奄美のアマミちゃんのお気楽ブログをのぞいたら、美しい主婦の写真入りの素晴らしい記事が載っていたのでちょっとだけ転載させていただきたいと思います。
面識がないので突然、失礼かと思いますが、何か不都合なことがおきましたら、ガンちゃんで責任をとります。
以下↓
http://amamikyo.amamin.jp/e131772.html*********************
そもそも霊能力というものは自分の感性・認識力の延長線であり、
霊能力(自分)というものを過信していたら簡単に魔道に墜ちる。自惚れの強い私がそんなものがあったらあぶねーあぶねー。
自分が見えてる世界が客観的な霊的事実だともかぎらないのに、「自称●●の神」とかが見えたらとびはねて
喜びそうな単純お馬鹿さんな私は、邪教系の動物霊(修行してた元人間)のいいエサだ。生前ある程度念力修行をつんだ霊は幻術もつかう。それも見破れない私に霊能力はいらない。
ご神仏とつながる力は、相応の実績(利他行・自戒)がなければ分不相応になる。分不相応とはどういうことか。
ちがう形でなんらかのものが代償となるということだ。
世の中はすべてバランスでなりたっている。分不相応というものがいかに怖いか、ノータリンな私でもわかる時点で「自分の過去世は有名人」「自分の守護霊は神格がある」とか末恐ろしい事など絶対に望みません(笑)
つくづく平凡なパンピーが一番だ。霊能力にあこがれるミーハーくらいな人生で、主を信じ、ご神仏を敬い、教えを学び自分の人生を整理しつつ周りに感謝する。これで充分だ。
隊長の祓いなどを聞いていると、霊能者の仕事というのは、「霊能力をつかったカウンセリング・交渉」なんだと思う。
それは相手を見抜くことであるが、その基本は「自分を見抜く」ことだ。
霊術・交渉術という「だましあい」のなかで相手の出方を見抜くには、つねに研鑽を重ねつつ内なる誤魔化しを見抜くことが第一であり、同時に、神仏との絆を深めて「神仏の目(道理)」を自分と一体化させることだろう。しかし「神仏の目」も、自分を見抜く研鑽がなければいただくことはない。
ここが、「神仏とのご縁(信仰)をいただく」ということの重要な部分であり、霊的な世界において「神々の加護をいただく」ことは「内在する智慧=天上の目」を得ることでもある。
自分を見抜く研鑽を「下座」といい「反省」という。これを身につけていない「自称霊能者」は、すべてある特徴があるのでわかる。特徴はおしえてあげない(笑)
やはり「信仰を深め徳をつむ」ことだと思う。これが霊能力という名の救済力の王道ではないだろうか。相手の痛みがわかり、相手の苦しみがわかり、そこに適切なアドバイスができ、その実績を自分のものとせず神仏に感謝し、いただいた加護に感謝する。
その徳ある救済力は、人をこえているという時点ですでに霊能力ではないかと思ったりする。以上ですが大変勉強になりました。
感謝(合掌)
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posted by ガンちゃん at 02:04
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HS/霊言・リーディング
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