2017年03月20日

死後まもなく経験すること  考えた文章は死んだ霊にも伝わりますがコピペは思考力を失い救済力も失う

死後まもなく経験すること  考えた文章は死んだ霊にも伝わりますがコピペは思考力を失い救済力も失う

なぜ、人間は地上に生まれてくるのでしょうか。
地上に生まれ変わる意味は、悟りを得るためです。
人間の魂は、波長同通の法則により、似たような考え方をした者同士が集まります。
ですから、考え方に変化がなく学びも少ないということになるということです。

地上において、精神性にまったく目覚めなかった人、唯物論的な人は死後どうなるのでしょうか。

唯物論的な人が死んだからといってすぐに霊界についての認識を得ることは、まずありえません。
地上において精神性に目覚めることがなかった人、物質がすべてであると考えていた人は、死後もその意識は低い状態であると思います。

ある人はこのように考えます。
「もし、本当に死後の世界があるのであれば、死んでから見ることができるのではないか」と・・・
しかし、地上に生きている期間、神仏を否定し霊界を信じない人は死後において何も見ることはないでしょう。
心が霊界を否定しているからです。
心が否定しているものを見ることはないでしょう。

霊界とは思いの世界ですから、地上において何も考えないで生きてきた人、神仏を否定してきた人、霊界をあざ笑ってきた人は、死後、洞窟で一人寝ている以外にすることはないでしょう。

そして、死んでから数日後、誰でも体験する反省会が待っています。
私達が地上において肉体をまとっていながら、どれだけ霊的世界の真実をつかみ取ることができたか。
目に見えない神仏を信じ、人にどれだけ愛を与えることができたか、霊的価値観からみて自分の人生は正しかったのかなど、自分に縁のある霊人が見ている中で映画のように上映されるといわれています。

これは、幸福の科学以外に神秘学でも同じ内容が書かれていましたので、避けて通れない道なのでしょう。

自分の言葉や行為によって相手を傷つけたとしたら、傷つけた相手の気持ちを自分も体験することになります。
相手を傷つける行為がどれだけ霊的な罪なのかを、相手の立場に立って知ることになります。


ところで、死んだばかりの霊を地上に生きている人たちの力で救う可能性は有るのでしょうか。
唯物論者が、「もし死んだ後に霊界があるなら、地上に生きている間、信じようと信じていなかろうと霊界に行くのだから、地上に生きている間は信じない」という人がいるとします。
このような唯物論者は、死んで霊界に行っても何も見ることはないと上記に書きました。

死んでから、真理の書物を読めるかと言えば、読めるわけがございません。
ですから、この段階では自力で救われる可能性は限りなくゼロに近いと思います。

このような人を救える人とは、普段から真理を学び自分の頭で考えて、わかりやすく人に対して説明できる人でしょう。

死んだ霊が、その人の書いた文章を読んで救われるというよりは、真理を常に考えて文章にしている人の想念と言いますか、念波を読み取って理解するということになると思います。

ここがコピペ以外にできない人との大きな違いです。
すべてコピペで済まそうとする人は、普段から自分で深く考えようとしていないので、迷っている霊を説得できる可能性はまったくないと言えます。

常に相手を想定して、その人のためになる文章を書こうと努力している人と、あたりかまわず張り付ける人とでは、根本的に人や霊に与える影響力に違いがあります。

コピペ依存症の人は、三日前に張り付けた記事の題名すら覚えていないのではないのでしょうか。

人は努力相応に評価される分には問題がありませんし、正当性があります。
しかし、努力しないで分不相応に評価されたとき、・・・・・どうなるのでしょうか

常にコツコツと努力している人には、法力や救済力が身についていくと思います。



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2017年03月06日

人は感性的表現によって感動するもの

人は感性的表現によって感動するもの


総裁先生は以前、すぐれた「詩」は哲学や思想、文学より霊的に優れていると、おっしゃっていました。

それは、本質やエキスを凝縮して、内容を美しい言葉で表現し、人の感性に訴えかけ、感動を与えるからです。

天上界から降りてくる「詩」等は、頭で考えて理論整然と組み立てて理解していくという形式ではありません。
あくまでも霊的感覚で感じ取るものであると思えます。
感性的に神の世界を感じ取り、心が感動するのでしょう。

ヘーゲルは、神と人間の関係を以下のように述べていました。
『宗教は、人間と神は信仰を通して結び付けるが、哲学は論理で人間を神の位置にまで高める』
しかし、トマス・アクィナスは正しい信仰を持つためには、その宗教の教義が正しいのか間違っているのか、理性的判断能力が大切であるといわれていたと思います。
ですから、信仰を持つ前段階として、理性的な価値判断ができる必要があるということです。

これに対して人智学のシュタイナーは、ヘーゲルの哲学を絶賛してはいますが、あまりに抽象的・論理的で普通の人の理解力では到底、ヘーゲル哲学の真意を汲み取ることはできない、論理的すぎるので感情、感性にささらないので心が温かくなると言うことがない。と述べていたと思います。

本質的内容を短く美しい言葉で表現し、人の感情に訴えかけ感動を与えると言うことは素晴らしいことであると同時に、霊的にも優れていることと思います。

しかし、感性にかたよりすぎると、物事の善悪の判断があいまいになり、間違った決断をする可能性もあります。

魂の性質である、感性・知性・理性・悟性をバランスよく高めていくことが理想であると思いますが、少なくとも真理を知識として知っていれば、それほど間違った判断をすることもなく、中道を外れることはないとおもいます。



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