2017年02月19日

他力依存症候群 努力なしに成果を求める奪う愛 仏教の基本は精進

他力依存症候群 努力なしに成果を求める奪う愛 仏教の基本は精進

私が感じる他力の問題点は、諸問題に対しての自分の考えがないために、知識に基づく理性的判断を下すことができず、相手の言いなりになる、また、自分より立場が上の人に対しても自分の考えがないために意見すら述べることができないということです。

伝説的な殺人を犯した、アングリマーラという人物がいます。
自分の先生が「私の言うことを聞いたら、奥義を教えてやる。おまえは免許皆伝になる」といわれて、その先生がいわれたとおりに人殺しをした人物です。

社会的見識、常識的判断ができる理性、良心があるならば、通常は考えられないことです。
その後、アングリマーラは仏陀の一括で正気に戻ります。
仏陀の一括で、悪霊あるいは悪魔の憑依が取れたのでしょう。
どうして、自分はこのようなことをしたのかと後悔しても遅いということです。

自分で教学を学び、精神性を高める精進をしていれば、免許皆伝?になるから人を殺すという判断はしないはずです。
むしろ、そのような免許など必要としないと判断するのではないでしょうか。

他力に頼ってばかりですと、いざというときにまったくあてにできません。

ヘーゲルは、「何にもまして学問と自分自身、この二つだけを信頼することです。真理をもとめる勇気をもち、精神の力を信じることが哲学の第一条件です。
人間は精神である以上、自分を最高に価値あるものと見なすべきだ」
と述べています。ヘーゲル哲学史講義参照

仏教的には、人間には磨けば光を放つ仏性が宿っている、それは、自分の努力精進によって輝かすことが可能であり、そこに尊さがあるのだと教えているのだと思います。

他力が必要な時とは、自分の力ではどうにもならず、刀折れ矢つきた時です。
自分ではどうしようもない時、神や仏に祈ることは大切なことです。
その時初めて、救いの光がさしてくるのでしょう。

親鸞の悪人正機説も、やはり危険な問題が潜んでいると考えられます。

親鸞の悪人正機説は、「善人でさえ救われるのなら、悪人はもっと救われる。弥陀の本願として、悪人こと救われるのだ」と説いています。

しかし、常識的な普通の人は、「悪人ですら救われるのだから、善人なら、当然救われるでしょう」という論理の組み立て方をすると考えます。

善を行う人より、悪を行う人が救われるというのであれば、世界はどうなるのでしょうか。
縁起の理法、因果関係を考えれば、どちらが正しいのかがわかると思います。

悪人でも救われる可能性は有るでしょう。
自分自身も聖人君子ではありませんから、悪いことはします。
悪人が救わるのには、本心からその思い、行為に対して反省の心が芽生えたときのみです。

それなくして、他力だけで救いはないと自分は考えます。
「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」という六大煩悩に翻弄される自分、この煩悩を克服するには、自分自身の克服しようとする意志が出発点であるはずです。

もし、他力で救われるのなら地球上すべての人が何の悩みもなく救われるでしょぅ。
仏陀が修行論を説く必要などなくなります。

やはり、そこに必要なのは自助努力であるということです。

他力依存の人は自分で判断できないという意味で霊的現象に関しても危険があると考えられます。

霊的現象をありがたがる人は、教学や修行を軽視します。
霊的現象が自分の周囲に起きると、他の人とは違うという優越感に浸れるからかもしれませんが、他力依存では、霊的現象が善か悪かの判断ができず翻弄されることでしょう。

更に、自分自身で考えをまとめ整理し、相手にわかるように話す(書く)ことができないため、他の人が考えた情報を拾い集め、評価だけをえようとする、これはやはり奪う愛なのではないかと思います。


自分の実力以上の評価を得る、得ようとすることは奪う愛であり、仏教的には渇愛に相当するでしょう。

仏陀の説かれる正しさとは、中道にあります。
自力も大切ですが、他力も大切です。
自我力でも問題ですが、まったくの他力依存症候群でも問題です。
両極端を否定した中道にこそ正しさを求めるべきだと思います。



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posted by ガンちゃん at 12:29 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月05日

大量コピペは記事を書く人のやる気を失わせる社会主義化

大量コピペは記事を書く人のやる気を失わせる社会主義化

正しい考え方なのか間違った考え方なのか、判断は人それぞれだと思いますが、自分はこのように考えますという一つの意見です。

知識を取得し自分の頭で考えをまとめて記事にするには、一定量の知識の蓄積が必要です。
つまり、一つのテーマで記事を書くにしても、時間と忍耐と自助努力が必要であると言えます。

少しでも人のためになる記事を書こうというのであれば、間違ったことを書けませんから、なおさら時間と能力を必要とします。

ところが、コピペはどうでしょうか

ほとんど努力しなくとも一つの記事として掲載できます。
ブログ村のシステムも完ぺきではありませんから、一生懸命努力して考えて書きあげた記事もコピペも一記事として表示されます。

努力して書いた記事もコピペも同じ扱いであるならば、社会主義と変わらないと思います。

コピペ自体を否定しているわけではありませんが、ほとんど100%コピペは問題があります。
必要な情報、大切な情報もありますから、全面的にコピペを否定しているわけではありません。

もし、コピペだけの情報が必要でありニーズがあるという考えを押し広げた場合、どのようになるのでしょうか。

幸福の科学のブログ村に、コピペが得意な人、一人いればよいということになると思います。
違うでしょうか?

仏は、いろんな個性を持った人たちが、自分のできる範囲で努力している姿を「よし」としていると思います。

感性的な記事を書く人、哲学的な記事を書く人、宗教的な記事を書く人、詩的に書く人、政治経済を自分の視点で書く人、いろんな記事がありますが、どの記事が素晴らしくて、どの記事が劣っているということではないのです。

それぞれは自分の思ったこと考えたことを自分なりに表現することが素晴らしいことなのだと思います。
それがまた、ある意味で修行にもなっていると思います。

大量なコピペ記事によって、個人の記事が埋もれてしまい、結局、簡単に情報を提供できるコピペが上位を占めることになります。

これでは、真面目に記事を書いている人のやる気を失わせることになるのではないでしょうか。

やはり、自分で書いた記事を喜んでもらい、感謝してもらえれば、正直にうれしいものです。
大量コピペは、そのような機会を奪っているところが少なからずあると思います。

このように書くと、私自身が嫉妬しているとか、悪魔にやられていると思われるかもしれないと承知の上で書いています。

ご本人は、コピペ批判されると、相手を悪魔呼ばわりするところが見受けられます。
これは、救国のKと同じ論法です。
必然的に自分が天使側の人間で、批判する側は、悪魔と考えているのでしょう。

コピペを分類するとするならば、他力でしょうか、自力でしょうか?
そもそも幸福の科学の教えとは、どのようなものなのでしょうか。

努力して素晴らしい記事を書こうとする人と、素晴らしい記事をコピペして自分のブログに貼りつけて済ます人とどちらが正しいのでしょうか。

善悪を曖昧に考える人、有耶無耶にする人は、コピペぐらいでそこまで言う必要がないと考えるかもしれませんが、100%コピペが正しいか間違っているかと言えば、間違っていると自分は考えています。

コピペ自体を批判しているのではなく、100%コピペを批判しているのです。

正しい記事が広がるならばいいではないかという考え方もあるかと思いますが、目的が正しくとも手段の正当性に問題があると考えます。

現時点での私の考えです。



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posted by ガンちゃん at 23:00 | Comment(4) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする