しかし、ここを通過しなければ、人間の本質や霊的世界を本当の意味で知ることはできないかもしれません。
仏教的な認識論と言えば十八界だと思います。
仏教的認識論
十八界
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と感覚器官の対象に対応する
色・声・香・味・触・法の六境
感覚器官と対象の関係を認識する
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識
これらの関係を十八界と仏教では読んでいます。
感覚的なものは、過ぎ去るものであり、無常であります。
無常ということは、存在の中に滅びを内包しているということです。
肉体に基づく感覚器官と、感覚器官に対応する対象をどのように認識するかによって天国に行くのか地獄に行くのか決まってきます。
次に神智学的な認識論です。
人間の行動の本質を、思考の根源から問い直そうというのが、神智学における認識論だと思えます。
「動物にも備わっている魂を、精神に作り変えるのは思考の働きである。」
とヘーゲルは述べています。
それほど思考というものが、人間にとっての本質そのものであるということなのでしょう。
我々の前に事物が謎めいて現れてきます。
それは事物そのものの成立過程に立ち会っていないからです。
思考を通して初めてその成立過程を考察することが出来るのです。
神智学における認識の出発点は思考であり、理念や概念からではありません。
理念や概念は思考を前提として初めて獲得できると考えるのです。
私たちは、観察を通して知覚内容を得ることができます。
しかし、その知覚内容は、無秩序でバラバラな混沌の状態です。
そのバラバラな知覚内容を統一的にまとめ上げるのが思考であるのです。
知覚内容は思考を通して概念と結ばれます。
概念から照らされる光によって初めて知覚内容に意味付けがされるのです。
しかし観察による知覚内容が増えるに従って、初めにあった知覚内容と、概念に矛盾対立が生じてきます。
知覚内容の範囲が広がるにつれて、これまで信じていた世界像を訂正しなければいけなくなります。
新たな知覚内容に対して、今までの概念では意味付けができなくなり、自分の内に対立が生じてきます。
この対立、矛盾を克服していくことによって新たな概念が形成されるのです。
対立矛盾を止揚統一していく過程こそ魂の進化なのだと思います。
このように弁証法的な過程を通してより高度な概念が形成されいきます。
知覚内容は概念によって助けられ、概念は知覚内容によって高度化していくのです。
ところで、観察による知覚内容が変化するのはなぜだろうか?
我々は対象を観察する際に感覚器官を通して知覚します。
しかしこの知覚内容は、身体器官の性質に依存した形で知覚されるのです。
目の器官、耳の器官は複雑な機能をしている為、神経を通して脳に伝わる間に情報が変化してしまいます。
ですから対象をありのままに見ているとはいえないのです。
例えば、色が赤に見えるのは、目の器官の性質によります。
感覚器官から得られる知覚内容は、身体の性質に依存している為、事物の本質を見ているのではなく、対象と感覚器官との関係を認識しているにすぎません。
先ほどの仏教の認識論における十八界と同じです。
また、感覚器官は不完全な為、総体の中の一面、断面しか確認できないのです。
感覚器官でとらえる現象は、変転変化するために、限られた時間内でこれが真実だと認識してしますのは過ちの原因になります。
例えば、種から芽が出てやがて花が咲きますが、種だけを見てこれが花の本質だと認識したとしたら大変な間違えでしょう。
一定の時間の枠内で、その対象の姿が真実をうつしていると見誤ってはなりません。
知覚内容は思考を通して概念と結びつけることなしに、本当の意味で現実を認識することはできないのです。
花の概念を認識するには、まず花の知覚内容を持たなければなりません。
その後に概念の総体の中から特定の概念を取り出してきて、知覚内容に意味付けを与えるのです。
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