宗教家としての在り方と哲学者としての在り方の違い等を含めて考えてみます。
真理に込められた内容を深いところで理解することは、その人の魂の成長度と比例関係にあると思えます。
仏説・正心法語の中の真理の言葉・正心法語の中の一節に
「自他は これ 別個に非ず 一体なり」とあります。
非常に平易な言葉で書かれています。
唯物論者は、自分と他人が一体であるという認識はしないでしょう。
おそらく、自分と他人が一体であるというのであれば、その理由を説明しろ
と言ってくるかもしれません。
自他一体の理由は全ての人に神性、仏性が宿っているからです。
というとおそらく、人間に宿っている仏性を証明してみろと言ってくるかもしれません。
仏性が宿っている理由は全ての人に愛の気持ちがあるからです。
幸福の科学の仏法真理から説明するとするならば、このような説得になると思います。
しかし、哲学者の認識は客観性を重視する傾向があると言えます。
カントは、人間の概念は、物の本質を知ることはできない。
概念が認識できる範囲は、物の本質の一部分すなわち、現象として現れた部分のみです。
五感で確認できる領域、あるいは感覚器官を通して経験できる範囲での現象としての部分だけに限定されています。
しかし、
ヘーゲルは概念こそ自然物の本質で、相手の概念を深く認識することで相手と一体になったのと同じことであると考えます。
概念と存在は別のものでなく、自分の内にある概念を深く知ることで、相手にある共通する概念を知ることになり、それは自分と他者が一体になったのと同じことである。
といわれていたと思います。
ヘーゲルは自分のうちにある概念を深く掘り下げることで、相手にもある共通する概念を知ることになり、相手にある概念を知ることができれば、自分と他人は一体になったのと同じであるという認識なのだと考えます。
カント哲学ですと認識できる範囲に限定をかけています。
感覚器官で認識できるは、本質の一部分が現象として現れた領域です。
五感で確認できる領域、あるいは感覚器官を通して経験できる範囲での現象としての部分だけに限定しています。
ですからカント哲学では仏性の証明は難しいし、自他一体の悟りをつかむのは無理だと思います。
宗教家と哲学者の徹底的な違いは、宗教家は本来難しい真理をいかに簡単に平易に説明するか、相手に合わせて簡単に説明できるかが重要になります。
哲学者はいかに論理的に整合性をもって理論を組み立てるかということでしょうか。
幸福の科学では、現代の経典である仏説・正心法語に書かれている
「自他は これ 別個に非ず 一体なり」
を毎日当たり前のように読誦されているとおもいますが、哲学的に自他一体の認識を得るには容易なことでないということです。
しかも、霊的世界の真実に裏付けされた教えであるゆえに、哲学や科学では到達できない真理が解き明かされています。
更に、大川隆法総裁先生は、人間としても謙虚に努力されています。
その姿は、教えのみならず、実践の中での学びにも大変、勇気づけられます。
この後ろ姿を見たら、自惚や慢心なんかできませんね
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学