2018年06月11日

仏説・正心法語と慈悲

仏説・正心法語と慈悲

仏説・正心法語の真理の言葉「正心法語」の内容と慈悲の関係について考えてみます。

正心法語には
『大宇宙に光あり 光は仏の生命なり 生命によりて人は生き』とあります。
宇宙に発生した光は始原の光であり、それは仏の生命であると同時に、その光のエネルギーによって人を含めたすべての存在が生かされていると考えられます。

その光は地上における電磁波(光)とは違うと考えられますが、その霊的光の供給によって人間を含めたあらゆる動植物は生かされているのだと思われます。

その霊的光の供給こと慈悲と呼ばれているものだと思います。

その仏の慈悲がなければ、あらゆる生命及び鉱物はその存在の根拠を失い、すべては消え去っていくことでしょう。

人間は自己中心的になると、自分は勝手に生きていると考えるものです。
しかし、人は自分一人の力だけではその生命を維持することはできないです。
生命とは地上の肉体における命だけではなく、霊的生命をも含みます。

人間は仏の慈悲によって生かされた存在であると考えます。
自分が好き勝手に生きていると思うか仏の慈悲により生かされていると思えるか、どちらの考えを選択するかで、天国に行くか地獄に落ちるか決まってくるのではないかと思います。

『光 分かれて七色の 虹は天空 地に架かる 仏の慈悲は広がりて』とあります。
七色光線の説明がされていますが、光りが分かれて9次元の七色光線に分光したとするならば、光が分かれる前の大宇宙に光ありの「光」とは9次元より高い次元でなければならないはずです。
その9次元に分かれる前の光りは、『仏の生命なり』とあるので、必然的に仏の存在は10次元以上ということになるのでないでしょうか。

人間は、仏の生命によって生かされていると同時に、仏と同じ光を心の奥に内在している存在でもあります。
仏と同じ光を心の奥に有しているからこそ、愛や慈悲、無我の思想が大切になってくるのです。

もし、人間という存在が唯物論者の考えているように死んだらおしまいであるとか、人間機械論のように肉体がすべてとするならば、愛の大切さや、目に見えない人間としての素晴らしさすべてが、意味のないことになってしまいます。

『自他は これ 別個に非ず 一体なり』であるからこそ、愛の大切さが導かれてくるのです。

すべての人間が魂の奥に仏性あるいは神性を宿しているからこそ、愛の発展段階説によって人間は仏に近づいていくことが可能であると思うのです。

自と他の関係や自分と世界の関係を考えるだけではなく、自分自身の内に深く穿ちることが大切であるといわれています。

自我が固まった状態とは、湖面に大きな波が立ってその波が個性をもっている状態と説明されています。
波であるなら必ず周波数があり、その周波数の違いが個性の違いとして表現されているのかもしれません。
その大きな波が静まって湖面全体が一つになるような澄みきった状態が無我の境地であるといわれています。

慈悲とは、無我の境地のように自分とすべてが孤立した状態ではなく一体と思える状態かもしれません。

慈悲は地球の力であり、悪い宇宙人や地獄の悪魔から私達を守ってくれる力でもあります。



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posted by ガンちゃん at 02:25 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月08日

レオ記事より掲載 六次元世界の住人は抽象概念の対話が出来る、とのこと

レオ記事より掲載 六次元世界の住人は抽象概念の対話が出来る、とのこと

ガンちゃんまえがき<解説>

多くの人は、まずもって思想や哲学に関心を持ちません。
高度な哲学ほど抽象的になり、意味を理解することが困難になります。
六次元あたりから光の戦士、天使の世界に踏み込むことになると思いますが、下次元から高次元に上るほど具体的なものから抽象的になってきます。
ただし、抽象的であれば高次元なのかといえば、そうではありません。

仏の価値基準から判断して正しくなければなりません。

抽象的であっても内容が間違っていては意味がありません。
また、全く関係性がない概念と概念を組み合わせて無理やり説明しようとしても、意味を為さないと思います。
例えば、自由と平等を善と悪に結びつけたところで正しい認識とは言えないでしょう。

自由が善であるかといえば、仏の願う方向に発揮されれば善であり正義と言えるでしょう。
しかし、自由だからと言って他の人を顧みない行動は悪になるはずです。

平等も機会の平等チャンスの平等であれば、善であるはずです。
人々の可能性を最大限に生かすという意味で正しいと思います。
しかし、結果平等は努力に対しての差別化を無視する考えであり、公平性を欠くという意味で悪なります。努力を認めない結果平等は間違いです。

ですから、自由が善で平等が悪と決め付ける考えは間違っています。
自由や平等は善や悪が固定化しているのではなく、個人の考え方や行為によって善にもなり悪にもなるということです。

ですから、本人が正しく理解していなければ、いくら真理の言葉をつなぎ合わせても駄目だということになると思います。

レオの考え私は正しいと思うので紹介しておきます。

以上

↓↓ここからレオ記事

https://ameblo.jp/space-people/entry-12381668264.html


目に見えないもの、概念の対話、イデアとか、愛、正義、信仰、信念、知性、その他、いろんな用語を使って話したり、書いたりしても、
話している本人が、その単語をどういう理解のもとで使っているのか、それは人それぞれなので、定義をしっかり押さえておかないと、まったく話が通じなかったりするんですよ。

だから、こういった抽象用語を使った主張というのは、日頃から、同じようなレベルでモノを考えている友人なり、法友たちとの会話をするなりして、果たして自分の理解は正しいのか、使い方は正しいのか、その実地訓練を行っておかないといけない。

他の人に通じるような言葉づかいが出来ているかどうか。実際に対話してみたり、議論してみたりして、誤解が生じていないか、コンセンサスが取れているか、そうした経験も積んでおかないといけないんですよね。

そういう他者との会話や交流をしないで、単に独りで家にこもって、本を読んでいるだけ、そして、概念用語が頻出する哲学書や思想書を読みまくったとしても、自分勝手な独りよがりな「わかったつもり」になっていることも多くなるわけで、

だからこそ、他の人との交流が、いっそう必要となるんですよ。
思想を共に学び、語り合う相手とかね。

自分の体験で言ったら、同じく、哲学書などをよく読んでいる法友数名と、喫茶店で会話したことがあったんですが、

洞察力とは何か、直観とは何か、そもそも概念とは何か、などなど。
根本のところの理解を互いに話してみたら、微妙なずれというか、理解の違いがあったりしてねー。

ああ、何気に、概念がどうのこうの、とか、直観的には、自分はこう洞察する、なんて言っちゃっていても、その言葉自体を相手と共有できているとは限らないんだな、と。

たとえば「自由」という概念用語にしたって、人はやたらと、自由自由と言いますが、そもそも「自由の概念」をその人はどう理解しているのか?という問題がありますからね。

自由には責任が伴う、とはよく言われることですが、
自己責任がまったく無いようなロクデナシが、自由自由なんて言ったって、それは深い意味での自由のことではなくて、単なるワガママ、好き勝手を指して「自由」と称しているだけの話であって、
ジョン・ロックやルソーやハイエクや、シュタイナーやヘーゲルが使っているような意味での「自由」とは似ても似つかない、単なるエゴ主張でしかなかったりするわけで、

わたしは、自分の好きなようにする、それが自由だ

なんていうレベルでの自由論では、お話にならないんですよね。

政治的権利としての自由にしたって、それは自由だと思う、人それぞれ好きにすればいいと思う、なんて主張する評論家がいたとして、
あなたの自由論には、責任を伴わせるという発想はきちんと入っていますか?責任を踏まえた自由を語っていますか、と問わないといけないのでね。

好き勝手や放縦を、高次の意味での自由、人間の自由意志論と混同してはいけない、ということですけどね。

ブログに関して言えば、不平不満や邪悪な発言を垂れ流すコメントですら、削除せずに好き放題に書き込ませるのが自由だ、なんて主張している連中がいましたが、こういう連中のその後の顛末を見てみればわかりますが、

そうして好き勝手に発言した、その内容の発言の悪影響・結果に対して、当人たちは全く責任を取らなかったでしょう?
一部の悪質な粘着質アンチや、エセ信仰者には、この手の無責任自由論を述べる人間が多かったこと、ここに明記しておこうと思います。

好き勝手な発言をした場合に、それが間違っていたら、読者の前で謝罪するなり、申し訳ありませんでした、以後、発言を自粛します、といって自己反省するなりするのが、責任を持った人間の態度であり、道徳的観念を備えた大人の態度というものなんですけどね。
それをせずに、ただトンズラして、何事もなかったかのように知らんぷり。自分の発言の過ちや不明に対して、謝罪もなければ、中傷した相手に対しての詫びも無い。これでは、責任を果たす気持ちなどゼロ、ということであって、こういう人間には「自由」という言葉を使ってもらいたくない。

ということになるわけです。

重要な概念、理念というのは、抽象的なる用語で説明されるものなんですが、
信仰と言い、愛と言い、神と言い、仏さまと言い、あるいはその他、勇気であるとか、正義であるとか、さまざまな概念がありますが、

その正しい意味を、深く理解して使っている人と、

まったくデタラメのトンチンカン誤解している人間が、意味も理解せずに濫用している無知な使い方とでは、

その内容には雲泥の差がある、ということになるでしょう。

深い信仰心を持ち、霊的にも、天界と魂がつながっているような状態の人が語る、信仰、愛、神仏、という言葉の使い方、そこに込められた思いの深さと、

目に見えるモノしか信じないと豪語する唯物論者、無神論者が使う、
愛、神、宗教、勇気、反省、礼儀、信用、などなどの違い。

使っている言葉は同じでも、その言葉に対する理解のレベル、深さが違うので、
片方は非常に深いことを語っているとしても、もう片方はまったく内容の無い無意味な駄弁をしゃべっているだけ、なんていうことは幾らでもあるわけですから、
概念用語の使い方には、よくよく注意するべきだし、知的正直さ、知的廉直さが必要不可欠、ということになるわけでしょう。

なんでもかんでも「自由」ではないんですよ。
自由には責任が伴うわけで、言葉の使い方に関しても、正しく使っているか、間違ったデタラメ理解で狂ったことを述べているか、その厳しい判定は後に成される、ということですよ。

宇宙の法則と言った時にも、それを単なる自動機械的な、神不在で勝手に動いているシステムと解しているのなら、その人は、宇宙の理法に対する理解がひじょうに浅はか、というか、根本のところがまるでわかっていない、という判定をわたしはしますけどね。

そこに、宇宙を統べる神仏の愛、叡智を感じ取り、敬虔なる思いで、この宇宙の存在を思う人とでは、同じく宇宙の法則は … という語り方をしたとしても、その内容においても相当なレベル差があり、思いの深さにおいても段違い、という差があることでしょう。

それが魂の悟り、霊格の違い、ということでもあろうし、神仏の子としての当人の目覚めレベルの違い、認識力の違い、ということでもありますからね。

だいたい、地獄に堕ちて迷うような、エゴ状態の魂であってみれば、
仏神に対する信仰心無し、愛を知らず、叡智の深さも知らず、敬虔なる思いも無し、というのでは、その他あらゆる高次の概念を、それこそ正しく理解している可能性は殆ど無い、というか、
俗人的な生き方をしていればいるほどに、そこに深い精神性は無い、目覚めていない、ということになるわけであって、
目に見えるような即物的なことはわかっても、目に見えない理念であるとか、高次の概念の意味は、その人にはおそらくわかっていないでしょう。

地獄に堕ちた悪霊や悪魔が、神なんて言うのは〇〇だ、とか、愛なんてウソくさい、とか、他人への親切なんて偽善に過ぎない、とか、あらゆることを間違って捉えていて、それで地獄に堕ちている分際で、正しい理念や概念を語れると思うなよ、と言ったところです。

高次元世界に行かないと、抽象的な用語を使っての会話が出来ない、というのは、高次の概念というのは、ひじょうに多くの具体物を内包して中に包んでいる、それだけ豊富な内容を持つモノだからであって、物質的なる個物などよりも、遥かに豊かな内容を実は持っているんですよ。
それが理念、概念というものなわけであって、言葉においては、漢字二文字を使った専門用語のような、単なる抽象単語にしか見えないようであっても、その言葉に込められた意味の深さ、内容の深さは、それを語る人の理解の深さ、その言葉に込められた思いとなって、表現されているのだ、ということを知らないといけないでしょう。

イエスさまが、愛とは〜!
といって語られている時の、その思い、愛という言葉に込めた理解の深さは、いったいどれだけの深さを持っていることでしょうか。

それを聴く私たちは、
表面的に聴いて、はぁー、愛かー、なるほど、と感じ取ったとしても、その人のレベルに応じての、愛の理解でしかないわけであって、

幸福の科学で言ったら、愛の発展段階説という教えを教わっても、
「愛」という単語自体は、次元が違っても同じなわけですからね。

ただその愛の理解の深さが違う、実践におけるレベルが違う、境地が違うということになるわけであって、

たとえば会社で、上司と部下の関係であったとしても、
俺はお前のためを思って説教してやっているんだ、とその上司が言ったとしてもですね。
その上司の指導が、生かす愛のレベルであるのか、それとも実際には、自己保身でしかない、自分の実績重視で、部下は道具でしかないエゴ上司かもしれませんからね。
その場合には、善意の指導のふりをしただけの、しかしてその中身は、奪う愛、本能レベルの人間でしかない、なんてこともあるわけですから、

言葉だけではなく、その意味の理解、正しい使い方をしているかどうか、要は、中身が大切、その人の心の中身が大切、ということですよ。


抽象概念の正しい理解、正しい使い方が出来ているかどうか、というのは、
実践を通して、他者に通じるかどうかを試してみないと、正しく身に備えることは出来ないので、

独りよがりではダメ、わかったつもりになって屁理屈並べてもダメ。

同じように学びを共にする法友と対話するなり、議論するなり、ブログで書いたら、コメントや反応を見て、正しく伝わっているかの確認をするなり、
客観的なる自己判定が必要になってくるわけですからね。

ここが抜けていると、誰にも通用しない、間違った独善的な概念濫用をしている可能性もありますからね。要注意です。

もっとも世間の人はそんなに愚かではありませんから、正しい理解を欠いた、それはちょっと違うんではないか、というような独りよがりの概念乱用すうる人の駄弁には、魅力を感じないし、感化されることもないでしょう。

エセ概念の乱用者の言葉には、光もないし、パワーもない、言霊に力が無いので、説得力や感化力も無い、結果、人気も出ない、という顛末に陥って、
その書き手の未熟を、間接的に悟らせるようになっているのだと、わたしは感じます。
世間の厳しさ、無反応に出会って、自分の未熟を悟ること。
世間の荒波にもまれて、初めて自分を磨くことが出来る、というのは、そういうことでもあると私は思います。

そこでまた、開き直って、自己弁護、自己正当化を図っているようではダメですね。
自分の未熟を思うこと、反省すること、自分に厳しく、というのが、自分を向上させるための鉄則なのであって、自分に甘い人間では通用しないし、進歩もないんですよ。

とうことです。




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posted by ガンちゃん at 19:02 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする