人も同じことを述べている人がいますし、総裁先生のご著書にも霊的に通信を送ってくる存在の正体を見抜く為には、自惚れや慢心の心があれば、まず見抜くことはできないと教わっています。

相当深い認識がなければ霊存在がどのような目的や意図で、霊言を下ろしてくるのか見抜けないとも教わっていると思います。

また、あるスピリチュアルな本には、その霊言の真実性を見抜くのは、「理性」と書かれています。最終的にその霊言が正しいかどうかの最終判断は理性による判定であるということです。
良心に照らし、人道的にみて納得できるかどうか、これが決め手になると書かれています。

マイヤース(霊界通信)は死について、以下のように述べています。
「死の秘密は、ひっきょう自己のまとう外皮の振動する速度の中に見出される。地上の人間は何によって自己の環境を知り得るか。それは彼の肉体が、ある特殊な速度で振動しているからです。試みに汝の肉体の振動速度を変えてみるがよい。その瞬間に大地も、男も女も、その他一切の物体も、全部汝の視界から消失し、同時に汝自身も彼等の視界から消失する。しかるが故に死とは、単に振動速度の変化である。」と述べられています。

肉体や物質も固有の振動数をもっているといわれています。
物質に触れて実体があると感じてしまうのは、物質と肉体の振動数が、だいたい同じであるからかもしれません。
例えば、テレビやラジオの周波数を変えると、音も映像も消えてしまいます。
私達が肉体から違った波長の霊体に生命の本拠を移す(肉体から霊的生命に移行する)と、その周波数(振動数)が変化して、物質世界は消失します。
それとともに物質世界の人の目からも私達の姿が消失します。これが死とよばれるものです。

死とは、肉体と霊体を結ぶシルバーコートの切断、魂が肉体から霊界に移動したことによる振動数の変化と定義できるかもしれません。

死の意味を知ることで、人生観が180度転換することでしょう。死してなお永遠の生命があり、霊的世界で一定期間、生活した後、また環境を変えて地上に生まれ変わってこられるということは素晴らしいことであると思います。

私自身も、宗教を学ぶ上で一番うれしかったことは、転生輪廻の思想で死んでも再び新しい環境で、人生を生きることができるということを知った時でした。

死の真実の意味を知るということは、今世での地上生活が実りあるものになると思います。



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posted by ガンちゃん at 23:36 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月28日

仏教的修行と地上における努力の関連

仏教的修行と地上における努力の関連

仏教に限らず宗教的修行の大切さの根拠は何かと考えてみますと、霊的世界が確実に存在するという前提があります。
人間の本質をどのように位置づけるかによって、修行や努力観も違ってくるでしょう。
地上における肉体がすべてと考える人生観は、他人のことを考えない自分の欲望を満たす生き方になるでしょう。
自分自身の欲望を満たすための努力を否定はしませんが、それが、他人を傷つけるところまで行きますと、仏教が否定している執着になると思えます。

仏教の修業論は、戒・定・慧という三学であると言われています。
戒律、戒めを守り、禅定しながら智慧を得る。
また、「上求菩提・下化衆生」といわれています。
自分自身に関しては常に努力(修行)し向上を目指しながら、自分がつかんだ悟り、あるいは智慧によって、まだ真理の道を歩んでいない人達に、目覚めていただくためのきっかけを与えていく、仏教的修行論は自他一体になっています。

仏教の世界観とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、であり三宝印と言われています。
諸行無常は、この世は変転変化し、恒常不変なもの、形状が変わらないものはありません。
変化こそ真理であり、過ぎ去っていくものに、変化するものに執着することで人は苦しみをつくるという教えであると理解しています。

諸行無我は、この地上に存在するものはすべて、依存関係にあります。
原因に依存し、条件に依存しています。
分子は原子に、原子は、原子核と電子にというように、存在は、他の存在を条件として成り立っています。
また、すべてのものは自性なるもの、自らなる性質がありません。つまり地上にある存在は、実体として存在するものはありません。定義できるような本質を有するものは、地上においてありません。
それゆえに地上にあるものは、原因や条件がなくなれば、夢幻のように消えていく存在です。
これも諸行無常と同じように執着することで苦しみをつくるという教えであると思います。

涅槃寂静は、心が平和な状態、自由な境地なのでしょう。


死後の世界を知る、あるいは信じる生き方と、唯物論者の考えるように、死んだらすべてが終わりだと考える生き方では、人生の意味や努力の意味が違ってきます。
人間の本質は魂であり、生きどおしの命であるからこそ、お釈迦さまは修業論の大切さを説かれたのだと思います。
死んで終りであれば、好き勝手に生きなければ損です。
唯物論的努力とは、他人を蹴落としても自分がのし上がっていくための努力につながるでしょう。

人間の本質は魂であり、肉体は霊の影、あるいは仮の宿です。だからこそ、諸行無常・諸法無我の教えが生きてくるのではないかと思えます。

死後の世界と現実の生活は密接な関係にあると思います。
死後の世界は、地上の法律とは違った価値基準があります。死してなお永遠の命があるからこそ、霊的な価値基準に照らしながら、現実の生活を考えて生きていかなければならないと考えます。

つまり、霊的世界の価値基準から見て、地上での生き方には合格、不合格があるということです。
合格点に達することができないときは、それなりの世界におもむくことになると思います。



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posted by ガンちゃん at 11:10 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする