「自己認識と客観的な自分に対しての評価のズレ」と大川総裁先生に対しての不信感、この辺に共通性があるのかなという感じをうけます。
私自身は天川氏を嫌いなわけではありませんが、大川総裁先生に対して批判的な発言や暴言に対しては説得するか、説得が無理な場合には必然的に戦うしかありません。
天川氏の場合、大川総裁先生に対しての不信感とは大体以下の内容であると思われます。
「家庭調和を説きながら、大川家はできないないではないか」
「霊言集の内容と過去の偉人たちの生前の思想や哲学の間にギャップがある、はたして霊言集は本物なのか」
上記2点に関しての私の見解を述べてみます。
主は、家庭調和の教え以外にも様々な法を説かれています。
信者は、この法を自分が目指すべき努力の方向性として指針として学ぶわけです。
しかし、物質世界は理想通りにすべてが実現するわけではありません。
その理想と現実のギャップを少しでも縮めていくべく努力する過程が魂の修行であると思います。
アンチになって行く人の特徴の一つが、自分の周囲に起きる現実の結果が教えの通りにならないことによる不信感によって疑心が生じ、信仰を手放すという選択をすることだと思います。
しかし、理想を現実化する為には思いの力も必要でしょうが、智慧も必要であるということです。
何度も転生輪廻を繰りかえす理由は、物質世界という不自由な世界において智慧を獲得することにあります。
主は家庭調和の教えを説いたのに、自分はできていないではないかという人は、神様がいるのなら、なぜ、不幸な人がこれほど多くいるのでしょうかという一般の人々と同じ悩みを解決できないでいる姿に思えます。
なかなか教え通りに現実はついてきませんが、その間、黙々と努力することが必要であるというのが私の結論です。
次に霊言集の真意ですが、まさしく三次元的材料によって客観的証明などできるわけがございません。
カントに関して言えば、カント哲学の前提は経験を通した客観性が理論の出発点になっています。
ですから、宇宙の誕生や霊界の存在、天使や悪魔の存在の真偽を論じると、たちまちアンチノミー(二律背反)に陥ると言っています。
感覚器官では確認できませんから、天使がいるとも言えますし、いないとも言えるのです。
要するに証明できないので、学問として学ぶには相応しくないという立場です。
霊になったカントは、生前の哲学の前提が成り立ちません。
霊が存在するのかしないのかという以前に、すでに自分が霊になっているからです。
ですから、生前の理論と違うのは当たり前であると自分は思います。
H氏についても御本人はかなり自由人であるようなので、自分の思い通りにならない現実に対して不満があるのでしょう。
現実に対する不満の原因は、幼少時の体験(勉強を無理やりやらされた)や父親のせいにして自分には一切の責任はないと思っているところにあるのでしょう。
しかし、30歳にもなったのであれば、いつまでもウジウジしているなということです。
実社会は甘くはないのです。
自分自身の問題は、自分で解決していかなければなりません。
それが「人生は一冊の問題集である」という意味です。
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この書籍はまだ読んでいませんが読む前から嫌な予感がしています。
ネットで発売予告を見て、H氏とは関係のない純粋な悪魔を説き伏せる内容かと勘違いして買ってしまったのでした。
K子さんのときの『現代の法難』シリーズのような低俗な言葉の押収がなされているのではないかと。
さて本題です。
>信者は、この法を自分が目指すべき努力の方向性として指針として学ぶわけです。
おっしゃる通りだと思います。
しかし、幸不幸の科学の信者はあまりにも発信力がなさ過ぎます。
幸福の科学の真理を学んで日々起きてくる問題にどう対処したのか?
「もし、真理を学んでいなければ〜になっただろうけど、学んでいたおかげで〜ように考えることができ〜することができました」
というような真理を学んだ効果の発信がほとんど見当たりません。
小冊子等に掲載されるのは誰の身にも起こりそうない奇跡的なことが多く参考になりません。
幸福の科学の書籍を扱っていない書店でも平積みされているような霊能力者の書籍や、ライト心理学のような著書のファンは活発に効果をSNSやブログで発信しています。
哲学的な内容もよろしいのですが実際にどんなメリットがあるのか?
この世とあの世を貫く幸福のこの世の幸福の部分の発信をもっと多くの信者が積極的にするべきだと思います。
もしかしたら、みなさん真理を学んでもさほど変化もなく幸福になっていないのかもしれませんが。
難しい問題だと思います。
過去の歴史を振り返ってみても、神を信じたから地上における幸せを手にすることができたかというと、必ずしもそのようになっていないのが現実でしょう。
仏法を学ぶことによって、自分にどのような変化が起き、その体験を外に向けて発信する力が弱いというご指摘ですよね。
確かに自分から周囲を変えていこうとする積極的思考や行動力が欠けているのかもしれません。
真理を学んでも、他人任せの人たちも多いことは事実でしょう。
あなたがおっしゃる通り発信力に関しては、今後の課題になるかもしれません。
すみません。
今すぐ答えが見つかりません。
『伝道の法』第6章p.321に下記のようにあります。
「みなさんが理解した真理を、どうか周りにいる人たちへ、手の届く人たちへ、声の届く人たちへ伝えてください。伝えきってください。それが「愛」なのです。」
自分のことを棚に上げて言えば上記のこと一体どれほどの信者の方がされているのでしょうか。
「伝える」というのを狭く対面と捉えておられるのかもしれません。以前ネットで伝えるのはなんたこったらという話があった気もします。
しかしこのご時世にネットやSNSで伝えないなんてありえるでしょうか。
私は某信者さんのブログを読んているがために、買う気のなかった霊言集を何冊買わされたことでしょう。
そのブログは他のブログとは違い、内容などもけっこう書かれていてそれに対するご自身の感想も書かれています。
そこまでおっしゃるなら読んでみようかとついつい買ってしまいます。
本当に素晴らしい教えで感動したなら、黙っていられません。ブログでもSNSでも言いふらしたくなるのが人情ってものだと思います。
そういう行動に出る方か少ないのは残念ながら結局は御法話が心に響いていないと思わざるを得ません。
毎朝「めざましテレビ」や「ZIP」を見ているような感覚で聴きに言っている人が多いのではないかと思います。むしろ「ZIP」を見ている人の方が「今朝の見た?」と周りの人に話していたりするかもしれません。
また愚痴ってしまいました。
失礼ました。
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