2017年07月26日

真実の霊能者を読んで 霊体質であることによって受けやすい相手の想念

真実の霊能者を読んで 霊体質であることによって受けやすい相手の想念


真理を学び続け、主の説法を聞き、毎日『仏説正心法語』を唱えているような信者さんは、本人に自覚があるかどうかに関係なく、霊的感応力・霊的能力が高められていると思います。

霊的感覚が高まると本人にとってプラスとマイナス面が両極端に出てくるように感じます。
感情のブレが大きくなり、振幅が激しくなることで相手に対する好き嫌いがはっきりしてくるように感じます。

ですから、感情が高ぶっているときに、いかにして理性的にその感情をセーブするかが大切であると思います。
感情があまりにも両極端に揺れていては、天上界のご加護を得ることはないのではないかという気がします。

信者同士であれば、それほど相手に対して攻撃的な念を発するということはないと思いますが、一般社会では、相手からの悪想念や攻撃的な念を受けることは避けられませんので、この部分をどのように対処していくかが、在家信者としての難しい修行であると自分は思います。


霊能者あるいは霊体質の方が、軌道を外さないためには、人並み以上の忍耐力、自制心が必要です。

人智学シュタイナーも以下のように述べています。
『神秘修行のために、社会的な生活環境を一時的にせよ、変化させてはならない。
真の成果をえようとするならば、忍耐をもたねばならない。
最高の意味で待つことを学んだ人でなければ、神秘学徒になる資格はなく、神秘学徒を志しても、優れた成果に達することは決してないであろう。』

在家信者が霊的な修行をするということは、厳しい覚悟をもってする必要があります。

相手の悪想念を受け続けることで、自分もその影響を少なからず受けるようになり、感情が激しくブレだすと、悪霊や悪魔に狙われる可能性もあるので、不動心や忍耐力は修行者にとって自分を守る為に必要な徳目であると考えます。

現代の学問を正しい意味において学び続ける中に、理性や知性が備わり、感情を制御してくれると同時に、悪魔からも知性的な面で防御になると考えられます。
悪魔は何百年、何千年と勉強をしていないので、現代的な学問を学ぶことで、それが知性的な面で自己防衛になってくれる場合もあるかもしれません。
古い悪魔ほど経験のみで現代の学問がわかりませんから、知的に学習することである程度の自己防衛ができるものと考えます。

また、霊的感覚が敏感になることで、現実的な感覚が鈍るようでも問題があると思います。

霊的能力がほしいという性急さが焦りとなり、修行者としての自覚を忘れ、高貴、善良、物質的な現実感覚の一片でも、忘れるようでは問題であると思います。

霊的な修行が、自分の道徳的な力、内的な誠実さ、観察能力などを高めていくことにつながっていく必要があると思えます。

と同時に、霊的修行の過程において、隣人や動物に対しての同情心、自然に対する感受性をたえず高めていくことが大切だと思えます。

修行の過程で、このような努力を怠ると、同情心や感受性が失われ心情はかたくなになり、現実感覚が鈍くなると神秘学の方でも言われています。

霊的能力が高まるのと並行して、地上的な力、問題解決能力、判断能力、等を上げていかないと、思わぬところで足をすくわれることもあるので、注意点として心に留めておくべきかもしれません。



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posted by ガンちゃん at 19:03 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月24日

『悪魔からの防衛術』とエクソシスト入門を読み比べてみて

『悪魔からの防衛術』とエクソシスト入門を読み比べてみて

ニーチェは「神は死んだ」という言葉を残して発狂しました。
この言葉だけが独り歩きをし、唯物論に拍車をかけています。
私の見解として、ニーチェは哲学者としてあり得ない存在であると思っています。

私達が信仰を通して神仏やサンガーとつながっている限り、悪魔に付け入る隙はありません

トルストイは、信仰について以下のように述べています。
「信仰のない人間の生活は動物の生活である」。

繁栄の法には、「目に見えない尊い存在を信じ、理解し、それに基づいて行動することができる」ということは、人間として尊いことであるという内容が書かれていたと思います。

悪魔には、積極的に未来を創造する力はありません。
地上の混乱に乗じて、指導的立場にある人、権力を握っている人に取り憑き支配しようとします
ですから計画的に人に憑依をするというよりは、その都度、隙ある人間を訪ねに行くという形式です。

地上が混乱する理由は、魂が肉体に宿ることで感覚器官の制約を受けてしまうからだと思います。
本来の魂はある程度の自由を確保しています。
霊の状態で存在しているときは、個人差があるとは思いますが神仏を実感としてつかんでいるのではないかと考えます。

トルストイはさらに、「実際に存在するのは精神的なものだけである。肉体的なものはすべて単なる見せかけにすぎない。」と述べています。
正心法語にも
「霊は 全ての 全てにして 肉体は これ 霊の影」
と書かれていますが、意味は同じでしょう。

霊主肉従という言葉がありますが、霊が主で肉体が従という意味です。
しかし、人間の本質が霊存在であるといっても肉体に宿って地上で生活をしている以上、肉体管理をおろそかにすると、これがまた弱点となり悪魔に狙われるターゲットになります。

ですから、色心不二という考え方が大切であると思います。
色とは、肉体あるいは物質的なものです。
心とは、霊的な存在について述べています。
肉体と霊存在の関係は、霊主肉従の関係ですけども、色心不二でもあります。

また、観念論のヘーゲル、ギリシャ哲学のヘラクレイトス、トルストイも同じような見解を以下のように述べています。

人間を河に例えながら、「人間は河のように流れ動くものです。人間は同じ人間であっても毎日、同じ人間とは限らず、ばかであった人が利口になったり、意地の悪かった人が、親切になったりする。そしてその逆も真である。人間を裁いてはならない。こちらがある判断をくだしたとき、相手はすでに別人になっているのである。」と言われています。

また、仏教的視点からは、縁起の理法が説かれています。
仏教の世界観も固定的な立場ではなく『変化』していくことこそが真理という立場ですので、自助努力によって、自分を変えていくことが可能であるという教えとも、共通していると思えます。


イエス様も、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることはないであろう。許してあげなさい、そうすれば許されるであろう」と言われました。
人を憎まず、真理からみてまちがった行為にたいして指摘することが大切であると思います。

悪魔ルシ○○の苦手なタイプが、「お人よし」「自己犠牲的」な人と言われていましたから、キリスト教の教え、仏教の教えは修行論であると同時に悪魔から身を守るための手段でもあったわけです。


結論は、三宝帰依が大切です。
信仰心がある限り主とつながっているのであり、悪魔も簡単に攻撃することはできないでしょう。





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