言論の自由とは大切なものです。
本来言論の自由とはどのようなものでしょうか。
特定の宗教を信じることによって迫害を受けないために、言論の自由があります。
プロテスタントという宗派がありますが、過去に圧倒的な権力によって人々の良心が抑圧されたとき、一人ひとりの信仰をもつ信仰者達が、己れの良心に基づいて抗議をしました。
それが、マルティン・ルターをはじめとして起きた宗教改革であったと思います。
そして、その流れがヨーロッパやアメリカへと流れていき、近代民主主義政治の基礎を築いたのだと思います。
個人が直接的あるいは間接的にも一定の権力によって抑圧をうけることが無いように、個人の思想・信条・意見などを公に発表できる自由。
言論の自由とは、このような考えが基礎にあるのです。
しかし、自由には本来、責任というものがあるはずです。
他人の記事を無断掲載、しかも仏法真理の内容を情報の安売りのように無断で自分のブログに張り付け人気を集めようとしている人もいます。
総裁先生は以下のように述べています。
法話の案内などでも、「法話は情報ではありません。メールなどで情報として流すだけでは伝わりません。自分の肉声でお伝えください」と述べられています。
コピペしている人は情報として張っているだけですから、読んでいる方も情報として受け止めているだけだと思います。
違う人もいるかもしれませんが、深い意味で自分の学びとして魂を変えていこうとまでは考えていないのではないかと自分には感じられます。
法がなぜ情報と違うのか私なりに考えて一言でいうとするならば、法には魂の傾向性を変える力があるからです。
情報は時間の流れとともに消えていきますが、久遠の法は私たちの精神性・魂の方向性を決めてしまう力があるのです。
ですから、私たちは真剣に法を学ばなければならないのです。
コピペは自分の頭で全く考えていませんから、批判的なコメントが来ても自分では答えられません。
何の反論もできず無視することしかできないのです。
これは全くの無責任な姿勢だと思います。
無断で張るだけ張って後のことは知りませんと言っているようなものです。
神様は人間を創造するにあたって、自由を与えられました。
自由があるからこそ個人において多様なる価値観が学べるのです。
自由が与えられているからこそ、魂の向上を目指すことができると同時に、堕落することもできるのです。
ただし、自由であるからと言って魂を堕落させる行為は間違っています。
なぜなら、神は魂を創造されるときにそのような目的方向性を考えておられなかったからです。
同様に、自由であるからといって多様な情報を自分のブログに集め勝手に発信する行為はまちがっています。
ニーズがあるからと言って他の情報を拾い集め発信する行為は著作権侵害に該当するはずです。
言論の自由が保障されているからといって、他の情報を勝手にコピペし発信していながら、批判に対しては責任を取らないというのであれば、やっている行為は低俗な週刊誌とどこが違うのでしょうか。
低俗な週刊誌も人の情報を盗み撮りして公に公表し責任を取ろうとしません。
中国人の一部の人たちも著作権を無視し国際法に違反していると知りながら、海賊版を安く売って儲けていますが、同じようにしか見えません。
やはりその発言に対しては、ある程度の価値判断がなされるべきであると思います。
たとえ同じ信者同士であっても間違っていることに関しては間違っていると注意する必要があるのです。
何も言わないで波風を立てないことが真実の調和ではありません。
言論の自由は人間にとってとても大切な権利だと思います。しかし、言論の自由はその発言に対して、あるいは内容に関しては、必ず責任がともなうと思います。
責任が伴わない自由など、そのようなものは真実の自由ではなく、放縦というのです。
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