2017年07月15日

LEOブログより掲載 考える材料を得て、自ら考えること

考える材料を得て、自ら考えること

http://ameblo.jp/space-people/entry-12292161153.html

皆さまにとっても、大変参考になる内容であると考え、掲載します。

総裁先生は、対談書を出す理由として、



考える材料を読者に与えるため



と述べていたかと思います。



結論としての「確定した答え」を出して、それを覚えよ、というだけではないんですよね。みずから考えることが大事、この材料を使って考えなさい、ということかと私は理解しているんですが。



ハンナ・アーレントの著書もそうですね。

アーレントの思想は掴みがたい。曖昧に見えて、アーレントの真意がどこにあるか、わかりにくい、難解だ、とも言われますけど、



アーレントはさまざまに論じることで、読者自身にも考えることを要求しているんですよね。

みずから深く考えることなしに、本当の意味での理解は生まれない、ということを、ハンナ・アーレントは知っていたからでしょう。

ハンナ・アーレントは霊言でも、単に確定した答えを述べるのではなくて、それはどういうこと?あなたはどう思う?みたいに、対話者に質問を投げかけて、考えさせようとしていたかと記憶していますけれど。



要するに本を読んでも、単にそこにあることを目に入れて、これが答えだといって丸暗記しているだけでは不十分。

学校の勉強であっても、単なる丸暗記では、応用が利かないように、

思想における学びや、歴史や政治その他、あらゆる学びを通じて言えるのは、単なる丸暗記では、応用が効かない、ということかと思います。



丸暗記というのは、単にそれそのものを、まさにそのまま丸暗記してるだけだからで、

宗教の聖典や、思想書の読み方も、要するに、書かれたことを丸暗記しているからといって、その内容を理解しているとは言えないんですよね。

その文章の奥なる意味を理解しているのか。その思想を、ケース・バイ・ケースで、応用を利かせて使うことが出来るだろうか。それだけの融通無碍なる使い方を心得ている。そこまでの理解が出来ているだろうか。



法は普遍であるけれども、しかしその法は、固定したものではない、とも言われますね。

固定化した、金科玉条のような格言のように思っている人は、旧約の戒律をガチガチに守るパリサイ派みたいになりかねない、ということ。



普遍の法は、個別のケースごとに応用を利かせて使うことが出来なければ、深い意味での理解が出来ているとは言えない。

わたしは、そう考えるものですが。


宏洋さんが、みずからの守護霊であるアポロン神との対話で言っていたかと思いますが。



自分の意見がない「伝書鳩」になってはいけない



という論題がありましたよね。

これは宏洋さんが勤めた会社で、上司から叱られたことで、単に連絡をそのまま伝えるだけではダメで、お前の意見は何なのだ、と怒られたという話です。



自分自身でも、その内容をしっかり考えて、かつ深く理解していたら、オウムのように単に繰り返すだけ、などということにはならないでしょう。単なる伝書鳩にはならず、自分の意見は何であるかと、きちんと語ることが出来るはず。



考える材料を与えられたら、そのことを各人、自分の頭でもっても考えましょうよ。

そういう学び方をしていたら、自分としてはどう思うのか、自分の意見はどうなのか。自分の考えというものが、必ず出てくるはずですからね。

そうしたら、連絡をするにしても、単なる伝書鳩にはなりませんよ。自分としての応用を利かせて、相手に合わせて、どのように伝えようか。自分たちの状況だと、この教えはいまどういう意味を持っているか。そうした翻訳を加えながら連絡することになるでしょう。



単なる伝書鳩ではなく、自分で考えることの出来る人間になりましょう。



パスカルは言いました。



人間は考える葦である、と。



人間の偉大さは<考える力があること>にあるのだと。

考えようともせずに、単なる丸暗記と、伝書鳩行動に終始するのなら、それは本当の意味での学びではないし、応用も利かないということ。

応用が利かないのは、融通無碍に使いこなすだけの深い学びが出来ていないから。それは要するに、考えないで単に文字を追っているだけ、だからではないでしょうか。

正心法語にしたって、何度も読誦していたら、それは誰もがみな、そらで暗唱できるように丸暗記できるものでしょう。

だからといって、それをそのまま他の人に伝えたとしても、当人の理解の深さは千差万別でしょう。

正心法語の、それぞれの法語の意味合いを、その人はどのように理解して説明することが出来るだろうか。



丸暗記レベルを卒業していない人は、

総裁先生の解説書を読んでください、会内経典に詳しい説明があるので、そちらを読んだら、などと言うかもしれない。

初心者会員であったら、それは仕方がないけれども、何十年も信者をやっていて、いまだそういう状態では情けないかぎり。



そういうレベルであっては、供養の際に正心法語を読んでも、その人には果たして、迷える霊を諭す力があるのだろうか。

丸暗記して、一文字一句間違えずに諳んじられたとしても、その意味を深く理解して、心の底から信じる思いがなければ、そばで聴いている霊にも伝わらないでしょう。説得力はない、ということです。



ブログなども、自分で日頃からきちんと考えて学んでいる人は、自分の意見や感想を述べていますよね。

映画を見て、どのような感想を抱いたか。

本を読んで、どの部分に感銘を受けたか。どう理解したか。

それを、自分の言葉で語れる人こそは、きちんと自分で考えながら学んでいる人でしょう。

コピペではダメなんですよ。コピペで済まして自分の意見がない、という人は、伝書鳩以外のなにものでもないんだから。それは単に連絡事項をそのままに複製して伝えているだけ、以外の何物でもないでしょう?

宏洋さんの上司が怒ったが如く、「お前の意見は何だ」「なぜお前はそれを選んだのだ」と問われた時に、自分の意見がハッキリと述べられないようでは、伝書鳩レベルから脱却できているとは言えないでしょう。



幸福の科学、その組織としての発展は、末端の信者に到るまでが、各人それぞれ自由に学びつつ、

考えるための材料を提示されたら、それを丸ごと暗記して済ますのではなくて、

自分自身で考え、それを行動に移す行動力に掛かっているのではあるまいか。アポロン神や宏洋さんのご指摘は、そういうことではなかったかと思います。



各人各人の置かれた状況はそれこそ千差万別で、一人として同じ状況の人間はいないはずであって、

だからこそ、個性ある魂たちが、その持ち場持ち場で、普遍の法を個別展開していかねばならんのではないか。



普遍の法は、あまねく全ての人を照らす、万物に通じる宇宙の理法です。

けれども、各人が置かれたシチュエーションや人間関係その他、具体的な立場はみな、個別に違っている以上は、

学んだ法をどのようにその場で生かすか、自分が置かれた状況で使いこなすかは、各人各人に与えられた問題集です。

そこで、いかにみずから考えつつ、具体行動を起こすか。展開してゆくか。そこにこそ、人生修行の道があるのではあるまいか。



単に、丸暗記して伝えるだけの伝書鳩では、応用が利かない。

自分で考えることが大事ですね。考えることで初めて、その人ならではの学びが出て来て、そういう学び方をしてこそ、自分の意見は何であるのかを語れるようになる。

個別具体的なケースにおいて、どのように学んだ法を自分は生かすのか、生かしているのか。それこそが日々の人生修行そのものだし、

それを語るのなら、伝書鳩には決してならないでしょうから。

月並みな一般論しか言えないのなら、それは日頃、考えながら学んでいないからですよ。表面的に読んで、文字をそのまま追っているだけだと、自分の意見など出てこないですから。考えながら読むことが大事だと、わたしは思うのです。

考えている人にして初めて、自分独自の語り方が出来るものです。



自分の体験、自分の考え、自分の理解、自分の実践。

それを自分のことばでもって語れるはず。語れなければ、それはまだ深く考えながら学べている状態には到っていない、ということかと私は思いますけれどね。



総裁先生はオリジナルの法を説く。

その教えを学んでいる、お子さんたちは、みな自分の言葉で学んだことを語っているし、幹部職員さんたちも自著や演説では、自分の言葉で語っていますね。

一般信者であっても、やはり、自分の言葉で語れることが出来るように、そこまで深く学ぶことが肝要だと思うし、法を応用して使える人間になりたいものではありませんか。



コピペや伝書鳩のようなことしかしていないと、来世生まれ変わった時にどうするのだろうか?来世もコピペか伝書鳩で済むと思っているのでしょうか?

来世生まれ変わる時には、この地上で主と出会うことは出来ませんよ。残された著作を手に取ることは出来ても、オリジナルの法を次々と説いてもらえる場に出くわすことはないでしょう。



考える力を持ちましょう。持ちたいものです。それは今世において。今世だからこそ、主の教えを多数、学びながら、その教えから逸脱しない、しっかりとした理解と応用までも、試みることが出来るのだから。

各人、自分の持ち場で学んだ法を生かし実践しながらも、法友と語り合ったり、精舎や支部で講師のアドバイスを受けたりする機会があるのだから。

普遍の法をしっかりと、正しく理解しながらも、それをよく考えながら理解して、自分の持ち場で実践する、それは応用力を持った学び方をする、ということではないかと思います。



以上、わたしの持論ということで(笑)。



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posted by ガンちゃん at 16:20 | Comment(4) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月02日

宇宙を支配している愛の働き

宇宙を支配している愛の働き

マルクス・アウレリウスは、「善い人間の在り方を如何について論じるのはいい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」と述べています。
愛は、自分自身の自己変革を要求するのかもしれません

ソクラテスは、「一番大切なことは、単に生きることではなく、善くいきることである」と述べています。
ソクラテスが論じている善く生きるとは、どのような生き方なのでしょうか。
人間社会における正しさの価値基準はどのように決められたのでしょうか。

地上における善悪の価値判断の根拠は霊的世界にあり、それが地上に降りてきて具現化されたのだと思います。
霊的世界において、天国と地獄があるということは、善と悪を分ける明確な基準があることを意味しています。

霊的世界における善悪の価値基準が、地上において道徳というかたちで具現化したのかもしれません。

道徳とは、車社会の交通ルールと同じです。
もし交通ルールは必要なく自分の好きなように走りたい、と考えたならば大変な事態になるでしょう。
どこから車が飛び出てくるかわからないし、危険が増すばかりです。
何をしてもかまわないという責任を無視した自由は結局、自分と相手を不幸にする考え方であるといえます。


大宇宙にも正しさの基準、ルールといいますか法則があるのでしょうか。
大宇宙の中では正しさの基準は一様ではないかもしれません。

しかし・・・・

宇宙で一番大切なものはやはり愛なのではないかと思います。

愛は時間や空間をあらしめている力であり、これは単に思想的、宗教的に言うのではなく、現実的、物理的な力でもあります。
愛の大河が静止したら、時間・空間、存在自体が消滅してしまうでしょう。

大宇宙の存在をあらしめている力は、愛と呼ばれるエネルギーの大河です。
宇宙に生きている生命体は、その存在すべては愛によって生かされてます。


その愛の力を少しでも知ることができたなら、謙虚になる以外になくなるでしょう。

愛といっても条件付きの愛は、少なくとも神の愛とはいえません。
無条件の愛といっても、実践はそう簡単にできるものではありませんが、いつもそちらの方向を見ていることが大切であると思えます。

いつもそちらの方向に向いていることが、自分が成長し、神仏に近づいていくことになると思えます。
小さい子供も優しそうな人には自分から寄ってきて、話しかけてくるでしょう。
我々も神仏に向かって心を開いていることが大切なことであるかもしれません。

全宇宙すべての生命体は、深いレベルでつながっている存在です。
そのような視点を持つべきであり、それゆえに信仰心が大切であると思います。

アウグスティヌスは「信仰は目に見えぬものを信ずることである。そして信仰の報酬は信ずるものを見ることのできる事である」といいます。

肉体的感覚器官で確認できる物だけが真実の実在ではありません
むしろ仏教では感覚的なものこそが夢幻と教えています。
過ぎ去っていくもの、変転変化するものは無常であり、蜃気楼とかわりありません。
真実なことは、目に見えないことの方が多いのです。

実存主義も大切ですが、それを超えて宗教はさらに大切であります。
マハトマ・ガンディーは、「宗教心を持たずしては、何人も生きられない。」といいました。

宇宙から見た自分の存在、あり方という観点で考えてみますと、宗教心を深めていくことが人生の王道であると思えます。


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posted by ガンちゃん at 02:18 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする