2011年03月11日

ガンちゃん;教育に関して その4

自分から見て、現代の教育の問題点と思われる部分を素人的観点から考察していきたいと思います。

まず、人間とは何か、人間の本質とは何か、人はどこから来てどのに行くのかなど教育の根っこの部分がしっかりとした哲学的、あるいは宗教的なバックボーンがないために教室が荒れ放題になり、先生は、とても先生と呼びる人物とは思えない、あるいは人を教える資格など本来無い人間が生活のためだけに教師をやっている。(もちらん子供たちのために全力で教育をしてくださる、素晴らしい先生はいつの時代でもいらっしゃいます。)

教育の法でも、先生の存在やその言動は子供たちのその後の人生にも大きな影響を与えると言われていたと思います。

自分ごとで恥ずかしいのですが小学校の頃、クラスの友達の一人が授業中トイレに行かないで我慢をして、漏らしてしまったことがあります。周りの生徒はみんな笑っていましたがその時、女性の先生でしたが、コテンパに叱られました。
その時におっしゃられてた言葉が『もし、自分がそのような立場だったらどうするの』という内容だったと記憶しています。
勉強の内容はすべて忘れてもこの言葉だけは、しっかりと覚えています。

この時、自分は汝のしてほしいと思うことを他の人にも施せ、あるいは自分が嫌なことは他人にもするな、ということを身をもって実体験したということです。

つまり先生の行動や言葉の一つ一つが子供たちに人格を作る上で非常に大きな影響を与えているということです。

教育の法の2章いじめ問題解決のためにという題で、いじめについての現在の学校の対処の仕方や教師の隠ぺいなどが書かれていましたが、はっきり言って読んでて腹の中が煮えくりかって怒りが収まらない気持ちでした。

子供が自殺まで追い込まれているほど苦しんでいるというのに、いじめ側とつるんだ形をとり、校長を含めて学校の外部に漏れないように隠ぺいすることに力を使っているとは、いったいどのような人間なのか本当に信じられないことだと思うし、このまま許してはいけないことだと心底思う。

子供が自殺したというのに、その子の気持ちを考えようともせず、家族の気持ちも考えず、親族など、人の気持ちが全く理解できないで、ただ自己保身のために今も教師をしているのかと思うと、何としてもこの人物を教育の場から引きづりおろしたい。

子供が苦しんでいるのに教師および校長などが責任から逃げることばかり考えているとは、言葉を選ばなければいけないがクズだと思うし・・・どうにかならないだろうか。

初めのほうで人間の本質とは何か、どこから来てどこに行くのかと言う問題定義をしたが、シュタイナーの教育関係の本には、こんな内容が書かれていたと思います。

『今ここに存在している、全く頼りないように目の前で泣き叫んでいる赤ちゃんも、その中に遠い過去からの豊な経験を潜在的に含んだ豊かな種子としてここにいる。』あるいは、

『種子が開花と結実の結果として、今ここに存在しているように、子供の魂も長い運命のプロセスをたどった末に、時期がきて、再びこの地上で人生を歩みたいという衝動にうながされて今この世に生れ、一生懸命新たに与えられた肉体と結びつこうとしている。』

つまり人間の本質は霊的存在であり、長い転生輪廻の中でいろんな経験を通し魂を鍛えながら、目指すべき方向として仏神に少しでも近づこうとしながら努力している。

このような見方を本質的なところでもっていれば、子供はほっておくと何をしでかすかわからない得体のしれない存在なのでしっかり管理しなければいけないという性悪説的考えで、子供を動物とかわらないという考え方は出てこないはずである。

つづく・・・
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posted by ガンちゃん at 02:32 | Comment(0) | 教育について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

ガンちゃん;教育について その3

こんな話を読んだことがあります。
十九世紀のドイツになぞの人物がいて、ニュールンベルグの街頭にいきなり姿を現したのですが、この人物は、十六歳〜十七歳まで全く感覚器官を働かす余地のない小部屋に閉じ込められていたとのことです。この謎の人物は感覚だけでなく、知性も全然発達させることができていなかったそうです。
つまり、人間は感覚器官によって外界からの刺激を受けとめることができなければ実際問題、知性が発育しないし、発達もしないということで動物にかなり近い存在になってしまう。
ですから、感覚器官によって脳が刺激を受けなければ知性を開発することができないということです。

ところが、あまりにも感覚器官でとらえられた現象がすべてだといった世界観は、唯物論的な考えや物質がすべてといった方向性に生きやすい。
仏教的には常楽我浄の四顚倒に陥ってしまう。
デカルト的にも感覚は往々にして誤謬に陥らせてします。

大事なことは感覚によって目覚めさせられた知性が感覚の一つ一つを理性の光でもって吟味し、客観的な世界を再構築したときに初めて、成熟した知性を手に入れたことになる。
あるいは、仏法真理の知識を正しさの物差しとして、価値判断することで人間的な成長が促されていくと考えます。

コメニウス(近代教授学の父)の教育の考え方として直感的教授法、『認識とは、つねに直感から始まる様々な事情をできるだけ多く感覚に訴えかけて指導する)という立場で述べられています。
つまり従来の、感覚より理性に基づく判断のほうが的確であるという考え方に対して、
『あらゆるものは、できるだけ多くの感覚に触れる必要がある、なぜならば知識は感覚に深く根ざすほど確かなものになるからである。』といった内容であったと認識しています。

『この花は赤い』という時、文法的にも論理的にも矛盾しておらず、赤い花という感覚はだれもが等しい体験内容なので、論理的に完結している。つまり普遍性があると考えてしまいます。

しかし、この赤色をすべての子供たちが同じように感じて認識しているかといえばそうとは言えない可能性があります。赤といわれて夕日と比較して認識していたり、りんごの色をイメージして認識しているかもしれない。つまり人によって同じ事物を見ても、あるいは聞いたとしても認識の仕方に違いがあるということです。

ところが理性的に表現すれば、実際にこの花の色が赤く見えるのは電磁波(光)の一定の振動は分子に吸収されるが一定の振動数の電磁波は跳ね返えされて、その周波数が人間の目には赤色に見えるだけと言われたらすべての子供が同じように認識するかもしれません。

教育の場合も、色彩感覚に対して先生や生徒も何の疑問もなく、その言葉自体が普遍的に有効に機能していると認識しているかもしれないが、もし他の人と同じように感じ取らない子供がいるとしたら、自分の個性を否定され無力感、孤立感に陥るかもしれません。

そこでコメニウスはこのように述べています。
『子供はいやいやながら無理矢理に学習を強制されることは一つもなく、すべてできるだけ自発的に、自分から進んで、魂の喜びを感じながら、学習するようにしてほしい』と述べています。

つまり現代の教育においても、自分から進んで考えながら取り組む自立学習力が大事なんではないかということです。

そもそも叱られて勉強するのはその場しのぎで継続性があるとは思えません。理想を言えば学ぶ喜び、楽しさを知ってほしいし、知識を身につけることで世界観が広がって魂が成長しているんだという実感がわけば学習も一段と楽しいのではないかと思います。

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posted by ガンちゃん at 02:54 | Comment(0) | 教育について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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