2017年02月26日

一定レベルの修行が完成してこそ初めて秘儀があかされる

一定レベルの修行が完成してこそ初めて秘儀があかされる

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァッキーの神智学、ルドルフ・シュタイナーの人智学、神秘思想、等、霊的世界に参入しようとする人たちは、厳しい修行が要請されます。

「力はそれを知るものに帰属する」という格言があります。
ソクラテスの「汝自身を知れ」あるいは「知は力なり」という言葉に通じるものがあると思いますが、真理を正しく理解する力、本物と偽物を見抜く力、あるいは、本質を見極める力、これらは修行者にとって大切なことであると思えます。

真理の道を志す、あるいは修行途中である私たちの最初にすべきことは、正しく真理知識を学ぶということであると考えます。
あえて正しくと付けたのは、同じ真理を学んでも理解力によって、同じように理解しているとは限らないからです。

社会経験や魂の傾向性、前世の努力精進、あるいは学ぶ姿勢によって、同じ真理を学んでも正しく理解する人、間違って解釈する人、まったく理解不能な人、いろいろだと思います。

ブラヴァッキーの著書やシュタイナーの著書を読むにつけても、霊的世界に参入しようとする修行者たちは、相当、己に厳しくないと危険であるという印象を受けます。

神の世界に踏み込もうとするわけですから、中途半端な気持ちでは、‘やめときなさい’ということなのでしょう。

仏教的には、戒・定、慧の三学と解脱・解脱知見ということになると思います。
戒律を守る意志の力、禅定を通して物質的波動を遮断し霊的世界に通じる心の状態、霊的世界観、霊的法則に裏付けられた智慧、智慧を使って地上的悩みや束縛から自由になる解脱、解脱した自分を自覚する解脱知見(五分法身、仏になるための五つに分かれた修行のカテゴリー)
このような修行を通して、一定の自己確立や不動心ができたとき、はじめて師は秘儀を伝授するのではないかと思います。

ですから、真理を広げるためだと言って、考えなしにすべて公の場に情報として流すことは間違いだということです。

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァッキーは「そして許さる範囲を超えてその秘密を開示する者すべてに対する罰則は恐ろしい」と述べています。
また、「話してはならないことは沈黙を守る」とも述べています。

なぜなのでしょうか。
あまり深く考えない浅はかな人は、たぶんこのように考えるのでしょう
「真理あるいは仏法、それ自体は正しい教えである。自分には深くわからないとしても、教えを多くの人に伝える(情報として対象者を選ばず無差別に流す)ことは正しい行為である。」

これは半分正しいことであると思いますが、半分は間違っています。
なぜなら、真理をまったく理解しない人、宗教をなめている人、左翼系の偽知識人、唯物論者、等、対象者を選ばず、情報を流すということは、誤解を生み真理が冒涜される可能性があるからです。

宗教としての秘儀の部分、奥義を自分が深く理解していないにも関わらず、情報として簡単に一般公開することは罪であると私も思います。

言葉は悪いのですが、猫に小判・豚に真珠、あるいはその猫や豚が振り向いて噛みついてくるかもしれません。(聖書にも似たような比喩が書いてあると思いました。)

そして、その情報と言いますか、内容に対して質問あるいは批判的コメントがきても、自分の言葉で反論すらできない始末です。
自分で理解していないので、質問あるいは批判に対してまったく言い返すことができず無視する以外にありません。
情けないと言えば情けないです。
自分の言葉で何も言えないのですから。


修行が正しく進んだ場合(正精進)その人は、他の人達に対して一定の影響力を持つようなると思います。おそらく、それが修行の成果であると考えます。

その人から優しいオーラが出ている、人から信頼され相談される、発言に説得力があり影響力がある等、周りに対して良い影響を与えることができるようなった時、それは神仏に向かって正しく修行が進んだということでしょう。


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posted by ガンちゃん at 01:59 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月19日

他力依存症候群 努力なしに成果を求める奪う愛 仏教の基本は精進

他力依存症候群 努力なしに成果を求める奪う愛 仏教の基本は精進

私が感じる他力の問題点は、諸問題に対しての自分の考えがないために、知識に基づく理性的判断を下すことができず、相手の言いなりになる、また、自分より立場が上の人に対しても自分の考えがないために意見すら述べることができないということです。

伝説的な殺人を犯した、アングリマーラという人物がいます。
自分の先生が「私の言うことを聞いたら、奥義を教えてやる。おまえは免許皆伝になる」といわれて、その先生がいわれたとおりに人殺しをした人物です。

社会的見識、常識的判断ができる理性、良心があるならば、通常は考えられないことです。
その後、アングリマーラは仏陀の一括で正気に戻ります。
仏陀の一括で、悪霊あるいは悪魔の憑依が取れたのでしょう。
どうして、自分はこのようなことをしたのかと後悔しても遅いということです。

自分で教学を学び、精神性を高める精進をしていれば、免許皆伝?になるから人を殺すという判断はしないはずです。
むしろ、そのような免許など必要としないと判断するのではないでしょうか。

他力に頼ってばかりですと、いざというときにまったくあてにできません。

ヘーゲルは、「何にもまして学問と自分自身、この二つだけを信頼することです。真理をもとめる勇気をもち、精神の力を信じることが哲学の第一条件です。
人間は精神である以上、自分を最高に価値あるものと見なすべきだ」
と述べています。ヘーゲル哲学史講義参照

仏教的には、人間には磨けば光を放つ仏性が宿っている、それは、自分の努力精進によって輝かすことが可能であり、そこに尊さがあるのだと教えているのだと思います。

他力が必要な時とは、自分の力ではどうにもならず、刀折れ矢つきた時です。
自分ではどうしようもない時、神や仏に祈ることは大切なことです。
その時初めて、救いの光がさしてくるのでしょう。

親鸞の悪人正機説も、やはり危険な問題が潜んでいると考えられます。

親鸞の悪人正機説は、「善人でさえ救われるのなら、悪人はもっと救われる。弥陀の本願として、悪人こと救われるのだ」と説いています。

しかし、常識的な普通の人は、「悪人ですら救われるのだから、善人なら、当然救われるでしょう」という論理の組み立て方をすると考えます。

善を行う人より、悪を行う人が救われるというのであれば、世界はどうなるのでしょうか。
縁起の理法、因果関係を考えれば、どちらが正しいのかがわかると思います。

悪人でも救われる可能性は有るでしょう。
自分自身も聖人君子ではありませんから、悪いことはします。
悪人が救わるのには、本心からその思い、行為に対して反省の心が芽生えたときのみです。

それなくして、他力だけで救いはないと自分は考えます。
「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」という六大煩悩に翻弄される自分、この煩悩を克服するには、自分自身の克服しようとする意志が出発点であるはずです。

もし、他力で救われるのなら地球上すべての人が何の悩みもなく救われるでしょぅ。
仏陀が修行論を説く必要などなくなります。

やはり、そこに必要なのは自助努力であるということです。

他力依存の人は自分で判断できないという意味で霊的現象に関しても危険があると考えられます。

霊的現象をありがたがる人は、教学や修行を軽視します。
霊的現象が自分の周囲に起きると、他の人とは違うという優越感に浸れるからかもしれませんが、他力依存では、霊的現象が善か悪かの判断ができず翻弄されることでしょう。

更に、自分自身で考えをまとめ整理し、相手にわかるように話す(書く)ことができないため、他の人が考えた情報を拾い集め、評価だけをえようとする、これはやはり奪う愛なのではないかと思います。


自分の実力以上の評価を得る、得ようとすることは奪う愛であり、仏教的には渇愛に相当するでしょう。

仏陀の説かれる正しさとは、中道にあります。
自力も大切ですが、他力も大切です。
自我力でも問題ですが、まったくの他力依存症候群でも問題です。
両極端を否定した中道にこそ正しさを求めるべきだと思います。



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posted by ガンちゃん at 12:29 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする