2017年11月14日

霊界と哲学のはざまで

霊界と哲学のはざまで

『視霊者の夢』という本を題材にしてスウェーデンボルグに対してカントがどのように考えていたのかを観察しながら、現代に関しても霊的世界を認識できない、あるいは客観的ではないので学問的対象から除外する、証拠がないという理由で霊界を否定する人達に対して、霊的世界や魂の本質を伝えるきっかけがつかめればと考え、わかる範囲で考察してみようと思います。

カントやスウェーデンボルグ以外にも歴史上、思想的な対決がありました。ソクラテスとソフィストたち、ヘーゲルとショーペンハウアーなどです。

スウェーデンボルグは数学や鉱物学を学びスウェーデン国の鉱山局の技師をつとめ、その後、数十年にわたって貴族院議員として政界で活動しました。その一方、科学者、発明家としても大きな業績を残した方です。

1766年カントは、『視霊者の夢』を刊行し、スウェーデンボルグとの対決する姿勢を明らかにしました。
カントの結論は、人間は霊魂や霊界との交流に関する空想、夢想を退け、むしろ現実の生活にまじめに取り組むべきだという結論に至りました。
『視霊者の夢』の末尾には、「…あの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場を、いかにたもっていくかということにかかっているらしく思われることからしても・・・・多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにある」と述べています。

『純粋理性批判』を書いたカントの立場からすれば、霊魂や霊的世界のように、経験をこえた世界に関して認めてしまうと、カント哲学の崩壊を意味することになります。

カントは、感性による直観によって対象を観察し、人間精神に宿る概念によって対象を認識することができると述べていたと思います。

カントの概念とは、対象を認識するための枠組み、あるいは思考するための規定であり、まず経験がなければ概念で対象を認識することができないという立場です。
また、カントのいう概念によって認識できるものとは、現象として現れた部分のみ、感覚器官により経験が確認できる範囲のものに限定されています。
つまり物の本質ではなく、あくまでも五感を通して確認できる本質の一部、現象部分のみである。と『純粋理性批判』では、いわれていたと思います。

つまり、霊的世界とは経験をこえたところにあり、概念で照らす以前の話になるので、物事を認識することができないという結論になるため、100%信じるというところまではいけなかったのではないかとおもいます。
・・・かといって全面否定をしているわけでもありません。
文書にこのようなことが書かれている箇所がありました。
「わたしとしては、この世に非物質的存在があると主張し、わたしの魂もこうした存在のクラスに入れておきたいという気持ちになっている」と述べています。
完全否定するのではなく認めたいという気持ちをどこかに持っていたかもしれません。

しかし反面では、「将来人々は、たしかに霊について、いろいろと考えはするであろうが、もはや多くを知ることはできないだろといっておきたい。」とも述べています。

しかし、カントの哲学を理由に、霊的存在を否定するということは、「キリスト教」「仏教」「イスラム教」を否定していることにつながります。

唯物論的考え方は、現在でも過去の歴史の中でもある考え方ではありますが、真実は一つであり、霊的世界が本来の世界であることは、必ず証明されると確信しています。

更にカントは言います。
「重要なのは常に道徳性である。これこそわれわれが護持せねばならぬ聖なるもの、侵しがたいものであり、さらにこれこそすべてのわれわれの思弁と探求の基礎であり目的である」と述べています。

この点は難しい議論でありますが、仏教で説かれているように人間の感覚器官は不完全なものであり、五感とその対象、その関係の認識によって人間は自分自身や世界観を構築しています。
しかし、感覚器官が不完全なものである以上、霊的存在が経験的に見ることができなくとも否定する根拠にはならないと思います。

スウェーデンボルグは「全人類はひとしく霊界と密接に結びついているが、ただ彼らはあまりにも粗雑であるために感じないということだ」とのべたうえで、「人間の記憶を内的記憶と外的記憶にわけ、外的記憶をこの世のもの、内的記憶をあの世のもとする。この内的記憶のなかに、外的記憶から消滅したものがすべて保存されている。死後、かつてその人間の魂のなかに去来したものすべてが、すなわち,おかした罪やなされた美徳のすべての完全な追想が出現する」
と言われていますが、ルドルフ・シュタイナーも人間の地上での記憶は死後、忘れ去られていくが、経験を通して得られた力や、精神性などは魂の記憶として来世に持っていくことができると書かれていたと思います。

