2018年03月10日

カント哲学で霊的世界を認識できる未来の可能性と仏教の認識論を比較する

カント哲学で霊的世界を認識できる未来の可能性と仏教の認識論を比較する

人間の知覚内容は、人間の感覚能力の範囲内に限定されています。

カント哲学では、人間の理性認識は、五感による経験的認識と対応関係にあります。
私達が客観的認識として確認できる範囲、あるいは、人間が観察できる範囲は、人間の身体組織に属する感覚器官に働きかけるものに限られます。

ですから、五感で認識できる幅が、理性認識の幅を規定することになります。

これがカントの限界であり弱点であると思います。
しかし、この弱点こそ霊的世界を認識できる可能性を内包していると思うのです。

五感を超えた高度な霊能力を有する人達には、上記の理論はあてはまりません。
人間の肉体に付随する感覚器官、五感の制約よる理性認識の限界を、高度な霊的能力を有する人達は感覚器官の能力の制約を超えた理性認識を獲得することができます。

人間がこれまでの感覚以上の感覚を持ったならば、あるいは、そもそも人間に別種の感覚器官が与えられているとするならば、世界はまったく別の姿をとって、私達の前に現れてくる可能性があると思うのです。

仮に人間の五感を超えた第六感が開発され、六感が霊的世界を直覚することができるとしたら、経験的認識の幅が拡張され、それに対応する理性認識も拡大するはずです。

しかし身体組織の制約を受けた知覚内容が、現実に対する何らかの基準になると考えるのは正しくありません。

なぜなら、新しい感覚器官を獲得するたびに、現実についての新しい姿が現れてきてしまうからです。

感覚器官は、真理の絶対的な正しい価値基準にはならないのです。

どんな種類の感覚を持ちえたとしても、知覚内容を概念と結びつける思考力がなければ、人間には事物を認識することはできないのです。

感覚器官は実に不確かなものです。
感覚器官でとらえる現象は、変転変化するために、限られた時間内でこれが真実だと認識してしまうのは過ちのもとであると思います。
例えば、種から芽が出てやがて花が咲きますが、種だけを見てこれが花の本質だと認識したとしたら大変な間違いになります。

一定の時間の枠内で、その対象の姿が真実をうつしていると考えことは誤りであると思います。



仏教の認識論である十八界の思想を要約します。

六根(六つの感覚器官)
眼・耳・鼻・舌・身・意
眼の機能・耳の機能というように感覚器官の性質、働きです。

六境(六つの対象)
色・声・香・味・触・法
これは感覚器官に対応する対象をあらわしています。

六識(六つの認識)
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
感覚器官とその対象の間の認識です。

肉体に基づく感覚器官と感覚器官に対応する事物、そして、感覚器官に対応する事物との関係をどのように認識するのか。
それが、自分と世界のすべてという思想だと思います。
全部合わせると18個ありますから、十八界といいます。

ここまでは、カントの観念論哲学と類似していると思えます。

しかし、十八界もよく考えてみますと、おかしいと思える点に気がつきます。
感覚器官と対象との関係の認識だとしますと、悟りの高さ、あるいは善人、悪人の違いはどころから生じるのでしょうか
悟りの高さに関係なく、感覚器官の機能や働き自体は善人、悪人に関係なくそれほどの違いがあるとは思えません。

善人でも悪人でも視覚的には、同じ対象を見ています。
同じ感覚器官を通して、同じ対象を見ていながら、認識には大きな違いがあります。
この違いはどこから生じるのでしょうか。

永い転生輪廻によって培われてきた魂の傾向性の違いにあると言えるかもしれません
あるいは概念の違いによる認識の差であると言えるのではないでしょうか。

同じ現象を観察しても、神を信じる信仰者と物がすべてと考える唯物論では、導き出される結論に大きな違いがあるはずです。
両者が霊存在を見たとしても、信仰者は素直にその現象を受け入れ、唯物論者は脳の混乱による幻覚と考えるかもしれません。

仏教的正しい概念とは、両極端を否定した中道であると考えます。
仏教の正しさにおける中道の見かたとは、すべての現象を地上における理性的な判断と霊的世界における正しい価値基準の両方から洞察がなされるべきです。

霊的世界における正しい価値基準とは、仏法真理のことをさします。
霊的現象がたとえわが身におきなかったとしても、仏法真理を深く学ぶことで霊的価値を知ることが可能であります。

霊的価値はカントの純粋理性批判の内容を遥かに超えています。

カントは経験という試練を経たものでなければ客観的認識として確証が持てない、経験的認識がないものは理性認識では判断できませんので、カント哲学は霊に関してはほとんど無力です。

しかし、霊的世界を知悉している者にとっては、地上的経験に関係なく、霊とは実在です。




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posted by ガンちゃん at 13:53 | Comment(2) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月25日

上位概念の形成 思考の重要性

上位概念の形成 思考の重要性

私達の前に事物が謎めいて現れてきます。
なぜなら、事物そのものの成立過程に立ち会っていないからです。
しかし、思考を通してその成立過程を考察することは可能であります。

私達は観察を通して知覚内容を得ることができます。
しかし、その知覚内容は無秩序で混沌とした状態です。
思考は、無秩序で混沌とした知覚内容を統一的にまとめる働きをします。

視覚を通して得られる知覚内容には、まだ、意味づけや価値判断が含まれていません。
知覚内容は概念との関係によって、意味づけが与えられます。
意味づけされていない知覚内容を概念と関係づける働きが思考です。

花の概念を認識するには、まず、花の知覚内容を持たなければなりません。
その後、概念の総体の中から特定の概念を取り出してきて、知覚内容に意味づけを与えていきます。

しかし、観察による知覚内容が増えるに従って最初にあった知覚内容と矛盾と対立が発生します。
知覚内容が広がるにつれて、最初にあった世界像と矛盾が生じ、訂正しなければならなくなります。
概念は、新しい知覚内容に対して意味づけや価値判断ができなくなり、対立が生じてきます。
この対立、矛盾を克服することで新しい概念、上位概念が形成されることになるのです。
対立、矛盾を上位概念で統一的にまとめる過程こそ発展の形式でもあると思えます。

世界は弁証法的運動形式によって発展していきます。

弁証法とは、自己自身の中で自己と矛盾し、自己を止揚し反対物に移行します。
肯定と否定が常に矛盾し、せめぎあいながら対立しています。
矛盾対立を高い総合的観点から統合する運動を弁証法と呼びます。
この弁証法的発展形式によって上位概念が形成されていきます。

「否定の否定」とも言います。
思考の歩みはある思考の規定が自己を否定して、その反対の自己に移行しこの両者の否定が再び否定されることによって解決されるという三段階の進行形式(正・反・合)をとります。
これが否定の否定であり、へーゲルはこれを絶対的否定性と呼んでいます。
これは、単なる否定のための否定ではなく最初の定立とその否定の反定立を総合したより高い否定(止揚統一)です。

知覚内容は概念によって意味づけされ、概念は新たな知覚内容によって高度な概念が形成されていきます。

思考的考察によって対立矛盾する知覚内容を統一できたならば、それは高い段階で一元的に認識できたことを意味しています

知覚内容が多様な現れ方をするのは、身体組織の制約のもとに現れるたんなる仮象にすぎません。
私たちが対象を観察するとき、肉体に基づく感覚器官によって知覚します。
この知覚内容は身体組織の機能に依存した形で知覚されます。
眼の器官、耳の器官は複雑な機能をしているために、神経を通して脳に伝わる間に情報が変化してしまいます。ですから私達は事物をありのままに見ていないのです。


思考は、多様な現れ方をする視覚内容から得られる知覚内容を理念的に止揚統一していきます。
止揚統一を繰り返すことで、高度な概念を形成していくことになります。

一元的に考えるなら、自分の内にある概念も他人の内にある概念も深いところで同じ概念を共有しているといえます。
宗教的には、すべての人に仏性、神性が宿っており、自他はこれ別個にあらず一体なりということです。

自分の内にある概念を深く思考し掘り下げます。その後、掘り下げたその眼でもって相手の概念を見ていきます。

自分の内にある概念を掘り下げたその眼で相手の概念をも見ていくのです。
相手の概念を見たということは、相手を理解したことであり、相手を理解したということは、相手を愛したことと同じです。

愛の根拠は、すべての人に神と同じ仏性・神性というダイヤモンドを有しているからです。
そのダイヤモンドの発現の仕方は様々ですが、同じダイヤモンドを有しているということは、本質的にすべての人間は仏や神の下では兄弟といえます。

ヘーゲルやシュタイナーも概念に対して、同じ意味づけをしていると思います。
ヘーゲルは概念こそ、事物の本質であるとしました。
概念こそ、すべての自然物の本質であり、概念を掴むということは自然そのものと一体化することと同義です。
カントは物自体を認識できないという立場をとったのは、概念と存在を分けて考えたいたため、存在そのものを私達は認識できない、概念が照らし出す存在の一部分、すなわち現象しか認識できないという立場をとりました。

ヘーゲルは概念を認識することは自然そのものを認識したということであり、概念こそ物自体であるので、概念で認識できないものは何もない、これがヘーゲルの概念に対する立場です。

後世の学者で、ヘーゲル哲学を、もはや「人間の哲学」ではなく、神が人間のうちにいて思索しているがごとき、非人間的、超人間的な哲学であると、批判している人がおります。
しかし、これは人間が仏の子であることを知らず、高級諸霊の世界計画を知らない、凡庸な学者の寝言だと言えるでしょう。黄金の法 参照



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posted by ガンちゃん at 21:29 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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