信仰とは目に見えない尊い存在を信じるということです。
人間の心の奥には神仏と同じ光を有しているということを信じることです。
人間の尊厳の根拠は上記にあります。
日本人の大半が人間は死ねば終わりであると考えていますから、人間の尊厳の真なる意味を知るはずもないと思えるのです。
日本国内でも人権が大事であると論じられているようですが、なぜ人権が大事なのかその根拠が非常に不透明であるといえます。
日本人のいや世界中の人達の考え方の根本には、唯物論的な思考が根強くあるのですから
真実の意味における人権の尊さを知ることはないでしょう。
日本人が信仰心に対して距離をとる理由は、日本人は権威に弱いというのが一つあると思います。
現代的知識人は、神や仏あるいは霊的な世界観について証明ができないうえに客観性もないので学問の対象の範囲外として無視し否定しています。
一般の人たちは、勉強している知識人たちがそのような立場にあるのなら、その考え方が正しいのであろうと右ならえでしたがっているだけなのではないでしょうか。
神仏を信じていない日本人の大半が、自分で調べたり考えたりせず、みんなが信じていないので自分も信じないというレベルなのでしょう。
カールヒルティが幸福論の中で以下のように述べています。
『科学的あるいは哲学的にすべての人が納得する形で証明できるのであれば、信じる必要などない』
神仏や霊的な世界を三次元的な材料で証明できたとしたら、それは物質的な物差しに依存しているということで、信じるということでなく確認したということになるでしょう。
また、ヒルティはこのようにも述べています。
『世の中に信仰が欠けているわけではない。世間の人たちは自分に都合のよい、信じやすい理屈さえ付いていれば、どんな空想化の説でもやすやすと信じる。』
『今日ではやはり無数の人たちが最後に狂気に陥った男(ニーチェ)の支離滅裂なご託宣を信じている。
彼の思想の奇怪な飛躍ぶりを見れば、彼がそのような病的素質を持っていることは理性的な人であれば誰でも早くから推測できるのである。
世間の人はどんな説でも自分たちに都合がよければ、手当たり次第に新説を信じる。』
正しいのか間違っているのかの価値判断を、自分の都合を基準にしているようでは信仰の名に値するわけがありません。
現代でもおきることですが、一部の人たちは総裁先生の著書の中で自分に都合のよい箇所を引用して、自己の正当化に走しります。
また、主エルカンターレから霊示を受けたとかインスピレーションをもらったとか自分の中で思っている分には構わないと思いますが、公表したり、人集めをしているようでしたら早めに懺悔されることをお勧めいたします。
日本人の信仰心の欠如の理由は
現代の知識人と言われている人たちが、目に見えない霊的存在や神仏を軽んじていますので、それが正しい世界観なのだと浅いレベルで信じているだけなのでしょう。
自分の意思で価値判断しているのでも、深く思考しているわけでもなく、何も考えていないだけなのでしょうか。
インド・ネパールでは一度説法をしただけで80%の人?が会員になったと言われています。
事実は事実、真実は真実です。
神仏や霊的世界を素直に信じることができるということは、魂的に優れている証拠です。
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