2018年08月27日

真理哲学の構築 実存主義を乗り越えヘーゲルの観念論・プラトンに帰れ

真理哲学の構築 実存主義を乗り越えヘーゲルの観念論・プラトンに帰れ

ヘーゲル哲学は、人間の認識の可能性を神にまで高める思想であったといわれています。
ヘーゲル以降の哲学は、キルケゴールに始まる実存主義の流れです。
ヘーゲルが到達した、世界を神の視点から俯瞰するかのような普遍的・絶対的真理に対してキルケゴールは、主観的真理、自分自身に対しての真理を探究しようとしました。

霊的世界を無視し、地上のおける人間としての生き方や正しさを探究しても真実の答えを見つけ出すことは出来ないでしょう
実存主義とは、霊的世界や魂を理解することが出来ない迷える人間が、自分の意志に関係なく地上に投げ出されてさまよえる自分自身がどのようにして真理にたどり着けるかという哲学なのでしょう。
人間が「死に至る病」を背負って生きる存在だと考える実存主義哲学では、あるいは霊的世界と人間の本質である精神、魂を理解できていない実存主義哲学では、永遠に真実をつかみ取ることは出来ないでしょう。

更に20世紀で有名な哲学者は、ハイデガーです。
『存在と時間』で知られている哲学者です。
ハイデガーの時間論を知るには、過去世であるアウグスチヌスの時間論を知ることによって理解の一助になるかと思えます。

アウグスチヌスの時間論は以下の内容で書かれています。
「もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。
現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは、現在の期待である。
私は時間を測ることを知っている。しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。それでは何を測るのか?現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。」

ハイデガーのような哲学者としてではなく、キリスト教父としてアウグスチヌスは時間と存在に関してどのような考えを持っていたのかを考察すると、アウグスチヌスは時間を現象の変化としてとらえていたのかもしれません。
地上における時間は、過ぎ去っている時(現象の変化)知覚対象として成立しますが、次の瞬間には知覚対象として認識できません。
ですから、現存在とは時間であるという考えだと思います。


ハイデガーは、人間とは日常生活の可能性のなかに投げ出されながら(被投性)、未来の可能性に向かって、積極的に自分を投げ企ててゆく(投企する)存在として「被投的投企」という考えを示しました。


実存主義哲学は、人間とは自分自身の意志に関係なく地上に投げ出され、偶然に地上に存在している弱い自分が現実に生きている、その自分とは運命の流れや時代性によって翻弄されていますが、どのようにすれば未来を切り開いて行けるのか、投げ出された存在(現存在)である自分が主体的に運命の流れを変えていくにはどうするべきか、その答えを求めている哲学といえます。


時間を線に例えるならば、物質世界における時間は点の移動ということになるかもしれません。
しかし、心の中には過去、現在、未来が存在し、過去は記憶、現在は直覚、未来は期待に対応させて考えていますので、心の世界だけは、過去、現在、未来に移動することができるということでしょう。
つまり、心とは、3次元の物質世界を超えた、4次元時空、4次元以降の存在形態を有しているということになると思います。

人間の本性、本質は心です。
アウグスチヌスが時間論で説明したように、心こそ過去・現在・未来にわたり消滅することのない実在で、心の法則性、メカニズム、機能を知り、自分の心を統御する、コントロールすることで未来を主体的にのりこえることができるという結論だと思います。

霊的な裏付けのない哲学思想は、人間を偶然に存在する弱い存在という捉え方をするのかもしれません。

ハイデガーは、人間は存在であり、存在に場所を与え、存在に時間を与えるという思想であると思われますが、カントの時間、空間に関する意味付けに近い感じをうけます。

カントは、時間・空間は現象に依存する規定ではなく、現象そのものを可能ならしめる普遍的条件であり、外的な現象の根底に必然的にあるアプリオリ(先見的)な表象である。
人間の直感は、時間・空間の枠組みの外に出ることはできず、時間・空間という規定された、枠組内でしか、直感することができません。ゆえにカントは、時間・空間を直観するための根本形式であると言っていたと思います。

そして時間と空間は、他の条件や経験、考え方などに左右されることがないので純粋直観と述べていました。

空間と時間は認識するうえでの前提条件という意味だと思います。

ハイデガーは、「実は、自分の哲学のなかに、自分の置かれている立場を語っていた。その運命の流れに抗することができない自分に対する苛立ちと苦悩が、実は描かれていた」と言われています。


ヘーゲルの『現実的なものは理想的(理性的)であり、理想的(理性的)なものは現実的である』という意味は、地上において現実的なるものから理念や理想を引き出し、理念や理想を現実に具現化するべく努力するということだと考えます。

霊的世界における正しさや価値秩序を地上において実現する、それがヘーゲルやプラトンの哲学に帰ることだと自分は考えます。



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posted by ガンちゃん at 01:43 | Comment(1) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

ヘーゲルの概念論と空の究極

ヘーゲルの概念論と空の究極

空の意味するところは、地上に存在するすべてのものには、本質を有しているものなどありません、固有の性質をもつものなど地上においてはないのです、という考え方です。

ある人にとっては忌まわしい虚飾である花が、聖なる世界の風光となって仏に捧げられ、毒物が時には薬として用いられ、凡夫を惑わす愛情が仏陀にとっては衆生の慈悲になる、というようにすべてのものは対照的であると同時に転換が可能であります。

存在するものはただ一つの事象、同じ世界であって、それを俗として聖とし、あるいは迷いとみるか悟りとみるかは人の側の区分にすぎないのです。
その区別から執着が生じ、そこから誤った行為や煩悩が生じてしまいます。
その区別と執着を捨て去ることが空の思想の一つの考え方です。

様々な範疇によって区別された本質や実体とは、実在するものではなくて、言葉の意味の実体化にすぎないというのです。
過去、現在、未来にわたって恒常的に存在する実体とは、人間の思惟の世界における概念としてのみあるもの、言いかえれば言葉にすぎないのです。

例えば、私の目の前にある机は、個物としての実体をもっていません。
なるほど、私が机の上に本を載せて読めば、机です。
しかし、私が腰をかけて座れば、それは椅子であるといえます。
斧で割れば薪となり、火にくべれば灰となり雲散霧消して無に帰するはずです。

もし机としての実体があるならば、それはすべてにとって同一の実体と機能を有するはずです。
現実は机の上で読書することもできれば、子供の遊び場所になり、猫は寝台として寝そべり、犬は寄ってきて片足を上げる。
このように様々な認識と効用が起こるのは、机としての実体をもたないからです。
空の思想 梶山著者 参照。

しかし、空の思想とはすべての否定につながるだけの存在論で終わるわけではありません。
空の思想を突き詰めると『ある』のです。
「無」とは存在しないことでしょうが、「空」とはあるのです。
すべての存在は上記で書きましたように、固定的な実体としてあるのではなく、変化していくものなのです。
それは三次元的な変転変化を意味しているのではなく、地上と霊的世界を含めた流転を意味しています。流転の法則によって地上的な存在は最終的に消滅して消えますが、霊的な存在もまた次元相応に変化し続けています。
そして最後に残る究極的形態が『念』であるわけです。
この姿かたちなき思考するエネルギーが最終的に残る究極の形態です。
空は思考するエネルギーまで分解したときにあるといえます。
これが「空」における究極の存在形式であると思います。

人間を含めた万象万物は、すべて霊的エネルギーあるいは神仏の光によって創造されています。
あるいは、すべてに仏の光(仏性)が宿っているといえます。
一切衆生悉有仏性

万象万物を含むすべての人間に仏性が宿っているからこそ、お互いに愛し合うことが大切であるのです。

哲学者ヘーゲルは哲学的論理思考で、自然や人間にはすべてに共通する仏性が内包されているという結論を導き出したのかもしれません。

カントが述べる概念とは、事物を認識するための枠組み、思考するための規定であり認識するための土台としての概念という位置づけです。

カントがいう概念によって認識できるものとは、五感によって経験できる限定された範囲のもの、本質の一部であり現象面に限られます。
ですから、概念と事物が別々の存在として分離しています。

ヘーゲルの述べている概念とは、人間を含めた自然そのものの本質を意味していると思えます。
自然も人間も概念を本質として、概念によって成り立っています。

概念は個人の主観的なものではなく、すべてに共通して内包されている普遍的なものです。
共通する普遍的概念を内包しているからこそ、基本的な正しさが認識できるのだと思えます。
すべてに共通する普遍的概念がなければ、宗教も思想も道徳も人間にとって無意味なものになることでしょう。

人を傷つけたり、殺したりすることは悪いことであると教わらなくてもある程度理解することができるのは、精神が普遍的概念によって思考するからです。

概念こそが神の子人間としての本質であり、自然自体の本質でもあるといえます。

私自身の深いところにある概念を知ることは(ソクラテスの汝自身を知れに通じる)、他者の概念を知ることになり、自然の本質をも知ったことになります。

絶対精神(という名の神の存在)によって創られた精神に宿る概念こそ、すべてのものの本質であるという認識だと思います。

ですからカントが認識した概念とヘーゲルが認識している概念には相当な意味の違いがあると考えます。

カントが意味する概念とは、外界の世界に対しての人間の認識、感性・直観という試練を経たものでないと客観的な認識としては成立しない、人間が語ることの許される理性認識とは、感性・直観を通して経験できる範囲に限定される限界をかくしています。
感性・直観によって経験できる範囲とは、事物の現象面であり本質の一部分ですから、人間の認識は事物の本質まで知ることは許されていないと考えたのでしょう。

しかしヘーゲルは概念こそが、すべてに共通する本質そのものと考えたので、人間の限られた経験に依存することなく、自分の精神の深いところにある普遍的概念を知ることで相手の概念を知ることになり、万象万物の本質をも知ることにつながると考えたのではないでしょうか。

このように考えると、ヘーゲルの述べている概念の意味するところと、上記で書きました空の本質、究極の存在形式である思考するエネルギーが『神性・仏性』という言葉で統一できることが可能であることが理解できます。

正心法語に書かれている一説
「自他は これ 別個に非ず 一体なり」
という一行の中には、深い哲学的な意味も含まれているのだと思います。



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posted by ガンちゃん at 01:12 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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