2012年03月31日

ガンちゃん;「エルの物語」・臨死体験から学ぶ

「エルの物語」・臨死体験から学ぶ

プラトン著『国家』最終章に、戦争で最後をとげたエルという人物が10日前後に生き返り、自分がみてきた死後の世界を語りだす「エルの物語」が書かれています。

信者以外で一般の人達に対して、霊的世界観の真実性を裏付けるためにも、いろんな情報と知識はもっていた方がよいと考えます。

戦争で最後をとげた多くの屍体が埋葬の為、運ばれてきたが、エルの屍体だけが腐敗せず残っていましたが、12日目、まさに火葬されそうとする瞬間によみがえり、自分がみてきた死後の世界についての話を始めました。

天の穴と地の穴があり、真ん中に裁判官が坐っていて生前の生き方について、正しい行いをした人に関しては、右側の天を通って上に向かう道を教え、不正をおかした人達については、左側の下に向かう道を教えていました。

エルは近づくと、「おまえは死後の世界について、人間たちに教えなければならないから、ここでおこなわれることをすべて残らずよく見聞きするように」と言われました。

内容は、死後の世界は各人が犯した罪の10倍の償いを受けることになります。犯した罪や悪行はその10倍返しで自分に跳ね返ってきます。善行に関しても同じ割合で自分にかえってきます。

真理は単純な中にあり、善を行えば天国に帰り、悪を行えば地獄に落ちる。知を愛し人に対して優しく生きていく中に魂の成長、進化があり天使たちも微笑んで見守っています。

現代においても死後の世界を垣間見たという人は数多くいます。臨死体験も天上界の計画の一部だと聞いています。経験者はだいたい次のような報告をします。

臨死体験をしている時点で、それが死と関係していると気がつかない場合も多いようです。空中を漂いつつ、自分の肉体を見下ろしているうちに、突然不安や混乱が起こる。「こんな上のほうから、自分の肉体が見えるなんて」という感覚です。
霊的な知識がないと何が起きたのかわからず、混乱するようです。

心臓発作の激痛が、死の苦しみから深い喜びにかわったという報告もあるようです。唯物論的な医者や先生あるいは研究者といわれる人は、脳がこうした激痛に対して痛みを止める化学物質を産生するという理論をとなえていますが実証されているわけでもなく、反証する実験を行った者もいないと思います。

また、トンネルを抜けると光りの人々に会うという経験談も有ります。物質的な光で構成されているわけではなく、あらゆるものに浸透し、人を愛で満たすような、美しい強い輝きを放っています。体験者は、「光といっても愛といってもいいのです。結局、同じことなのだろうと思います。」と語っています。
きわめて強い光であるにもかかわらず、眼を傷めることはありません。それどころか、暖かで力強く、生気にあふれているようです。

こうした体験をするとその後の人生も全く違ったものになるようです。人生をこの世限りだとする人生観、実存哲学的な人生観からでは、人間は不安と苦しみから抜けることはできません。

臨死体験という実際に霊的世界を体験した人たちは、だいたい共通する認識をもちます。
死に対しての不安がなくなり人生を充実して生きるようになります。また、愛の大切さに気がつく人が多いようです。ほとんど全員が愛は人生で最も大切なものだと言うようになります。幸福と願望達成は愛の証明であり、愛に比べるとすべてのものは色あせて見えてくるという人が大半です。

クリスマスキャロルという小説で、スクルージという意地悪なお爺さんがクリスマスイブに、過去の幽霊、現在の幽霊、未来の幽霊に出会い、過去や未来において自分の行いがどれだけ人々を傷つけていたかを知るに至り、心を入れかえることによって、すべてが輝いて見えるようになったという話であったと記憶していますが、同じ環境であっても心を入れかえることですべてが美しくみえてくるという点で、臨死体験と共通していると思います。

また、あらゆるものと、つながっているという感覚があるようで、宇宙にあるすべてのものとつながっているという感じを抱いて戻ってくるそうです。臨死体験は知識に対しても、それまでになかった敬意を抱くようになります。光りの存在に、勉強(学び)は死によって中断されることはないと言われた人もいます。知識はあの世に携えていくことのできるものであり、来世全体が知識を追求するための世界になっていると述べる者もいるそうです。

「エルの物語」で語ったように、使命がある人は霊的世界を垣間見ることができ、それを実体験として報告する義務がある人もいますが、大半の人は臨死体験を経験することができないので、信仰心をもち、霊的世界を知識として学び、愛を深めていく生き方が大切であり、それを伝える活動も大事なことなのだと思う次第です。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 01:29 | Comment(0) | 日記・エッセイ的なモノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月25日

ガンちゃん;もし、第六感があったら・・・

もし、第六感があったら・・・

これは、思考実験でもし、五感をこえた感覚器官が人間の肉体に備わっていたらどのような人生観、世界観になるのかと思い、遊び心で考えてみました。

五感までの器官では、物質的な存在しか確認することができません。必然的に経験できる範囲も限定され、方向性を間違えると、唯物論的な人間になり自分を超えた尊い存在に対して目を向けることがなくなり、自分が一番賢いと錯覚していきます。

まったく目隠しをされた状態になるので、失敗すると地獄に落ちる可能性もあり、生まれて来ることじたいが、仏陀の教え「生・老・病・死」の四苦の『生』にあたる苦しみであります。

五感から先は「信」の世界であり、知識だけではどうしても超えられない壁があると思います。

それでは、第六感としての霊的感覚が肉体に備わっていたらどうなるのでしょうか?

唯物論を主張する人間は、いなくなり霊的世界が常識で世界観が今よりも確実に広がることは間違いないと思います。

相手の心が読めるので、相手が悪意をもって接してきても事前にわかるし、裏切られたりすることもなくなると思います。

しかし・・・・

では、どうして仏は肉体を五感までしか与えてくれなかったのか。

ヨハネの福音書には有名なトマスの話が出ています。
イエス様がトマスに対して「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである。」と述べられています。

この言葉に、なぜ人間の肉体が五感までしか与えられていないのかヒントがあると思います。

人間は、生まれてくる前は天上界において、本当の意味で自由自在の存在で、自分にあった次元において生活しています。
霊的な存在であれば、神や仏を信じることは容易であり、それほど難しいことではないと思います。

人間は永遠の転生輪廻する存在であり、修行という観点から人間を考えてみると、天上界で自由自在で生活した自分という存在が、地上に生まれ変わって目隠しをされた状態で、いったいどこまで神や仏を信じることができるのか。悟りの障害ばかり多い地上においてどれだけ、本来の霊的自分を取り戻すことができるのか、自分自身のテストであり合格点がでてはじめて、もといた以上の世界に帰ることができると教わっています。その時の喜びはたとえようがないと思います。

イエス様が見ないで信じた者はさいわいであるとは、そのような意味も含まれていると思います。

このように書くと、物事を二元的なとらえ方以外できない人は、魂や霊的世界を否定したと考える傾向があるので補足しますと、霊的なものを否定しているわけではありません。

悟りに付随した、霊的な覚醒であれば問題はないのですが、そうでなければ、危険の方が大きいと思います。地上は天国より地獄界の影響力が大きいので、自惚れの心があれば自分で気がつかないうちに、操り人形にされてしまう可能性があるからです。

また、霊的世界は善悪の価値観が明確にわかれているので、目隠しされた状態で善をおこなうことは、魂修行の観点から10倍の成果があると言われています。

肉体をもちながら霊的に目覚めることは大事なことであるので、反省を通して心を磨くことを怠らないことが必要であると、自分の戒めとして精進したいと思います。



ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 02:10 | Comment(0) | 日記・エッセイ的なモノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。