2017年05月06日

ごく普通に神仏を信じることができる人は幸せだと思う

ごく普通に神仏を信じることができる人は幸せだと思う

地上的に頭が良いといわれる人であっても、目に見えない尊い存在や霊的世界に関して信じることが出来ないというのであれば、その知は本物とは言えないでしょう。
日本の学問的価値において優れていたとしても、宇宙的学問からみたらまったくの底辺である可能性もあります。

科学万能主義が行き過ぎた結果、実験的あるいは経験的に確認できる範囲内に学問の対象を限定し、それ以外、例えば、魂や霊的世界に関しては、充分に探究し研究しているとは言い難い状況になっています。

観念論哲学のカントは、確かに学問の対象を経験の範囲内に限定をかけて哲学を構築していますが、カント自身は論理的に証明できないからと言って神の存在を否定していません。

むしろ、悪人が栄え、善人が苦しんでいる姿を見ると、死後においてそれを精算して下さる存在がいなければ、正義が考えにくくなるという趣旨のことも述べています。

そもそも、霊的世界といわれる高次元世界を三次元的材料で証明しようとする考え自体が間違っていると言えます。
もし、三次元的な測定器を使用して、完全に証明できるのであれば、それは物質であって霊ではないということになります。


私も化学や物理は好きですから、否定するより積極的に肯定して自分自身の哲学の下支えにしているぐらいです。
しかし、私は証明できなくとも霊的世界は必ずあると信じる派ですから、物理の法則を霊的世界の証明に結びつけて考えることができないか、そちらの方に思考が働きます。


渡部昇一氏も「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するか?」という著書に、パンセの考えを引用して、最後は魂の存在、霊的世界の存在を信じるか、信じないかのどちらかであると述べています。
そして、どちらが得かと言えば信じる方にかけた方が良いと述べています。
理由は、人間は死んだらすべてが無に帰すると考えるならば、生きている間に魂の存在を信じたとしても死んですべてがなくなるのだから、どうということはない。
しかし、もし霊的世界や魂が死後の世界において存在するのであれば、信じることを否定した御自身は大変なことになりますよと述べていたと思います。

死んですべてがなくなると思うから、生きている間に好き勝手なことができるのであって、霊存在が自分の在り方を見ていたとしたら、とても恥ずかしくてできないことでもできてしまう。


人間の幸福を考えたときに、自然科学だけでは絶対に精神を満たす幸せを最終的に手に入れることはできないでしょう。
科学は、未知なるものに対しての解明と、人間を幸福にするための手段であって幸福そのものではないと言えるのではないでしょうか。

例えば、読書をすることで脳科学的には、血液が脳のこの部分に集中してくると実験的に証明できたとします。
しかし、どのような本を読んでいるかまではわからないでしょう。
哲学書か宗教書かマンガか、はたまたエ○本か、読んでいる本の内容までは解らないはずです。
読んでいる本の内容によって精神に与える影響力も化学的には解らないでしょう。

また、自然科学的に美しいとか醜いとか判断できるでしょうか。
できないでしょう。

芸術や音楽を聴いて美しいと感じたり感動したりすることができるのは、すべて魂の属性であって自然科学的に美しいと感じたりはできないのです。

ですから、自然科学は人間が幸福になるための手助けはしてくれますが、幸福そのものを得ることまではできないと思います。

そして、強制されることなく神仏をごく自然に信じることができる人は、すでに幸せを手にしていると思います。




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posted by ガンちゃん at 02:12 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

空の世界と人品骨柄

空の世界と人品骨柄


維摩経には、このような内容が書かれていたと思います。
菩薩に降りかかった花は、地に落ちましたが、大声聞たちに降りかかった花は身体にくっついて地面に落ちません。
神通力を振り絞ってこの花を地面に落そうとしても落ちません。そこで天女が大声聞に「その花を振り落としてなにをなさるのですか」と質問します。
大声聞は、「天女よ、これらの花で飾ることは、出家の身に相応しくないことですから、取り去ろうとするのです」と答えます。
そこで天女は、「この花は法にかなっています。この花のほうでは考えたり分別したりしないのに、大声聞こそが思慮し分別するからです」と答えています。

花のほうでは出家者と在家者などと分別していません。この二つの世界を区別しているのは大声聞の判断(分別)であり思惟です。

自分自身は気づいていないとしても、どこかに自惚れの心があれば、それは外に必ず表現されます。
持続して考え続けていることは、自然にその人の人品骨柄を表していきます。

仏教的世界観では、感覚的なものは幻であるという見方(空観)がありますが、その中で人は、何を善と考え何を美と考え、どのような価値観を持ち続けるかによって、人柄を形成していくと思います。
その様な意味で、考え(あるいは思い)こそ、私自身であると言えます。

仏教的な空の世界観は地上に対する執着を断つという意味で大切な考え方であると思います。

過去・現在・未来を通して恒常であり、それ自身として他のものに依存することなく自立的に存在する本体とは、人間の思惟の世界における概念としてしか存在しません。

現に存在するものは、各瞬間に変化する無常なものであり、他の多くのものを原因として、他のものに依存してのみ現象する、他律的なものであります。

空の世界観を深いところまで認識できなくても、知識として知っているだけで、慢心したり自惚れたりする気持ちを断つことができるかもしれません。

仏典に書かれていますが、あらゆるものには本体がなく、その意味で、ものは空です。
幻術師がつくり出した幻が、どれほど大きな光景であり、千変万化しようとも、本体としては存在しないのと同じであります。独自の性質を持たない無自性なものです。

しかし、すべてのものが『空』であるからといっても真理は実在です。

仏典から引用すれば、「教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみに打ち勝つ。」と書かれています。
真理を伝えることは、すべてにおいて善であります。

目に見えない真理を伝えるとういことは、自分自身の人格を向上させていくことでしょう。

自分の話を聞いてくれて、相手が真理の世界に入るきっかけになったのであれば、自分自身もうれしいものです。

自分自身の考え方や価値判断が、やがて魂の傾向性になっていくでしょう。
持続的に考えていることは、その自身の人柄としてあらわれて他の人に影響を与えていきます。

空の世界観を受け入れ執着を断ち、真理をまなび続けることで、人柄がよくなっていくことでしょう。
それは、周りの人に良い影響を与えることができるということです。




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