2017年10月22日

仏教の修行論は縁起の理法(因果律)であり姓名判断や占いは修行ではありません

仏教の修行論は縁起の理法(因果律)であり姓名判断や占いは修行ではありません

仏教的人生観に縁起の理法という教えがあります。
今の自分の状況は、過去の自分の考え方や行いが原因であり、結果が現在の自分に跳ねかえっています。
現在、自分が苦しみの中にあるのならば、過去の自分自身の考え方や行動に対し仏教的価値観を判断基準とし、反省しなさいというのが縁起の理法的な考え方だと思います。

人間には完全な自由意思が与えられています。
自由意思に基づいて判断し行動しているのですから、苦しみの原因が、他の人や環境に有るのではなく、常に自分自身に帰ってくるという自己責任の考え方が縁起の理法です。

私達は、常に正しい価値判断をするために、仏法真理を学ぶ必要があります。
知識として真理を学び、やがて自分の魂の傾向性まで落とし込み神仏に近づいていくという考えが大事であると思います。


結果に対しての自己責任の部分を、姓名判断や、その他自分以外のところに持ってきた時に、自己反省はありません。

物事を判断する時に、自分の意志や学んだ真理から判断するのではなく、○○によるとこうですとか、名前の画数を原因に持ってくることは基本的に間違えです。
自分以外に原因を持ってくることは自己責任から逃げていると考えます。

努力や精進についての考え方を、渡辺昭宏氏から引用します。『仏教を知るために』参照
「われわれが行動するにあたって、まず正しい見解(正見)に従って方針を定め、それを実行する決意(正思惟)をし、正しい言葉と行為と生活方法(正語・正業・正命)を実践するが、実際にその原動力となるのが正しい努力(精進)によるのである。〜中略〜
努力についても邪を捨てて正を選びとらなければならない。これを次のように四段階にわけて考察します。第一に、まだ生じていない悪が今後も生じないように、第二にすでに生じている悪をなくするように、第三に、まだ生じていない善を生じるように、第四に、すでに生じている善を確立し、さらに発展させるように、それぞれ努力すること、これが“正しい努力”である〜中略〜
仏教はこういう意味で努力を信者たちに教えました。
しかし、仏教が日本までくると、本来の努力という意味だった“精進”という語が“心身を清める”ということから、さらに一転して、肉食を避け採食するという意味に変わってしまった。この点からみても、仏教の活力にあふれていた精神が形骸化してしまったことがわかる。」と書かれています。
短い文に鋭い考察がなされ結論がみえている渡辺氏の洞察力が伺えます。

幸福の科学で説かれる法も自助努力の教えであり、自己確立をしながら与える愛の実践(上求菩提・下化衆生)が大切であると説かれています。
自分の内面を確立していく過程で、他の人に対して良い影響を与えていくという教えです。
努力や自己責任をはずした、○○判断やそれに関係する類のものは、本来の仏教的な精神に基づく正しい道ではないと思います。


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posted by ガンちゃん at 19:24 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

修行について

修行について

大悟の法には、神秀と慧能の修行について書かれていたと思います。
五祖弘忍が『依鉢を譲る』ということで悟りの試験をしました。自分自身の悟りの内容を言葉に書いて出してみなさいということで、内容が五祖弘忍の考えと近ければ次の後継者になるということです。

神秀の書いた偈の内容を要約すると、「身体は大事な菩提樹だし、心は大事な鏡なのだ。だから、心境を磨かなければならない。体も心も、大切に手入れをして、塵や垢や埃がつかないようにしなければならない」大悟の法講義・自力と他力参照
オーソドックスな詩で、地道な努力を要求している内容であると思います。


一方の慧能の偈の内容を要約すると以下の通りです。
「菩提の樹などない、鏡もない、本来は無一物。どこに塵や埃をつけるのだ」という内容です。
これは仏教の『空』の思想に関係していると思えます。

神秀と慧能を比較すると、神秀の方が忍耐と努力を要求する修行内容であり仏教の本道であると自分は考えます。

人間にとってどちらが正しい修行のあり方であり、魂の進化にとって大事なことであるかと考えてみますと、神秀の修行論の方こそ王道であると思います。
つまり、努力を伴わない修行は意味がないということです。

空の思想は縁起とも関係してくるので、仏教にとって大事な教えであることは間違いありません。
ナガールジュナの中論には、空の説明の一つとして次のように書かれています。
「淨に依存しないで不浄は存在しない。それ(不浄)に縁って淨をわれらは説く。ゆえに淨は不可得である。不浄に依存しないで淨は存在しない。それ(淨)によって不浄をわれらは説く。ゆえに不浄は存在しない。」
要約しますと、淨と不浄とがそれぞれ自身の本質(自性)を持つならば、淨は不浄をはなれても存在し、また不浄は淨とは独立に不浄として存在するはずです。
しかし、淨も不浄もともに自然的存在の「ありかた」であるから、独立に存在することは不可能であるといえます。


存在が本質的不変性を持つのであれば、他に依存しないで自立的であるということです。
ですから、この世の存在は仮のものであり、幻であり過ぎ去っていくものであるという教えが空の教えであるといえます。

神秀の偈の内容は仏陀の修業論とおなじものであり、仏陀も地道な努力を要求していたはずです。
人間はどうしても肉体の欲望に引きずられますから、この世の存在のはかなさを教え、霊的世界こそ実在の世界であり、人間の本質も霊的存在と教えるために、この世を否定する空の思想が大事であったのだと思います。


地道な努力や忍耐、毎日の修行の積み重ねがあっての空の思想であると考えます。

人を驚かすような突拍子もない内容を書いて人をひきつけたり、意味不明な内容を書いて人を煙にまいたり、自己を正当化することは正しい修行者の姿ではありません。

仏典には以下のように書かれています。
「多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。心おだやかに、怨むことなく、恐れることがない人、かれこそ<賢者>と呼ばれる。」

修業とは地道な努力の継続であると思います。





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