自分自身に悪いことが降りかかると、すべて原因は他人のせい、環境のせいといった具合に自分の問題に帰することがないでしょう。
反省することを知っていれば、あるいは反省の意味を理解していればこれほど地獄領域が拡大することもなかったでしょう。
根本原因は、神や高級神霊といった目に見えない尊い存在を信じることができない唯物論が蔓延しているからです。
臓器移植に関しても、人間の『死』を脳が停止した段階と定義すれば、心臓が動いていようが死んだことにしてしまい、臓器を取り出すというのだから、真実の世界観から見たら大変な行為を知らずにしているのです。
霊的視点が欠如しているので、肉体も部品の一部程度の理解なのでしょう。
しかし、医学にしても実存主義的哲学にしても、現象面、一面というか一部分しか見ておらず、それを全体の本質だと考えるところに間違えの根本的原因があると思います。
プラトンの国家という書物に有名な例え話で洞窟の話があります。
生まれた時から洞窟で生活して、体は身動きがとれずに鎖かなんかで縛られ、顔は正面にある壁しか見ることができないようにされています。後方から光がさしてきますが、壁には影だけが映ります。
洞窟で生活している人は、その影をみて自己認識をし世界を認識しています。
ある時、この洞窟の住人が鎖から解放され、洞窟の外に連れていかれます。
外の世界は光り輝く世界であり、色彩豊かで広大な世界が広がっていました。
それを見た洞窟の住人が、真実の世界とは色彩豊かで光り輝く美しい世界である。
今我々が見て認識している世界観は、真実の世界(理念)から投影されたものであり、影であり仮の世界であると洞窟の仲間に説明しますが、だれもまともに話を聞いてくませんでした。
大体の内容はこんな感じではなかったかと記憶していますが、唯物論者の世界観とは、まさに洞窟の暗い中という限定された空間の中で自分や世界を認識しています。
真実の人生観、霊的世界観を知るということは、人間の精神性を高めるうえできわめて大事なことなのです。
トルストイの『人生論』という書物には次のように書かれています。
「人は理性の意識と、動物的自我をすっかり混同している。しかし、動物的な自我の欲求をいくら満足させたところで、人は幸福にはならないし、したがって生きることにもならないと、理性の意識はくり返し人に教えた」
「理性の意識がない動物にしてみれば、本能を満足させ、種族を絶やさぬよう、子を残すのが生活の最高目的なのだ。
ところが人間になると、そうした動物的な自我は生存の一つの段階にしかすぎない。
その一段上に、動物的な自我とは一致しない人生の真の幸福が認められるのである。」
つまり
神を信じない唯物論者は、肉体を喜ばす動物的属性が強く、精神性が低い人達です。
感覚器官で確認できる世界は、無常であり過ぎ去っていくものです。
目に見えない霊的世界や主を信じることが人間が人間として生きていく上で最低限の条件です。
人間には信仰の本能がある。
と教えられていますが、人間としての存在が認められる条件はやはり信仰心をもつということだと思います。
カルバンは信仰に対する問答で、洗礼をうける正しい態度とはどんなことですかという質問に、
「それは信仰と悔い改めとにあります。」
と答えています。
正しい信仰をもつことで、また主の教えを信じることで自分の過ちを反省し悔い改めることができるようになります。
信仰心がなければ悔い改めの気持ちがおきません。
動物的な生き方、勝つか負けるかの世界に入ってしまうでしょう。
その結果
死んだのち、地獄に行かれる人が増え、地獄領域が拡大していきます。
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