結局、他力による救いは継続性がなく一時的なものであると思えます。
最終的に悪霊や悪魔に勝つためには、修行を通して実力を上げていく以外に方法はありません。
幸福の科学の歴史を振り返って考えてみても、自分の修行で悟り霊的能力を開花したのではなく、他の存在によって、あるいは外部の助力によって霊的能力を開いた場合、その後、ほぼ100パーセント悪霊や悪魔にやられているのではないかと思います。
なぜでしょうか。
それは、自分の努力で悟りを開いたわけではないからです。
悟りにも段階があると思いますが、少なくとも外的条件で心が揺れない、教学をきっちりと学び自分の言葉として話せる、人に対しての優しさ、人の苦しみが理解できる、そのような人格者であるべきだと思えます。
仏典には以下のように書かれています。
「多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。心おだやかに、怨むことなく、恐れることがない人、かれこそ<賢者>と呼ばれる。」ブッダの真理のことば・感興のことば参照
他力によって霊的能力を開いたとしても、常に師匠がそばにいるとは限りません。
一人になった時に心境を維持できるかが問題になるのでしょう。
仏陀に提婆達多、キリストにユダありと言われています。
仏陀の近くにあっても、あるいはイエス様の側近であっても悪霊や悪魔は隙をついて攻撃してきます。
以前、私(ガンブロ)の霊的体験の一部を紹介したことがありますが、私は悪魔の笑い声を聞いたことがあります。2〜3回
朝方でしたが、寝ていた私の頭の上の方からどう考えても悪魔の笑いとしか思えない声がしばらく続いていました。
笑い声を聞いただけで、私には勝ち目がないと瞬間的に思いました。
心が凍りつくほどいやらしい笑い声です。
半分寝ていた状態の私は、早く表面意識を活性化させないとやばいと第三者的に思いました。
霊言で悪霊や悪魔を入れて話をさせるということは、私も支部で何回か見たことがありますが、総裁先生や他の方に入られて語られるので、それほど恐怖を感じたりすることは有りません。
しかし、どのような形にせよ悪魔が直接攻撃してきた場合、一人では勝てません。
信仰を手放すなと教わっていますが、実体験すればその意味がよくわかります。
なぜなら、一人では勝ち目がないからです。
悪魔が直接攻撃を仕掛けてきた場合、菩薩(7次元存在)であっても勝てないと言われています。
ですから、普段の修行が大切なのだと思います
教学を軽視してはいけません。
「霊的生活と信仰生活」という講義本に総裁先生の体験が書かれています。
総裁先生の会社時代の話ですが、ある人に憑依霊が何体か憑いていて、その人に憑いている憑依霊を取ろうとした話なのですが、結果的には無理のようでした。
その人の性格には盗み癖があり、ずるいところがあったようです。
総裁先生はその人に光を入れようと、真理の話をずいぶんしたようなのですが、結局、本人の魂がねじれているよう状態で話している間は離れても、すぐに戻ってくると言われていました。
ですから本人の心が変わらない限り、他力では完全には救えないのです。
だから、教学が大切なのです。
真理を学ぶことで自分の間違った考え方が理解できるようになり、高級霊の考えを学ぶことで光の供給を受ける心境に変化します。
宏洋氏は、教学をあまりしていなかったようです。
それでいてプライドが高く、何か問題がおきるとすべて他人のせいにし、反省しない性格であるならば、そのような状況で霊的能力を開いてしまったらどうなるのでしょうか。
それが今回の事件の真相であると自分は思っています。
大悟の法には、神秀と慧能の修行について書かれていたと思います。
五祖弘忍が『依鉢を譲る』ということで悟りの試験をしました。
自分自身の悟りの内容を言葉に書いて出してみなさいということで、内容が五祖弘忍の考えと近ければ次の後継者になるということです。
神秀の書いた偈の内容を要約すると以下のようになります。
「身体は大事な菩提樹だし、心は大事な鏡なのだ。だから、心境を磨かなければならない。体も心も、大切に手入れをして、塵や垢や埃がつかないようにしなければならない」
大悟の法講義・自力と他力参照
オーソドックスな詩で、地道な努力を要求しています。
一方の慧能の偈の内容を要約すると以下の通りです。
「菩提の樹などない、鏡もない、本来は無一物。どこに塵や埃をつけるのだ」という内容です。
これは仏教の『空』の思想に関係していると思えます。
神秀と慧能を比較すると、神秀の方が忍耐と努力を要求する修行内容です。
一方の慧能は地道な努力や修行、教学を軽視しているようにも感じられます。
神秀と慧能どちらの修行が、悪霊や悪魔から自分を守ることに繋がるのでしょうか。
私は神秀の修行態度のほうが悪霊や悪魔から自分を守ることができると考えます。
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