2017年11月28日

仏教の旗印・三法印とヘラクレイトスの思想

仏教の旗印・三法印とヘラクレイトスの思想

諸行無常とは「この世に存在するすべてのものは、流動していくものであり、変転していくものであり、変化こそが本質である」という考え方です。

無常とは、冷たいとか悲しいという意味ではなく、「常ならず」という意味です。恒常的なもの固定的なものは存在しないということだと考えます。
流動的な立場だからこそ、縁起の理法が成立すると考えられます。原因や条件によって人生や世界は変化していくという考えです。

諸法無我は、物質世界は仮の存在であり、すべては夢幻の世界であるとする考え方です。この地上には実体的なものは存在しなという「空」の思想につながる考えです。

すべての存在は恒常的なものでなく、その存在自体に滅びの性質が内在されています。滅びはその存在自体にすでに備わっているものであり、滅びていくものと、新しく生まれてくるものは一体であり循環しているものであります。
すべてのものは滅びていく存在であると同時に、新しく生まれ変わってくる存在でもあるので、自性なるもの、自らなる性質はありません。

ここでヘラクレイトスの思想と比較してみたいのですが、ヘラクレイトスの思想は断片的で現在あまり残っていないようですが、わかる範囲で仏教の思想と比較していきたいと思います。

ヘラクレイトス 前535頃〜475頃 ギリシャの哲学者
「なにものも有ることなく常に成るのみ、万物は流転する、万物は流れて止まらず」哲学小事典より
「万物の根源は火である」というのが彼の思想の核心であり、また「万物は絶え間なく流転する」とも説きました。
プラトンはヘラクレイトスの複雑な思想のなかから、その核心をなすものとして「万物流転」を取り上げました。
プラトンによれば、ヘラクレイトスは、この世界に存在するすべてのものは、一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返していると主張しました。
「諸君は同じ河に2度足を踏み入れることはできない。なぜなら新しい河水が、絶え間なく諸君に押し寄せてくるからだ。」このようにヘラクレイトスは述べて、この世界に恒常的なものは何もないと主張しました。

プラトンはヘラクレイトスのこの思想を、自分の思想の中に巧妙にとりこんだと思われます。
つまり、感覚し得る世界には永遠なるものは何も存在しないということの証拠として万物流転の思想を利用しながら、他方では感覚を超えた知性的な存在としてのイデアを主張したのです。
たとえば火についても、それはアリストテレスが要約したような、静的な原理には留まらない。火は始原的な要素であり、万物がそこから生じた元のものではあるが、それ自身が不変の実体といったものではなく、絶えず燃えながら変化しているものである。「火は空気の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる」といった具合に、すべてが相互回帰的に循環しながら、流動しています。
そこには、戦いのイメージがあります。「戦いがすべてのものに共通して見られ、正義であることをわれわれは知らねばならぬ。」

この戦いのイメージは、戦いを通じての統一のイメージとも結びついています。
「対立物の統一」の思想です。
戦いにおいて対立物は調和であるところの一つの運動を生み出すべく結合する。「万物から一が生じ、一から万物が生ずる」という言葉は、この絶え間なき運動の過程を象徴したものです。
ヘラクレイトスにとって世界とは、もろもろのものがせめぎあいつつ、その動的なプロセスのなかから調和したものや一なるものが生成されていきます。

統合する対立物というヘラクレイトスのこの思想は、やがてヘーゲルによって血肉化され、弁証法的な思考へと発展していくことになります。

仏教やギリシャ哲学、あるいはヘーゲルの観念論哲学は共通する部分が実に多いです。
存在の本質は変化であるという点で感覚的なものを実体として観察していません。

涅槃寂静に関しては、自分の領域を超えていますが、諸行無常と諸法無我の関係で考察すると、この物質世界の中で人間の本質は魂、あるいは霊的な存在であり、常に霊的な視点から自分自身の考え方や行動を観察し人生の誤りを軌道修正する。
そのような修行の先にある極致かもしれません。



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posted by ガンちゃん at 01:27 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月14日

霊界と哲学のはざまで

霊界と哲学のはざまで

『視霊者の夢』という本を題材にしてスウェーデンボルグに対してカントがどのように考えていたのかを観察しながら、現代に関しても霊的世界を認識できない、あるいは客観的ではないので学問的対象から除外する、証拠がないという理由で霊界を否定する人達に対して、霊的世界や魂の本質を伝えるきっかけがつかめればと考え、わかる範囲で考察してみようと思います。

カントやスウェーデンボルグ以外にも歴史上、思想的な対決がありました。ソクラテスとソフィストたち、ヘーゲルとショーペンハウアーなどです。

スウェーデンボルグは数学や鉱物学を学びスウェーデン国の鉱山局の技師をつとめ、その後、数十年にわたって貴族院議員として政界で活動しました。その一方、科学者、発明家としても大きな業績を残した方です。

1766年カントは、『視霊者の夢』を刊行し、スウェーデンボルグとの対決する姿勢を明らかにしました。
カントの結論は、人間は霊魂や霊界との交流に関する空想、夢想を退け、むしろ現実の生活にまじめに取り組むべきだという結論に至りました。
『視霊者の夢』の末尾には、「…あの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場を、いかにたもっていくかということにかかっているらしく思われることからしても・・・・多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにある」と述べています。

『純粋理性批判』を書いたカントの立場からすれば、霊魂や霊的世界のように、経験をこえた世界に関して認めてしまうと、カント哲学の崩壊を意味することになります。

カントは、感性による直観によって対象を観察し、人間精神に宿る概念によって対象を認識することができると述べていたと思います。

カントの概念とは、対象を認識するための枠組み、あるいは思考するための規定であり、まず経験がなければ概念で対象を認識することができないという立場です。
また、カントのいう概念によって認識できるものとは、現象として現れた部分のみ、感覚器官により経験が確認できる範囲のものに限定されています。
つまり物の本質ではなく、あくまでも五感を通して確認できる本質の一部、現象部分のみである。と『純粋理性批判』では、いわれていたと思います。

つまり、霊的世界とは経験をこえたところにあり、概念で照らす以前の話になるので、物事を認識することができないという結論になるため、100%信じるというところまではいけなかったのではないかとおもいます。
・・・かといって全面否定をしているわけでもありません。
文書にこのようなことが書かれている箇所がありました。
「わたしとしては、この世に非物質的存在があると主張し、わたしの魂もこうした存在のクラスに入れておきたいという気持ちになっている」と述べています。
完全否定するのではなく認めたいという気持ちをどこかに持っていたかもしれません。

しかし反面では、「将来人々は、たしかに霊について、いろいろと考えはするであろうが、もはや多くを知ることはできないだろといっておきたい。」とも述べています。

しかし、カントの哲学を理由に、霊的存在を否定するということは、「キリスト教」「仏教」「イスラム教」を否定していることにつながります。

唯物論的考え方は、現在でも過去の歴史の中でもある考え方ではありますが、真実は一つであり、霊的世界が本来の世界であることは、必ず証明されると確信しています。

更にカントは言います。
「重要なのは常に道徳性である。これこそわれわれが護持せねばならぬ聖なるもの、侵しがたいものであり、さらにこれこそすべてのわれわれの思弁と探求の基礎であり目的である」と述べています。

この点は難しい議論でありますが、仏教で説かれているように人間の感覚器官は不完全なものであり、五感とその対象、その関係の認識によって人間は自分自身や世界観を構築しています。
しかし、感覚器官が不完全なものである以上、霊的存在が経験的に見ることができなくとも否定する根拠にはならないと思います。

スウェーデンボルグは「全人類はひとしく霊界と密接に結びついているが、ただ彼らはあまりにも粗雑であるために感じないということだ」とのべたうえで、「人間の記憶を内的記憶と外的記憶にわけ、外的記憶をこの世のもの、内的記憶をあの世のもとする。この内的記憶のなかに、外的記憶から消滅したものがすべて保存されている。死後、かつてその人間の魂のなかに去来したものすべてが、すなわち,おかした罪やなされた美徳のすべての完全な追想が出現する」
と言われていますが、ルドルフ・シュタイナーも人間の地上での記憶は死後、忘れ去られていくが、経験を通して得られた力や、精神性などは魂の記憶として来世に持っていくことができると書かれていたと思います。

最後にカントは言います。「肉体的存在はけっしておのれの自存性をもっているわけでなく、ひたすら霊界によってなりたっているとのスウェーデンボルグの考えに同調している。
物質的事物の認識は2種類の意味をもっている。一方は、物質相互の関係における外的意味であり、他方は、原因である霊界の作用として物質的事物が表わされる場合の内的意味である。この内的意味は、人間には知られていない。そこで、スウェーデンボルグはこれを人間に知らせねばならなかった。この点におのれの使命があると彼は思っていた。」

つまり、カントとスウェーデンボルグの役割がちがっていただけであり、平面的に見ると対立しているように思えます。
しかし、正・反・合である弁証法によって統合していく観点が必要であると思います。

私は、哲学も最初から霊的世界を否定せずに、霊界は存在し人間の本質とは肉体ではなく肉体に宿る魂であるという観点で理論を組み立てていく必要があると考えます。



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posted by ガンちゃん at 01:50 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする