2017年01月29日

宗教的自由の道 自由を意図的に間違って解釈するのが悪魔

宗教的自由の道 自由を意図的に間違って解釈するのが悪魔

精神的自由、内面の自由を確保するには、まずは、経済的自由を守る必要があります。
つまり、税金で財産権などを侵害してはいけないということです。
お金がなければ、自由を保障します、といわれましても浮浪者の自由しかなく、何もできません。


個人の自由及び他の人の自由を確保するには、必要最低限の規則、法律は必要でしょう。
一定のルールの範囲内であれば、個人の自由を保障する。
自分一人だけの自由であれば、法律など必要ないかもしれませんが、他の人の自由を侵害しないという意味で一定のルール規則は必要であると思います。

真実の自由とは、自分自身の主体的意志にもとづいて行動し、その結果に対しては責任をとるという態度だと考えます。
この責任という点を外した自由は、自己中心的な自由で、本来、人間に自由を与えられた神の目的と反すると考えます。

自由といっても各個人にあてはめて考えますと、認識(智慧)の広がりや、深さ、高さによって自由が条件づけられているものと思います。
本当の自由とは外部の条件や他の人によって規制されることなく、自分の意志によって考え行動することです。

しかし、人は知っている範囲内であれば、考え行動することも可能ですが、知らないことに関しては、「ない」のと一緒であるといえます。
霊的世界は現実に存在しますが、肉体に基づく感覚器官(五感)では、かすらないのでわからない、わからないということは「ない」というように一般の人は考えます。

この自由意志を、どの方向に使うかによって、人間は成長し天使になる可能性もありますが、また、堕落して地獄霊や悪魔になるという可能性もあります。

仏から自由意志を与えられているということが、因果関係や縁起の理法が成り立つための根拠であり、自由な行為に基づいて現れた結果に対しては、自己の責任が発生します。

カントは言います。「おまえの根本命題がすべての人に当てはまるように行動せよ」。

しかし、この考えは個人の意志、行為を殺してしまいます。
大事なのはすべての人に当てはまるような行動ではなく、個々の状況に合わせて、何をなすべきかが問題なのだとシュタイナーは述べています。

個々人の場合、状況にあわせて道徳原則を引き出せない人は、個的な意志に基づいて行為しているとはいえません。


宗教的自由を考えた場合、「根本命題がすべての人にあてはまる行動をせよ」では何かが欠けているように思います。
やはり、宗教的自由に基づく行為とは、仏の眼から見て正しいのかという判断基準があると考えます。
一般的社会における、すべての人にあてはまる行為とは、常識や良識がともなう行為ということになるでしょう。
しかし一般社会的価値観が狂っている場合もあるので、多くの人が常識として考えていることに右ならえというわけにもいかない場合もあると思います。
やはり、仏から見た正しい価値基準(仏法真理)に照らした行為であるべきです。

しかし、ある程度の自己確立ができていない人に対しては、強制的に戒律や法律を適用してもいいのではないかと思います。

更に宗教的な自由を考えるならば「私は、私の行為を通して実現しようとしている対象への愛と結びついている」という思いや姿勢が大事なのであると思います。

道徳規則に記載されているというだけで行動している人は、主体的な意志に基づいて行動しているとは言えず、ただの執行人にすぎない、と厳しいことをいわれる方もいます。

この行為は良いことだから行う、この行為は悪いから行わないというように悟性的(観念論的な意味での悟性、幸福の科学では理性に対応関係)判断をしてから行動するのではなく、私が行動するのは愛に基づいてである、というのが宗教的自由に基づく行為であると考えます。

それゆえに単なる義務の概念は、自由を排除するといえます。
なぜなら、個々の在り方を肯定しようというのではなく、一般的な規範に当てはめてしまうからです。


自由の問題として、悪魔と言われる狂暴霊も意図的に自由を間違って解釈し、一般の人々の判断を間違った方向に誘導しようとします。

自由であるから何をしてもかまわないという方向に誘惑していきます。
縁起の理法によって具現化した結果に対しての責任の部分を蔑ろにします。
つまり、他人に迷惑がかかっても自分勝手な自由を優先して行動するようになるのです。

そして、悪魔の自由を体現している人の特徴は、決して自分は悪いことをしたとは思わないということです。むしろ、自分は被害者であると考えます。
通常は、多くの人から批判をされた場合、自分の考えや判断、言動や行動に問題があるのではないかと考えます。これはまともな人の判断と言えるでしょう。

しかし、悪魔と仲良しになると、決して自分を振り返るということはせずに、周囲の人や批判する人が悪いと考えます。
責任はすべて自分以外の他人と考えるようになります。

ですから、自由を叫ぶ人が正しいのか間違っているのかを判断するには、責任の部分を省いていないかどうか、あるいは、その人自身が自己中心的な人物なのかどうかという観点から見ることも大切であると思います。





ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 02:12 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

小恍惚と神秘体験による魂の喜び 受け入れる心

小恍惚と神秘体験による魂の喜び 受け入れる心

人間の真実の幸福あるいは喜びは、内にあります。
外なる道徳規範に基づいた価値観によって人間は、本当の喜びを得ることはできないでしょう。

聖女と言われる人達は、神秘体験によって恍惚感を得るという体験をしていると思います。
リジューの聖テレジアの場合、病床にあって聖母マリアが優しく微笑んでくれたのを見たそうです。
その優しい微笑みをみて、彼女の病気は突然に治ってしまったとのことです。
彼女の姉たちが付き添っていたのですが、重病であった彼女の顔が光り輝いて見えたと述べています。

ルルドの聖ベルナデットは何度か聖母マリアを見ています。
彼女は、骨髄カリエス?か何かの重病で、激痛があるはずですが、苦痛を訴えていなかったようです。
信仰の力によって病気が回復します。

あるいは、他の聖者たちも白光を見る、あるいは、白光に包まれるという体験を通して、恍惚感を得ているようです。
このような神秘体験をしますと、世俗的なことに関して無関心と言いますか、地上的なものに価値を見出せなくなるようです。

唐の善道は、二河白道の話をされていたと思います。
右が貪愛(奪う愛)による洪水、左が瞋(怒りの炎)その中にあって救いの道(中道)を白道と言いました。
善道も、白光に包まれる体験をしたのかもしれません。

このような神秘体験は魂にとっての一大転機であると言えます。
地上的価値観がむなしくなってくるのでしょう。

しかし、簡単に自惚れる傾向の強い人は、霊的体験をしない方がその人自身のためともいえます。
底固めができていませんと、簡単に慢心し自分が菩薩・如来だと勘違いして、上から目線の発言をするようになります。

聖人たちは自分の体験を神の恩寵と呼んでいます。
それは自分の努力によって獲得したものではなく、まさに、神からの賜物として感じられるのでしょう。
中世の聖トマス・アクィナスは、「もっともよき認識は、授けられるものです」とのべています。
(しかし、トマス・アクィナス自身は、相当努力して認識を得ています。)

正しい意味における小恍惚感を得る人の心的特徴は、受け身であるという点です。
宗教的常識として、心が澄んだ状態であり受け身の気持ちであれば、インスピレーションを受けやすい状態であるといわれています。


宗教には慈悲の心が大切であると言えます。

慈愛の心と悲しみを知るということでしょう。

マズローの臨床的観察によりますと、至高体験の被験者には、あわれみと言いますか悲しみの心が顕著だそうです。

日常の何でもない風景の中に、悲しさを感じるのでしょう。

おじさんが、おいしそうに食事をしている姿を見てかわいそうだと思う
(かわいそうという気持ちは当然、自分が上に立って思うのではなく、自然にかわいそうだという気持ちになる)

道行く人を見て、この人も地上において苦しみながら魂修行をしているのだなと思う

努力も大切ですが、日常から離れて受け身的心情になれるように意識することも大切であると思います。




ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 03:29 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする