2018年06月08日

レオ記事より掲載 中世ヨーロッパのキリスト教広宣流布

レオ記事より掲載 中世ヨーロッパのキリスト教広宣流布

ガンちゃん まえがき<解説>

日本人の多くが誤解している中世のキリスト教について述べられています。
ヨーロッパの中世と言うと暗黒時代という認識をしている多くの人に対して、真実のキリスト教の素晴らしさと真実の宗教性が語られていると思う。

過ぎ去っていく情報ばかり求めている現代人にとって、ヨーロッパ文明の土台であるキリスト教について一段深い知識を得ることができるでしょう。

以上

↓↓ ここからレオ記事

https://ameblo.jp/space-people/entry-12381508258.html

「紀元前476年に西ローマ帝国が滅びるまでを、西洋史では古典古代と呼びます。
そして15世紀におけるコンスタンチノポリスの陥落、つまり、東ローマ帝国の滅亡までを中世、それ以後を近代とするのが一般的な考えです。」

(「黄金の法」より)

コンスタンチノポリスが陥落したのは1453年なので、ヨーロッパ中世というのは、およそ1000年間あった、という捉え方になります。

で、よくこの期間を指して「暗黒時代」と言うのだけれども、わたしはそうは思わない、ということを述べてみます。

暗黒時代と言うのは、キリスト教・カトリックのドグマに支配され、人間は自由な思考が出来なかった、という観点から見て「暗黒」と言っているわけなのでしょうが、

こういう主張は要するに、中世以前のギリシア・ローマを偉大なる文明とし、それから中世以降、中世から脱したルネサンス以降の近代文明をよし、とする視点から出ているのであって、

そのあいだに挟まれた中世という時代は暗黒であった、というものですね。

けれども、こんな史観がまかり通るということは、キリスト教の全否定をその人はしている、ということになると、わたしは観るんですよ。

なぜなら、キリスト教がヨーロッパ世界に広まっていって、多くのヨーロッパ諸国がキリスト教を精神的支柱とする国家となれたのは、この中世ヨーロッパの時代のお蔭だ、というのが真実だからです。

中世ヨーロッパが存在しなくて、じゃあ、ローマ帝国がずーっと近代直前まで続いて、ルネサンスの復権ならぬ、そのままギリシア・文明が近代ヨーロッパに直結していたらどうであったか、と考えてみたら、

それは、キリスト教精神を欠いたヨーロッパ世界になっていただろうな、と思いますからね。

だいたい、そんな1000年間もの長い期間をすべて「暗黒時代」などと言って抹消したがるような史観は、偏り過ぎている、というだけでなく、歴史の弁証法的発展の意味を見抜けていない、一面的な史観でしょう。

キリスト教は、ローマの末期にローマの国教になりましたが(392年)、それから西ローマ帝国は100年経たずに滅んでいます。
キリスト教による国家建設を行なうに到る以前に滅んでいるわけであって、実際に、キリスト教を母体にして新国家建設を成し遂げようとしたのは、その後、フランス・ドイツの地に出現したカール大帝のフランク王国の方であったと私は思います。

ローマがキリスト教化したことで、古き良きローマの尚武の精神が失われた、だからローマは滅びた、と言われるくらい、キリスト教の広がりがローマを滅亡させた一因と言われているくらいなんだから、
ローマ帝国をキリスト教国家ということは出来ないし、言いたくもない。

それよりむしろ、ローマ帝国の精神は、キリスト教をそのあるがままの姿で受け入れるには、相応しくない異質の文明だったとも言えるわけで、キリスト教が広まってゆく過程において、その精神の担い手は、新たに現れたゲルマン諸国家であるべきだった、というのがヘーゲル的な弁証法歴史観でしょう。

いったん、ローマが滅亡し、中世ヨーロッパという、ゲルマン国家の発展と、カトリック教会を中心としたキリスト教精神の光宣流布が、折り重なり、交わるようにして発展・成長していったのは、善いことだったのですよ。

そういう過程を経て、素朴な蛮族であったゲルマン社会に、キリストの教えという宗教思想が入ってゆき、高次な精神育成の道が説かれ、学ばれていった、というべきで、
その間、ギリシアやローマの文化や遺産がいったん埋もれてしまって、再発見の時を待つまでの数百年、沈黙していたのは、正・反・合の後の合一のためには、必要な過程だったのだと思いますけどね。

中世ヨーロッパの1000年間には、いかにして、キリスト教という宗教思想が、民族のあいだに広まり、国家の精神的柱となり、そしてさらには、個々人の学ぶべき教えとして広まるか、というのがメインテーマの一つだったのではないでしょうかね。

だからこそ、
西ローマ帝国が滅びたのは西暦476年ですが、その帝国の首都にあったローマ・カトリック教会はなぜか滅びず、蛮族の一である東ゴート族の支配下に置かれた後でも存続し、さらには後に現れたランゴバルド族の南下を前にしても生き残り、今に到るも存続しているのではないでしょうかね。

ここを起点として、フランス、イギリス、ドイツ、その他の諸国に、キリスト教は広まっていったわけだし、それは主として教会派遣の伝道師の任務であり、
教会制度の確立と同時に、各地域を担当する司教・司祭の制度も出来上がっていきますしね。
それから在家の有志が作ってゆく、修道院というものも出現してくるわけで、
これは、支部制度や、それと並行しての在家による宗教修行と、人々への導き、という意味では、いまでも学ぶべきスタイルかと思いますけどね。

中世ヨーロッパを暗黒時代という人は、
異端審問による火あぶりや魔女狩りによって、ジャンヌ・ダルクその他の聖者ですら殺された、ガリレオらの科学者の発見をも潰そうとした、そういう一面だけから見て拡大解釈して、暗黒、と言ってるわけであって、
中世に成された善きこと、発展した面、プラスの面をまったく見れてないんですよ、そういう史観の人はね。

だいたい、いまに到るも残るヨーロッパの名門大学が作られたのは、みな中世ヨーロッパの時代のことだそうで、これは渡部昇一さんが尊敬していた歴史家ドーソンの論ですが、見逃してはいけない視点でしょう。

知的探求の場としての大学を設けた、というところに、中世の世界が、人間の知的探求をまったく停止させようとしていた、などというものではなかったことを証明していますしね。
しかもこの大学建設を成したのは、キリスト教関係者なんですよ。宗教が大学を作ったんですからね。

渡部昇一さんは述べています。

中世は暗黒時代といわれているけれども、いまヨーロッパにある有名な大学はすべて、その暗黒時代といわれた時代にできたものです」

ギリシアの時代にアカデミアはありましたけれども大学はありませんでした。ローマ時代にもありませんでした。我々が知っているヨーロッパの主要大学の先祖は、全部中世にできているのです。

(「名著で読む世界史」より)

渡部昇一さんは、カトリックのイエズス会が開学した上智大学の卒業生であり、教授をしていた方なので、カトリック系の外国人教師に学んだこともあって、さすがにキリスト教ヨーロッパ史の理解が詳しく、素晴らしいですね。

キリスト教など他人事と思っているような、無神論者の日本人学者では、このような理解は出てこないでしょう。
ギリシア・ローマ時代賛美、ルネサンス賛美、近代西洋を美化するだけの立場に陥り、そのあいだにあった1000年間もの中世を「暗黒」としか観れないのなら、その人はヨーロッパの弁証法的発展の歴史を、見通すことは出来ていない、と言うしかない。
宗教理解が甘い、ということは、ルネサンスの「後の」宗教改革の意義も、正しく見抜けないということになって、
そうした宗教理解の足らざる、宗教音痴の歴史観では、真の神の世界観は見抜けないんですよ。

キリスト教の、制度や仕組みとしての俗化をもって、全否定してはならないんですよね。
人間が営むさなかに、レベルが堕ちて、本来の精神が見失われる弊害などは、いつの時代、どんな理想の実現にも伴うことであって、
大切なのは、その芯に流れる大本の大理想を見失わないことですよ。

中世ヨーロッパに、キリスト教精神は何を成さんとしたのか。
イエスさまはどのような世界精神たらんことを願っていたのか。
天なる父ヘルメス神は、多くの天使たちをヨーロッパに転生させたはずですからね。

ローマが滅亡する直前に生きたのが、聖アウグスチヌスですよ。「黄金の法」にも生没年が出ていますが、430年に没しています。
キリスト教精神の何たるかを探究し、膨大な著作を残すという使命を果たしながらも、この世的には、最期の時は、ヴァンダル族が攻めよせてくる中で、静かに息を引き取った方ですからね。

街は侵略され、アウグスチヌスの肉体生命は終わったけれども、その精神と著作は現代にまで伝わっているし、カトリック教義の中心になりました。

イタリアに出た聖ベネディクトゥスは、480年に生誕して、修道院制度の創立者になったし、この方が作り上げた会則は、その後のヨーロッパの教会・修道院に受け継がれ、生きているわけです。戒律の父みたいな方でしょう。
ローマが滅亡した(476年)直後に、イタリアに生まれているのがわかるでしょう?

ヨーロッパは、フランク族ほか多くのゲルマン民族の支配下に入り、かつてのローマ帝国の栄光はまったく見失われたかに見えますが、
早くも、481年にフランク王国の王であるクロ―ヴィスは、カトリックに改宗していますからね。
その後、王朝は変わるけれども、このフランク王国の統治者として、さらに後に現れたのがカール大帝(シャルルマーニュ)なわけで、
この人は一説によると、孔子さまの転生という噂があるわけですし、フランク王国の精神的支柱に、明らかにキリスト教を置こうとした人物ですよ。
キリスト教の聖典の写本作成の指示にも熱心だったし、誤字脱字などの誤伝を生まないように、緻密な写本作りを政令まで出して通達したくらいであり、
アーヘンの宮廷で、アウグスチヌスの著作をそばで朗読させるのが好きだった、という伝承もあるので、本気でキリスト教を学んでいた哲人王だった、ということですよね。

そもそも、このカール大帝の父であるピピン三世が、カトリックに土地を寄進した支援者であり、だからフランク王国とカトリック教会の結びつきは、すでにローマが滅びたあと数年にして、すでに実現していた、ということですよ。
(クロ―ヴィス王のカトリック改宗は481年)

カール大帝はしばらく後、742年生まれの方ですけどね。
けれどもカール大帝出現以前にすでに、フランク王クロ―ヴィスがカトリックに改宗していたので、多くのフランク族がカトリック信者になっていたわけですから、着々とキリスト教の普及は進んでいたわけです。

同時期には当然、カトリック側にも優れた法王が何人か出ていますからね。
いなければ、そんな運動が拡大・発展するわけがないですし、
キリスト教の発展のために、光の天使が次々と送り込まれていたに違いないですから。

キリスト教を至上とする神の支配権と、世俗の王権との争いにけりをつけた「カノッサの屈辱」の法王グレゴリウス七世は、ガンジーの過去世だそうなので、光の大指導霊ということですよね。
若い時代には修道院で、徹底した宗教修行を成した方が、法王の座についてグレゴリウス改革を行なったんですよ。

それから、第二回十字軍を主導した聖ベルナルドは、仏教の中興の祖である龍樹の魂の兄弟、という説もあるわけだし、単なる戦いのための戦いを望んだわけではないでしょう。
ベルナルドという方の精神性の深さは、その著書を読めばわかるでしょう。
総裁先生が講演会でおっしゃっていたように、ベルナルドには愛の発展段階説を説いた著作があって、日本語訳もかつては出ていたそうですからね。

それから、十二使徒の1人であるマタイの転生も、法王で出ている、と証言していましたし、
マイトレーヤー大如来も、ローマ法王としての過去世がある、と述べていたでしょう。

カトリック教会の確立と、そこを中心としたキリスト教精神の伝播に、天上界がいかに力を入れていたか、ということ。
そこを見逃してはならんでしょう。と、わたしは思うのですね。

アッシジの聖フランチェスコの偉大なる宗教活動。
同時期に出てきた聖ドミニコの系統から、聖トマス・アキナスが出るんですからね。
トマス・アキナスは、キリスト教の教義と、アラビア世界から逆輸入されて戻ってきたギリシア・ローマの哲学思考を、高度な弁証法的思索によって統合してゆくわけですよ。
それがスコラ哲学ですからね。
トマス・アキナスは13世紀の人、中世の人物ですよ。中世にしてすでに、キリスト教とギリシア・ローマ哲学思考の融合が成されていたわけで、別にルネサンスが訪れるまで、ギリシア・ローマ思想が完全沈黙していたわけではないんですよ。
だいたい、ギリシア哲学やローマ時代の著作を、熱心に書き写して写本をたくさん作り、それを保存し現代に伝えた功労者は、修道院で修行していた修道士たちであったりするわけですからね。
きちんと、中世のキリスト教活動の中に、かつての知の遺産の存続は行なわれていた、と知るべきでしょう。

単に、ガリレオの地動説を封じようとした、ジャンヌ・ダルクやジョルダーノ・ブルーノを火刑にした、なんていう点だけを見て、あるいはキリスト教国家による植民地化を見て、中世のキリスト教ドグマによる弾圧、抑圧、暗黒時代、なんて言ってるようでは、甘い、ということです。
だいたいキリスト教が列強による植民地化の先兵のごとき役割をした、という非難を言うのなら、
中南米のアステカ文明をスペインが滅ぼしたのは、1521年だし、インカ文明が滅ぼされたのは、1533年。
大航海時代が訪れた後の時代の話であって、近代賛美者の大好きなルネサンス時代の後半期の出来事でしょう?近代の問題ではないですか。

キリスト教を非難する以前に、世俗の政治支配論理の矛盾を考えるべきであって、侵略者がいかに正しい宗教精神を持っていなかったか、という洞察をするのなら、問題の根源は別のところにあるはずですよ。
そう、わたしは思うんですけどね。俗物のエセ宗教者が、侵略者と結託した悪行を行なった事実は無論あるでしょう。
けれどもそれによって、キリスト教は侵略主義と重なる、なんていう単純思考をしているようでは理解が浅い、と指摘するしかない。

確かに、キリスト教の教えは、末端に行くほど排他的であり、異説に対して異端判定することは、ローマ末期からありましたけどね。
アタナシウス派とアリウス派の論争とか、ありますからね。中世にも、カタリ派の大弾圧などの武力討伐も行っていますしね。

とはいえ、そちらの方面だけを見て、そこに到るまでの初期の正統の中世ヨーロッパ発展史までも、暗黒であるかのように観るのは間違いでしょう。
アナキン・スカイウォーカーは、子供の頃からダースベーダ―だったわけじゃないんだから、と言ったらわかるでしょうか。
単純に白黒つけるだけの歴史観では、正しい歴史を見誤る、ということですよ。

後に到るほど、純粋な精神は失われ、形骸化し、堕落し、間違った思想が真実の教えを晦ませるようになってしまうのは、キリスト教に限らず、仏教の方でも同じことが起きているでしょう。
要はそういうことなので、草創期から、発展期に到るまでの時代と、その後の形骸化、堕落した時代の混同をしてはいけないのです。



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2018年06月03日

現代の過てる常識を覆す 霊的世界を信じてもらう以外に人類を救う道はない

現代の過てる常識を覆す 霊的世界を信じてもらう以外に人類を救う道はない

現代の常識といわれ深く探求されることなく人々に受け入れられていること、あるいは今までの既成の観念や概念が神仏からみて本当に正しい価値基準を有しているのかどうかを点検する必要があります。

現在の左翼思想による唯物論、その唯物論よる教育や自虐史観等が、一般的常識として何の疑問もなく社会の中に浸透しています。
この常識なるものが神仏からみてどのように感じられているのでしょうか。

地上に生まれた人間は法の許す範囲内であれば、自由を享受できます。
間違った思いであっても、行動として具体的に顕現しなければ、罪を問われることはないでしょう。
しかし、死して後、霊界においては善悪が明確に分かれているということです。
地上においては、第三者から心の中身まで厳しくチェックされることはありません。
行為が法を逸脱したときに、外部から強制力が働きます。
心で思うことは、誰からも干渉されることなく個人の自由にまかされているといえます。


一般的な人々及び哲学者や科学者、教育者は一部の人達を除いて霊的世界を否定します。
その理由は、学校教育で宗教を排斥してきた理由も大きいと思いますが、哲学の世界においては、客観的に証明できず確認できない、科学の世界では実験的に検証のしようがない、霊的世界など原始人が信じていた世界観であり、現代においてはそのような無知蒙昧な信仰など信用するに値しないという感じでしょうか。

しかし、現在、常識といわれていることは、後の時代からすれば全くの非常識であることもあるのです。

例えばルイ・パストゥール以前、細菌やバクテリア等は存在しないと考えられていました。
目に見えないからです。

また、地球は平らだと考えられていた時代がありました。
感覚的に地面は平らなように感じられるからです。
地球の形状が丸ければ、下の人達は落ちてしまうと考えていたのかもしれません。
万有引力や重力について知られていなかったでしょうから、地球が球状であるとは思いもよらなかったのでしょう。
当時の人たちはそれが常識だと考えていました。

ライト兄弟も、人が空を飛べるわけがないと思い込んでいる当時の常識人たちから、気がくるっていると思われていました。

いかに現代信じられている常識が不確実なものであるかという教訓です。
ヘーゲルは歴史から学ぶということを学ばないといわれていたと記憶しています。

感覚器官で確認できないものや、経験を通してわかりえないものは学問の対象外として取り扱わず無視する態度が本当に正しいことなのかどうか問われるべきだと思います。

霊界そのものを信じることができない人であっても、霊界と関係の深い潜在意識とその働き及び物理的作用について信じる人は多いと思えます。

書店で一般的に売られている成功法則には、「潜在意識は現実と想像を区別することができない」と書かれています。
考え方を変えてみれば、「想像することは潜在意識の働きによって現実化する」といえるかもしれません。

宗教家のノーマン・ヴィンセントピールは「大きな人生を望むなら、大きな夢を見なければならない」と述べています。
潜在意識が持つ力を前提にした言葉ではあると思えます。

潜在意識は、理論物理学のように数式を用いて理論的に説明されているわけではなく、実験を通じて確実に実証されているわけでもないでしょう。
ですが霊界を信じる人達より潜在意識を信じる人たちの方が多いように思います。

確実な証明が不可能であるからこそ、宗教では信仰心が大切であると訴えているのです。

現代社会には将来に対する不安や得体のしれない恐れ(未来に対する未知なる恐怖)があり、ストレスを感じている人も多いと思います。
恐れ不安も持続的に思い悩みすぎると、逆にそれを引き寄せて現実化されてしまいます。

霊的世界や神仏を受け入れる信仰心をもつことで、地上的悩みや苦しみの意味が違ってくるのです。
信仰心をもつことで、悩みや苦しみは人生の問題集に用意された課題であり、魂を鍛えるために与えられた砥石として理解することが可能になります。

「恐怖がドアをノックする。信じる心が応えると、そこには誰もいない」。ということわざ?があります。
人間の魂の永続性を信じ神仏や天上界を信じることで、地上において恐怖と思える不安等は消えていくものなのです。

新約聖書には、
「魂のない体が死んでいるのと同様、行動の伴わない信仰も死んでいる」と書かれています。
信仰心も実践を通じて信念に変わり、唯物論という現代の過てる常識を打ち破る希望に繋がってくると思います


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posted by ガンちゃん at 11:04 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする