人間の本質は『思考』あるいは考えることにあります。
「動物にも備わっている魂を、精神に作り変えるのは思考の働きである。」とヘーゲルは述べています。
これは、霊界においては実体験として確認できる事実であるといえます。
高次元ほど具体的な思考形式ではなく、抽象的思考になっていくようです。
そして精神の状態、精神性の違いによって同じ対象を観察しても違う現れ方をすると言われています。
同じ川を見ても高度な精神性を有する魂には、光り輝く川に見えるかもしれません。
地上的な価値観、唯物論にそまり欲望のままに生きてきた魂にはドブ川に見えるかもしれません。
精神性の違いによって同一対象が違って観察されるということは、地上における客観性というものが霊界においては存在しないことを意味しています。
霊界においては自分の精神性を見ているのかもしれません。
時間においても同じ空間を共有しつつも同一時間の流れの中を生きているとは言えません。
私は時間の本質とはエネルギーの消費と考えていますから、現象の変化が激しいほど単位あたりのエネルギー消費量が大きいので時間の速度は速く進み時間の幅が短くなります。
霊界においては思いがすべて実現するといわれています。
魂の自由を束縛するものがありませんから、思ったこと考えたことが具現化すると言われています。
しかし、私はこの法則には条件があると考えます。
それは、認識力の範囲内においての自由であるということです。
ですから、魂にとって認識できていない世界に関しては「ない」のと同じです。
人は意識する精神なしでは存在する世界を知ることができません。
事物の存在は知覚され認識されることで成り立っています。
このような観点に立てば知覚されているもの以外はそもそも知覚内容が存在しないことになります。
誰にも見られていない色、誰にも聞かれていない音はそもそもどこにも存在しません。
すべての出来事は知覚行為の外には存在しません。
それらは常に私達の主観に依存している特性に結びついて存在しているといえます。
それでは、霊界における認識が地上においてどのように展開するのでしょうか。
私達の前に事物が謎めいて現れてきますが、それは事物そのものの成立過程に立ち会っていないからですが、思考を通して初めてその成立過程を考察することが可能になります。
私達は最初に観察を通して知覚内容を得ることができます。
視覚を通じて光や色の感覚体験を、触覚によって硬い柔らかい等の感覚体験を与えられます。
これらの異なる個々の知覚体験は同じ一つの対象に結びあわされます。
脳に提示される個々の知覚体験は、魂によって結合され統合されるといえます。
あるいは、感覚器官を通じて得られた知覚内容はこの時点では無秩序で混沌とした状態であり意味づけがなされていません。私との関係性はありません。
知覚内容は概念との関係において初めて意味付けがされます。
概念の総体から特定の概念あるいは個別概念を選び出し知覚内容と結合することで対象に意味づけがされます。
知覚内容と概念は思考を通じて関係性を持つことになります。
概念から照らされる光によって、知覚内容に自分自身との関係性や意味付けがされるのです。
しかし観察による知覚内容が増えるに従って、概念によって意味づけができない矛盾対立が生じてきます。
知覚内容の範囲が広がるに従って、これまで信じていた世界像を訂正しなければいけなくなります。
新たな知覚内容に対して、今までの概念では意味付けができなくなり、自分の内に対立矛盾が生じてきます。
この対立、矛盾を克服していくことによって概念の総体が拡がることになります。
対立矛盾を止揚統一していく過程で概念の総体が拡大することになります。
このように弁証法的運動によって高度な概念が形成されていきます。
知覚内容は概念によって意味が与えられ、概念は知覚内容によって拡大高度化していく相互関係にあります。
しかしこの知覚内容は、身体器官の性質に依存しています。
目の器官、耳の器官は複雑な機能をしている為、神経を通して脳に伝わる過程で知覚内容が変化してしまいます。
ですから人間には事物の本質、対象をありのままに観察することができません。
対象と感覚器官との関係を認識しているにすぎません。
知覚内容は事物そのものではなく身体組織の一つの現れであるにすぎません。
感覚器官は機能的に限界がある為、総体の中の一部、断面しか確認できません。
ですから地上における認識には限界があり、不完全性があるといえます。
感覚的なものは変転変化する為に、限られた時間内でこれが真実だと認識してしまうと判断を間違えることになります。
例えば花の成長過程を一連の流れで観察するとします。
種から根をはり芽が出て茎が伸び、葉が茂って花が咲いていきます。
しかし時間を区切って種だけを観察し、花の本質とは種のことであると認識したら事実の一面しか見ていないことになります。
一定の時間の枠内で、その対象の姿が真実をうつしていると考えることは間違いであるといえます。
花の概念を形成するには、まず花の知覚内容を持たなければなりません。
その後に概念の総体の中から特定の概念(この場合は花の概念)を取り出してきて、知覚内容と関連付けて意味を与え総合的に対象を認識することになります。
霊界と地上おける認識の共通点は客観性を持ち得ないことだと思います。
同じ対象を観察しても、個人の認識力の高下あるいは拡がり、価値観、興味や関心等の違いによって異なった認識をするということです。
それぞれの人が違った認識をしている以上、同じ世界を生きているとは言えないと思います。
そして大切なことは、宇宙は人間の存在(意識を持った存在)と無関係に独立して存在しているのではないということです。
宇宙は意識ある人間が認識するから存在し、人間は宇宙自身を知ってほしい為に存在するかのようです。
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