2017年01月01日

王陽明と朱子の思想と対立関係にある唯物論

王陽明と朱子の思想と対立関係にある唯物論

王陽明の思想は唯心論に近い思想であると思います。
唯心論とは、世界の本質と根源を精神的なものに求める思想で、物質的なものをその現象あるいは、仮象とみなす学説です。
精神的なものとは、精神、霊魂、意志などをあらわしていると思います。
一者から万物の流出を説くプロティノスや、理念の支配を説くヘーゲル、あるいは仏教、朱子学や陽明学などがあります。観念論哲学に通じるものがあると考えます。
すべては心の中にあり、心の表れである。そこに事物が存在するわけではなく、心で思うことが実在であり、実体であるという考えであると思いますが、人間原理宇宙論に通じるものがあると思います。

人間原理宇宙論とは、人間の意識と宇宙とはお互いに依存関係にあるという考え方です。
人間が観測したとき、はじめて宇宙は実在する?といった量子力学の哲学的な側面、純粋思索から生まれた考え方です。

王陽明は「すべては心の中にあり、心の表れなのだ。
だから、谷間に咲くユリの花であっても、そのユリの花が存在するわけではなく、心の状態である「寂」の表れたものが、その谷間のユリなのだ」王陽明 自己改革の道・参照
霊的世界における法則を、地上的に置き換えて表現しています。

そして、王陽明は実践の大切さにかなりの比重をおいています。
「知行合一」という言葉は有名ですが、知っているということと、行動は同じであるという意味です。
本当に知っているのであれば、具体的な行動に転化するはずだということでしょう。

朱子は、「まず‘理’というものがあります。
理とは、理念であり、プラトン的な表現をすれば、イデアということになるでしょう。
事物の本質的な真理のことを言いあわわしていると思えます。
その理念を、現実世界・物質世界に具体化するためには‘気’が必要なのである。
高次元にある理念が、気というものを通して地上世界に具現化する」
という思想であると思います。
つまり朱子は二元的に、形而上(霊的、精神的な意味)と形而下(物質的、肉体的)に分けたのです。

朱子は、この地上に現れているものの中に、理念、真実が含まれていると考えました。
これを「理一分殊」といいます。

これは、現実の中に理念をみるというヘーゲル哲学に似ている感じを受けます。

黄金の法には、月の例えが記述されています。
川や水たまり、湖や海にうつる月は不完全ではありますが、いくつも存在するように見えます。
しかし、月(本質あるいは理念)は一つであるという意味です。
プラトンのイデア説に類似しています。

映し出される存在は、不完全でいびつな形をしています。
しかし、本体(本質)は完全な美しい状態であるとういうことだと理解します。

王陽明も朱子も、根底に観念論哲学的、仏教的、ギリシャ哲学的な思想が含まれていると自分は考えています。

観念論と唯物論の関係を考察します。

古い哲学的命題にこういう話があります。
「森の中で木が倒れましたが、あたりにはそれを聞く人が誰もいませんでした。はたして、木は倒れる音を発するでしょうか?」
この問いに対する科学的な回答は常にこのようなものでした。

「森で木が倒れたならば、必ず音を発し、大気中に音波が伝わると・・・」

しかし、量子力学では、観測されないかぎり何事も客観的には実在しないとして、この仮定に疑問を投じてくるのです。
例えは、1個の電子が粒子として、あるいは波としても観測されるということ、その違いは何かといいますと、観測目的をあらかじめどちらに設定するかによって決まることを知っています。
しかし、私たちは1個の電子が同時に波であり、粒子ではありえないことも知っています。
波は粒子ではなく、粒子は波ではないからです。
意識ある存在(人間)がどちらかの実験方法を選択することで、実在が、意識ある存在の思った通りに観測されるということです。

観測という行為が可能なのは唯一「意識ある存在のみです」
つまり、宇宙は観測されなければ存在しない。そしてそれを観測できるのは、意識ある生物だけであります。
つまりそこに生物が存在するから宇宙があるといった考え方です。

唯物論とは、精神的なものに対して、物質の根源性を主張する立場であり、観念論と対立する思想であると思います。
物質とは無縁な霊魂や精神性を一切認めず、実証科学に基づいて思考を高度に組織された物質(脳髄)の所産とするといった考え方であると定義できると思います。

プラトンの洞窟の譬えは有名ですが、ルドルフ・シュタイナーも唯物論に対して比喩を用いて説明しています。
唯物論とは、地面についた足跡を研究していて、実際の足や人間についての研究がなされていない状態であるといった説明をしていたと記憶しています。
地面についた足跡をいくら研究し、調べてみたところで真実がわかるわけもありません。

経験を通して追体験できない、客観的に証明しようがないという理由で学問として成立しない、学問的に認められないということは、各個人がそれを認めるか、認めないかの違いだけである。
という理由で否定してくる場合が多いのではないかと思います。

しかし、物がすべてという唯物論的な考え方は、人間の品性を落とし、刹那的な人間を作り出してしまうのではないでしょうか。
霊的な存在を信じるわけでもなく、神や仏の存在を信じるわけではなく、人が見ていなければ何をしてもかまわないといった人が増え続けることで、動物的な社会が構築されてしまう危険性を感じます。

真実の意味における人権問題とは、人間の尊さとは肉体のほうにあるのではなく、肉体に宿りたる魂のほうにあり、魂の核の部分には神仏と同じ光りを有しているからこそ人間は尊い存在であり、そこにこそ人権を守ろうとする正当性が生じてくると自分は思います。

歴史上、霊的世界の証明をしようとした偉人は数多くいます。反対に古代のギリシャから物がすべてとする唯物論的な哲学?もありました。

しかし、真実は一つです。
唯物論も正しいが霊的世界も正しいということはありません。






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posted by ガンちゃん at 03:11 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

人間の本質についての宗教的・哲学的・神智学的考察

人間の本質についての宗教的・哲学的・神智学的考察

人間の本質を知るということは、神や仏の存在を知るということにつながると、私は考えています。
そして、神とは、教えであり法であると言えます。

神の法を地上において具現化する直接的使命を担うのは、宗教と哲学であると言えます。

宗教と哲学はともに真実の探求にありますが、宗教と哲学の違いとは何か。
宗教の考察する対象と哲学の考察する対象が、ともに絶対者(仏神)であり、その把捉の手段が宗教は表象であるのに対して、哲学は思惟によって絶対者に到達しようとするという違いです。

何度も書きますが、人間が人間として尊い存在とされるのは、目に見えない神の存在を信じ、その教えを理解し行動するところに人間としての価値を見出すことができるからです。

人間の本質を簡単に定義するならば、転生輪廻を繰り返し神仏に向かって成長する永遠の魂(霊)である。と言えます。
人間は過去の体験から得た諸印象は、やがて記憶から消えていくでしょう。
しかし、努力しながら魂に刻み付けた諸成果は消えずに記憶されるものと考えることができます。

同じ環境に生まれた子供が、条件的に同じように育ったとしても、性格や能力の違いをどのように説明すればよいのでしょうか。
それは、今回生まれてくる前の前世において、魂に刻み付けた成果の違いによるものです。
つまり、霊的存在であるところの人間は、以前の人生の繰り返しとして、諸体験の成果を担って生まれ変わってくるということです。
今の人生は、以前の人生の繰り返しであり霊は前世において学び取ったものを、必然的に伴ってきます。
縁起の理法、因果関係の正しさは、前世の人生まで入れて計算することで、辻褄があいます。
肉体は、遺伝の法則に従っています。
しかし、人間の魂は永遠に生まれ変わりを繰り返します。
転生の法則は、人間の霊が前世の成果を次の生の中に持ち込むというところにあります。
魂は、現世に生きています。
しかし、現世の中に生きているということは、前世の生活から独立しているということではありません。
生まれ変わった霊は、前世の人生から運命を持ってくるからです。


宗教や哲学、その内容において段階があるということも認めなければなりません。
ヘーゲルは「自然宗教」から「精神的個性の宗教」へ概念的発展があり、絶対宗教として啓示宗教であるキリスト教について分析しています。

自然のままでありがたいとする自然崇拝的な宗教は、高度な宗教とはいえず、世界的宗教には高度な教えがあるといわれています。
その教えを学び実践することで個人としての精神が向上し、死後、天国に変えることができるが、教えを学ぼうとせず、地上的な欲望のままに生きたならば、死後、地獄に落ちるということを教えています。
霊界には大きく分けて天国と地獄があり、善と悪が明確に分かれているといわれています。
その霊的世界における善悪を知らずに地上で生きているということは極めて危険を伴うということです。
ある意味で、宗教や哲学は転ばぬ先の杖として、死後、地獄に落ちないように現世の生き方を教えています。

世界宗教の教えには時代や地域を超えた普遍性があります。
ヘーゲルは宗教と哲学は同じ内容をもち、哲学は宗教の内容を思惟の形式において提示するだけであり、この見かけの対立を克服するかぎり、「哲学は神学である」と結論付けていたと思います。

更に、人間あるいは世界の本質を洞察するときに、感覚的なものは無常であり、変化こそ宇宙の真実であると考察できます。
ヘラクレイトスの万物は流転するという言葉は有名ですが、存在に関してこのように述べています。
「存在は非存以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。真理は対立物の統一としてしか存在しない。」一切は流れる。なにものも存続せず、おなじままということはない。

へーゲルも大論理学で以下のように述べています。
「ある」は「ない」。「ない」は「ある」と同じである。「ある」と「ない」は同じである。しかし、本当は「ある」は「ない」に、また逆に「ない」は「ある」に移ってしまっており、両者は絶対に区別されるが、しかし分離できない。この意味で、それぞれは他方において「消滅する運動」であって本当は「なる」なのである。と書かれています。
ヘラクレイトスは、一だけがあり、他の一切はこの一が形を変え、変化し加工されてものである。この一以外の一切は、ながれ固定せず、自分をもちこたえない。つまり、真実は「なる」であって「ある」ではない。
ヘラクレイトスがいう「一」だけがありというところを、プラトン的に理念として置き換えてもいいかもしれません。

月は、海や湖面、川などにうつしだされますが、月それ自体は一つであり、まずは理念があり地上的には多様な現れ方をするということです。

世界は常に変化の中にあると言えます。有と無はコインの表と裏の関係であり、完全に切り離すことができず、消滅と誕生を繰り返しているのでしょう。すべてが相互回帰的に循環しながら、流動しています。

この三次元物質世界は生々流転の法則に支配されています。すべての存在は変転の時間を内包し静止した存在は有りないと言うことなのでしょう。
上記で述べましたが、ヘラクレイトスは、この世界に存在するすべてのものは、一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返していると主張しました。
「諸君は同じ河に2度足を踏み入れることはできない。なぜなら新しい河水が、絶え間なく諸君に押し寄せてくるからだ。」この世界に恒常的なものは何もないと世界の本質を見抜いたのでしょう。

逆に考えるならば、変転変化するからこそ存在があるといえます。すべての存在は変転を前提として有ることがゆるされているといえます。太陽の法 参照

時間の流れのなかで流転する存在の背後に、永遠に変化しない何かがあります。その何かとは、仏教的には「色即是空・空即是色」という言葉の意味なのでしょう。
変化の背景にある不変なるものの実在、普遍的なる存在が投映されて、流転するこの世的存在になっていることを見抜いた真理の言葉です。

三次元的な物質世界は霊的世界から流れ出た影の世界であり、この幻の世界の中にあって、霊界世界の真実や人間の本質である魂ついてどれだけ認識できるかが、真実の宗教や哲学のめざす方向性だと思います。



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