最後にカントは言います。「肉体的存在はけっしておのれの自存性をもっているわけでなく、ひたすら霊界によってなりたっているとのスウェーデンボルグの考えに同調している。
物質的事物の認識は2種類の意味をもっている。一方は、物質相互の関係における外的意味であり、他方は、原因である霊界の作用として物質的事物が表わされる場合の内的意味である。この内的意味は、人間には知られていない。そこで、スウェーデンボルグはこれを人間に知らせねばならなかった。この点におのれの使命があると彼は思っていた。」

つまり、カントとスウェーデンボルグの役割がちがっていただけであり、平面的に見ると対立しているように思えます。
しかし、正・反・合である弁証法によって統合していく観点が必要であると思います。

私は、哲学も最初から霊的世界を否定せずに、霊界は存在し人間の本質とは肉体ではなく肉体に宿る魂であるという観点で理論を組み立てていく必要があると考えます。



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posted by ガンちゃん at 01:50 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月05日

ヘラクレイトスと仏教の共通点 変転変化と弁証法

ヘラクレイトスと仏教の共通点 変転変化と弁証法

ヘラクレイトスの思想は、プラトンやヘーゲルの哲学に大変な影響を与えていると考えられます。
ヘーゲルは「ヘラクレイトスの命題で、私の『論理学』のうちに、とりいれられなかったものは一つも有りません。」と言わしめています。

ヘラクレイトスの考え方の特徴として、消去法を用いるのではなく、結合法を用いた論理の組み立て方をしていると考えられます。『これか・それか』というのではなく、『これも・それも』という、弁証法的思考方法です。
例えば、ある土地に家を建てれば、そこにある草地を破壊しますが、家を破壊すれば、草地を創りだす。破壊を伴わない創造はないし、逆もまた真なりということです。

論理的な一般原理として、このように述べています。「存在は非存以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。真理は対立物の統一としてしか存在しない。」一切は流れる。なにものも存続せず、おなじままということはない。

この考え方は、仏教の『空』の思想と同一と考えても良いかと思います。
感覚的なものは、すべて変化するものであり、実体として、あるいは本質を有しているものではありません。すべては、原因や条件に依存し縁起によって存在しているがゆえに、変化をしない固定的な存在はありません。
ヘラクレイトスが言うように、「存在は非存在以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。」と同じ意味だと考えます。

ヘラクレイトスは、一だけがあり、他の一切はこの一が形を変え、変化し加工されてものである。この一以外の一切は、ながれ固定せず、自分をもちこたえない。つまり、真実は「なる」であって「ある」ではない。
ヘラクレイトスは「なる」が原理であり、真実であると認識していました。
「存在は非存在とおなじく存在しない。『なる』はあると同時にない」
存在と非存在は対立する関係で、対立する観念が一つに結ばれ、「なる」のうちには存在と非存在がともにあるとされています。
「なる」は生成だけでなく、消滅も含んでいますので、この二つがばらばらのものとしてではなく、同一のものとして「なる」のうちにあります。両者が同一だという説明です。

自然は一瞬たりとも静止することがなく、対立に駆り立てられ絶えず流動しています。この世では、生物であれ無生物であれ、時間の経過とともに変化しないものは皆無なのだ。森羅万象は流転する。

ヘラクレイトスは仏教に通じる思想を残しています。
「同じ河にわれわれは入っていくものであり、入っていかないのでもある。われわれは存在するとともに、また存在しないのである」

「私は、事物が変化するというこの瞬間に、私自身も変化している」

真理とは、「なる」過程のことであり、ちがうものあるいは、対立するものが一体化していく過程を表現しています。

「死なぬ者が死ぬ者であり、死ぬ者が死なぬ者なのだ」
どれも、霊的に深い洞察が伺える内容です。
ヘラクレイトスによると、人間の生においても死においても、生きることと死ぬことが一体になっています。なぜなら、我々が地上において生きている時には、霊魂は死んでおり、肉体に閉じ込められています。逆に、地上において死を迎える時、霊魂はよみがえって霊的に生きるから。

ヘラクレイトスは、すべての存在がながれ、感覚的に確信されてものはあると思ったときにはもうない。だから感覚的な知のうちには真理はないと述べています。



ヘラクレイトスは、火を根本原理としていたようです。常に万物は火と、火は万物と交換されると言われていたと思いますが、この火を現代的なエネルギーに置き換えると、アインシュタインが物質とエネルギーが等価変換されるといわれていた意味とほとんど同じではないかと考えます。

エネルギーは、質量に光速の二乗をかけたものと同じである。

エネルギーと質量.jpg

あるいは
エネルギーと振動数.jpg
エネルギーは定数×振動数である。

25世紀も先駆けてこのように考えることができるとは、真理は昔も今も表現の違いはありますが、不変であるということなのでしょう。

仏教との関係でヘラクレイトスの思想を考えていきます。

ヘラクレイトスは、「生まれてから、生きていくつもりになるが、それはまた、死を覚悟することなのだ」
と言われていますが、善勇猛般若経には、「出現する性質のものは、なんでもすべてが滅する性質をもつ」「出現の本質、それはおのずから破滅することであり、それが『滅』である。」
「生起と同時に滅である」と書かれていますが、述べられている内容は同じことであるとみてよいでしょう。
断常の中道で言われていますように、今の自分の状態が常に続いていく考えは、まちがえであります。また、死ねばすべてがなくなるといった唯物的な考え方も間違えです。
魂自体は来世も続いていきますが、運動形式や表現形態がちがっていきますので、変化しながら存在するが正解であるということだと思います。

肉体を含めて物質的なものは、その生まれた瞬間、生じた時、発生した時点ですでに滅びに向かっており、永遠に続いていく存在ではありえませんが、だからこそ逆に、この世を超えた霊的世界に対して目を向ける必要があると考えます。
また、地上という相対のなかに生きているからこそ、霊的世界の素晴らしさを再認識できるとも教わっています。
ヘラクレイトスは、「悲しい日々を体験しなければ、楽しい日々を過ごすことができないし、不幸についてせめて漠然とでも認識していなくては、幸福を評価することができないのである。苦痛に対する快楽や、涙から切り離された笑いについても、同じことが言える」と述べています。

真実の世界観を獲得する智慧は大事なものでありますが、真理を聞いても右から左に抜けていく人がいます。
ヘラクレイトスが言うには、「実は考えることは万人に共通なのだが、知というものは大多数の所有物ではないのである。たいていの人々は、歩いているうちに、道がどちらに向いているのかを忘れてしまうのである」と述べられています。
また、「彼らは眠っている時の所業を忘れているように、覚めているときの所業にも気づかないのだ。そしてロゴスには出会う前も後も、気がつかない。」といわれています。
ヘラクレイトスの言葉に「いてもいない」という名言がありますが、肉体はその場にいても、思考する主体、魂が別のところに飛んでいて、真理を聞けども音にしか感じ取れないという人が今も昔もいるということでしょう。

ロゴスとは、概念・意義・定義・説明・理由・理論・思想・等に用いられたり、あるいは、言語の能力・思惟・理性・思考力の意に用いられたりしますが、ヘラクレイトスに関しては、一切を貫き支配する理法(世界理性)という意味で使用していると考えられます。

ヘラクレイトスは、五感から生じる認識は間違いであると、いろんな箇所で指摘しています。

一般大衆の認識に関しての間違えは、ロゴスの代わりに、五感を用いることに執着しているからだ。あるいは、「目は耳よりも正確に証言するが、もちろん、これは識別能力を有する人の目の場合である。逆に、野蛮人には目も耳も語らない。なにしろ誤謬は五感というよりも霊魂に依存しているし、霊魂が愚鈍ならば、それはすでに・・・・」と辛口の言葉を述べていますが、自分が思うに、ヘラクレイトスはソクラテスやプラトン同様に霊的能力をもっていたのではないかと思えます。
仏教のように高度な霊的能力を有しながら同時に、理性的な人物であったのだと思えます。

また、智に関しても厳しく論じています。
「智を求める人は、実に多くのことを探究しなければならないのである。そしてその際に、表面にあるものであれ、一見して現れているものに迷わされることなく、ものの内部に隠れているものであれ、それぞれのものを徹底的に検討しなければならないのである。
もの自体は美しくも醜くもないし、良くも悪くもないのであり、それらの目的によって初めて、そういうものとなるのである。
仏典には、物自体は空であり人間が分別しているだけであるという意味が書かれています。

それだから、神々が戦争を淘汰とみなす以上、それは望ましものかもしれませんが、それは人間からすれば死をもたらすから最悪のものである。どの現実も肯定的な面と、否定的な面という両面を必ず有する。海水は魚には貴重だが、人間には致命的である。一見して凹状に目えるものが、凸状にあることもありうる。
あることが、正しいか正しくないかを決めるために、人間は理性にではなく、五感に頼っているが、このことから錯覚に陥るのである。そして、賢者が人間に警告をしている時にでも、彼らは信用しなくて、まるで眠っているかのよう行動する。」

なんと現代にも当てはまる言葉であろうか。
ヘラクレイトスの思想が仏教の思想とあまりにも共通していると思います。

ヘラクレイトスのまとまった思想書がありませんので、記述が断片的になってしまいましたが、仏教とギリシャのヘラクレイトスの思想の共通点が理解されたらいいと思えます。


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posted by ガンちゃん at 23:25 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする