人間の知覚内容は、人間の感覚能力の範囲内に限定されています。
カント哲学では、人間の理性認識は、五感による経験的認識と対応関係にあります。
私達が客観的認識として確認できる範囲、あるいは、人間が観察できる範囲は、人間の身体組織に属する感覚器官に働きかけるものに限られます。
ですから、五感で認識できる幅が、理性認識の幅を規定することになります。
これがカントの限界であり弱点であると思います。
しかし、この弱点こそ霊的世界を認識できる可能性を内包していると思うのです。
五感を超えた高度な霊能力を有する人達には、上記の理論はあてはまりません。
人間の肉体に付随する感覚器官、五感の制約よる理性認識の限界を、高度な霊的能力を有する人達は感覚器官の能力の制約を超えた理性認識を獲得することができます。
人間がこれまでの感覚以上の感覚を持ったならば、あるいは、そもそも人間に別種の感覚器官が与えられているとするならば、世界はまったく別の姿をとって、私達の前に現れてくる可能性があると思うのです。
仮に人間の五感を超えた第六感が開発され、六感が霊的世界を直覚することができるとしたら、経験的認識の幅が拡張され、それに対応する理性認識も拡大するはずです。
しかし身体組織の制約を受けた知覚内容が、現実に対する何らかの基準になると考えるのは正しくありません。
なぜなら、新しい感覚器官を獲得するたびに、現実についての新しい姿が現れてきてしまうからです。
感覚器官は、真理の絶対的な正しい価値基準にはならないのです。
どんな種類の感覚を持ちえたとしても、知覚内容を概念と結びつける思考力がなければ、人間には事物を認識することはできないのです。
感覚器官は実に不確かなものです。
感覚器官でとらえる現象は、変転変化するために、限られた時間内でこれが真実だと認識してしまうのは過ちのもとであると思います。
例えば、種から芽が出てやがて花が咲きますが、種だけを見てこれが花の本質だと認識したとしたら大変な間違いになります。
一定の時間の枠内で、その対象の姿が真実をうつしていると考えことは誤りであると思います。
仏教の認識論である十八界の思想を要約します。
六根(六つの感覚器官)
眼・耳・鼻・舌・身・意
眼の機能・耳の機能というように感覚器官の性質、働きです。
六境(六つの対象)
色・声・香・味・触・法
これは感覚器官に対応する対象をあらわしています。
六識(六つの認識)
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
感覚器官とその対象の間の認識です。
肉体に基づく感覚器官と感覚器官に対応する事物、そして、感覚器官に対応する事物との関係をどのように認識するのか。
それが、自分と世界のすべてという思想だと思います。
全部合わせると18個ありますから、十八界といいます。
ここまでは、カントの観念論哲学と類似していると思えます。
しかし、十八界もよく考えてみますと、おかしいと思える点に気がつきます。
感覚器官と対象との関係の認識だとしますと、悟りの高さ、あるいは善人、悪人の違いはどころから生じるのでしょうか
悟りの高さに関係なく、感覚器官の機能や働き自体は善人、悪人に関係なくそれほどの違いがあるとは思えません。
善人でも悪人でも視覚的には、同じ対象を見ています。
同じ感覚器官を通して、同じ対象を見ていながら、認識には大きな違いがあります。
この違いはどこから生じるのでしょうか。
永い転生輪廻によって培われてきた魂の傾向性の違いにあると言えるかもしれません
あるいは概念の違いによる認識の差であると言えるのではないでしょうか。
同じ現象を観察しても、神を信じる信仰者と物がすべてと考える唯物論では、導き出される結論に大きな違いがあるはずです。
両者が霊存在を見たとしても、信仰者は素直にその現象を受け入れ、唯物論者は脳の混乱による幻覚と考えるかもしれません。
仏教的正しい概念とは、両極端を否定した中道であると考えます。
仏教の正しさにおける中道の見かたとは、すべての現象を地上における理性的な判断と霊的世界における正しい価値基準の両方から洞察がなされるべきです。
霊的世界における正しい価値基準とは、仏法真理のことをさします。
霊的現象がたとえわが身におきなかったとしても、仏法真理を深く学ぶことで霊的価値を知ることが可能であります。
霊的価値はカントの純粋理性批判の内容を遥かに超えています。
カントは経験という試練を経たものでなければ客観的認識として確証が持てない、経験的認識がないものは理性認識では判断できませんので、カント哲学は霊に関してはほとんど無力です。
しかし、霊的世界を知悉している者にとっては、地上的経験に関係なく、霊とは実在です。
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