2017年06月19日

歴史の偉人たちが考察した時間と空間・仏教的時空論

歴史の偉人たちが考察した時間と空間・仏教的時空論

ニュートンの『プリンキピア』自然哲学の数学的諸原理 中央公論社があります。
時間・空間の説明として、「絶対的な真の数学的な時間は、それ自身でそのものの本性から、外界の何者とも関係なく、均一に流れ、別名を持続ともいいます。
総体的な見かけ上の日常的な時間は、持続の運動による精密にしろ、不精密にしろ、ある感覚的で外的な測度で、人々が真の時間の代わりに使っているものです。一時間とか一日とか一ヵ月とか一年というように」
時間の定義ですが、絶対時間と相対時間に分け、私達が通常使っている一時間とか一日というのは相対時間です。

空間に関しては、「絶対的な空間は、その本性としてどのような外的事物とも関係なく、常に同じ形状を保ち、不動不変のままのものです。
相対的な空間は、この絶対的空間の測度、すなわち絶対空間のどのようにでも動かしうる広がりで、我々の感覚によってそれの物体に対する位置より決定されるものであり(相対的な空間というのは、絶対空間の適当な部分の広がりを私達の感覚で受けとったものであり)人々によって不動の空間の代わりにとられているところです。
大気圏の広がりとか天空の空間の広がりとかといったものがそれにあたります。」

このような偉大な科学者ニュートンは、神の存在を信じていました。この宇宙はすべてが秩序立ち、数量的に完璧に計算しつくされているからです。
これは偶然ではありえません。
この宇宙は明らかに作られた形跡があります。

当会の教えも、大宇宙は神仏の念によって創造されたと説明されています。
念とはエネルギーであり、意志とはエネルギーの方向性ではないかと自分は考えています。

哲学者カントは、『純粋理性批判』で、時間と空間は、アプリオリ(先天的)な、経験に先だって与えられた「直観形式」あるいは純粋直観と説明していたと思います。

人間は、何かを考え、行動するにしても、基本的枠組みが決まっていて、その枠組みの範囲で物事を認識します。その認識の枠組みが時間・空間であるといった説明をされていたと思います。
時間・空間は我々の経験や条件に関係なく、先天的に与えられた直観形式です。

神秘学のブラヴァッキーは宇宙の存在に対して、宇宙には、存在しようとする意志があるからだと説明しています。空間は空虚な広がりではなく、力に満ちた実体であり、意志の現れである。と述べていたと思います。


若いころのシュタイナーは時間の始まりに関して、「その存在の本質が物質の世界に顕れ出た瞬間に、時間が始まる」と述べています。
時間はいつ始まるのか。それは、本質が現象化する瞬間であると言われています。
本質自体は没時間的でありますが、その本質が現象化する時に、一挙に、本質の凡てが物質界に現象することはありませんので、時間のプロセスの中で、本質的なものが次々に顕現していきます。

ゲーテ的にいえば、メタモルフォーゼと呼ぶのでしょうが、例えば、種を土に蒔きますと、土の中から芽が現れて、次第に茎がのび、葉が伸びて花が咲いていきますが、それぞれの存在段階においてメタモルフォーゼを遂げて、物質界に自らを現わしています。
物質界に自らを現わすのと時間が始まるのは同じことだとシュタイナーは言われていますが、一なるものから全てが流れている流出論に似ていると思えます。

ヘラクレイトスは「なる」が原理であり、真実であると認識していました。
「存在は非存在とおなじく存在しない。『なる』はあると同時にない」
存在と非存在は対立する関係で、対立する観念が一つに結ばれ、「なる」のうちには存在と非存在がともにあるとされています。
「なる」は生成だけでなく、消滅も含んでいますので、この二つがばらばらのものとしてではなく、同一のものとして「なる」のうちにある。両者が同一だという説明です。

自然は一瞬たりとも静止することがなく、対立に駆り立てられ絶えず流動しています。
この世では、生物であれ無生物であれ、時間の経過とともに変化しないものは皆無なのだ。森羅万象は流転する。


仏教的には縁起や諸行無常・諸法無我の思想にも通じているように思えます。
諸行無常が時間論に対応し、諸法無我が存在論(空間)に対応していると言えます。
諸行無常
すべては移ろいゆくものです。
時間の流れの中で変転変化していきます。
地上において固定的なもの変化しないものはありません。
時間の流れの中に変化が内包され、あるいは消滅が内包されていると思います。

諸法無我
すべては縁起によって成り立っています。
原因と条件に依存し、お互いが支え合って存在します。
この地上には、自らなる性質、自性なるものはありません。
実体のあるもの恒常不変なるものはありません。
仏教の存在論だと思います。

歴史の偉人たちに共通して言えることは、すべての根拠に神の存在があると信じているということです。
神を信じているからこそ、偉大なる思想が偉人達を通して私たちの世界に降ろされたと言えます。


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2017年01月01日

王陽明と朱子の思想と対立関係にある唯物論

王陽明と朱子の思想と対立関係にある唯物論

王陽明の思想は唯心論に近い思想であると思います。
唯心論とは、世界の本質と根源を精神的なものに求める思想で、物質的なものをその現象あるいは、仮象とみなす学説です。
精神的なものとは、精神、霊魂、意志などをあらわしていると思います。
一者から万物の流出を説くプロティノスや、理念の支配を説くヘーゲル、あるいは仏教、朱子学や陽明学などがあります。観念論哲学に通じるものがあると考えます。
すべては心の中にあり、心の表れである。そこに事物が存在するわけではなく、心で思うことが実在であり、実体であるという考えであると思いますが、人間原理宇宙論に通じるものがあると思います。

人間原理宇宙論とは、人間の意識と宇宙とはお互いに依存関係にあるという考え方です。
人間が観測したとき、はじめて宇宙は実在する?といった量子力学の哲学的な側面、純粋思索から生まれた考え方です。

王陽明は「すべては心の中にあり、心の表れなのだ。
だから、谷間に咲くユリの花であっても、そのユリの花が存在するわけではなく、心の状態である「寂」の表れたものが、その谷間のユリなのだ」王陽明 自己改革の道・参照
霊的世界における法則を、地上的に置き換えて表現しています。

そして、王陽明は実践の大切さにかなりの比重をおいています。
「知行合一」という言葉は有名ですが、知っているということと、行動は同じであるという意味です。
本当に知っているのであれば、具体的な行動に転化するはずだということでしょう。

朱子は、「まず‘理’というものがあります。
理とは、理念であり、プラトン的な表現をすれば、イデアということになるでしょう。
事物の本質的な真理のことを言いあわわしていると思えます。
その理念を、現実世界・物質世界に具体化するためには‘気’が必要なのである。
高次元にある理念が、気というものを通して地上世界に具現化する」
という思想であると思います。
つまり朱子は二元的に、形而上(霊的、精神的な意味)と形而下(物質的、肉体的)に分けたのです。

朱子は、この地上に現れているものの中に、理念、真実が含まれていると考えました。
これを「理一分殊」といいます。

これは、現実の中に理念をみるというヘーゲル哲学に似ている感じを受けます。

黄金の法には、月の例えが記述されています。
川や水たまり、湖や海にうつる月は不完全ではありますが、いくつも存在するように見えます。
しかし、月(本質あるいは理念)は一つであるという意味です。
プラトンのイデア説に類似しています。

映し出される存在は、不完全でいびつな形をしています。
しかし、本体(本質)は完全な美しい状態であるとういうことだと理解します。

王陽明も朱子も、根底に観念論哲学的、仏教的、ギリシャ哲学的な思想が含まれていると自分は考えています。

観念論と唯物論の関係を考察します。

古い哲学的命題にこういう話があります。
「森の中で木が倒れましたが、あたりにはそれを聞く人が誰もいませんでした。はたして、木は倒れる音を発するでしょうか?」
この問いに対する科学的な回答は常にこのようなものでした。

「森で木が倒れたならば、必ず音を発し、大気中に音波が伝わると・・・」

しかし、量子力学では、観測されないかぎり何事も客観的には実在しないとして、この仮定に疑問を投じてくるのです。
例えは、1個の電子が粒子として、あるいは波としても観測されるということ、その違いは何かといいますと、観測目的をあらかじめどちらに設定するかによって決まることを知っています。
しかし、私たちは1個の電子が同時に波であり、粒子ではありえないことも知っています。
波は粒子ではなく、粒子は波ではないからです。
意識ある存在(人間)がどちらかの実験方法を選択することで、実在が、意識ある存在の思った通りに観測されるということです。

観測という行為が可能なのは唯一「意識ある存在のみです」
つまり、宇宙は観測されなければ存在しない。そしてそれを観測できるのは、意識ある生物だけであります。
つまりそこに生物が存在するから宇宙があるといった考え方です。

唯物論とは、精神的なものに対して、物質の根源性を主張する立場であり、観念論と対立する思想であると思います。
物質とは無縁な霊魂や精神性を一切認めず、実証科学に基づいて思考を高度に組織された物質(脳髄)の所産とするといった考え方であると定義できると思います。

プラトンの洞窟の譬えは有名ですが、ルドルフ・シュタイナーも唯物論に対して比喩を用いて説明しています。
唯物論とは、地面についた足跡を研究していて、実際の足や人間についての研究がなされていない状態であるといった説明をしていたと記憶しています。
地面についた足跡をいくら研究し、調べてみたところで真実がわかるわけもありません。

経験を通して追体験できない、客観的に証明しようがないという理由で学問として成立しない、学問的に認められないということは、各個人がそれを認めるか、認めないかの違いだけである。
という理由で否定してくる場合が多いのではないかと思います。

しかし、物がすべてという唯物論的な考え方は、人間の品性を落とし、刹那的な人間を作り出してしまうのではないでしょうか。
霊的な存在を信じるわけでもなく、神や仏の存在を信じるわけではなく、人が見ていなければ何をしてもかまわないといった人が増え続けることで、動物的な社会が構築されてしまう危険性を感じます。

真実の意味における人権問題とは、人間の尊さとは肉体のほうにあるのではなく、肉体に宿りたる魂のほうにあり、魂の核の部分には神仏と同じ光りを有しているからこそ人間は尊い存在であり、そこにこそ人権を守ろうとする正当性が生じてくると自分は思います。

歴史上、霊的世界の証明をしようとした偉人は数多くいます。反対に古代のギリシャから物がすべてとする唯物論的な哲学?もありました。

しかし、真実は一つです。
唯物論も正しいが霊的世界も正しいということはありません。






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posted by ガンちゃん at 03:11 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする