イスラム教やユダヤ教は、正義か悪かという善悪の価値判断を明確にし、悪と判断した場合には徹底的に相手を粉砕するとういう考え方を根底に持っているように思います。
日本独自の善も悪もない、あるいは善悪の価値判断がつけられずに優柔不断な立場をとるということは中近東の宗教にはありません。
善と悪に関しては、神の名のもとに徹底的に白黒をはっきりつける民族性があると思えます。
しかし冷静に考えてみれば、片方が完全な善で片方が完全なる悪ということはありえません。
ヤハウェが「われ以外、神なし」といって偶像崇拝を否定しました。
要するにギリシャの神やエジプトの神を否定したのです。(多神教を否定した結果になります)
宗教戦争がおきている理由はここにあります。
更に問題なのが、ヤハウェが三千年以上前に「カナンの地をおまえたちに与える」と言ったのでモーセは民をつれてエジプトを出てイスラエルを目指したわけです。
しかし、そこには先住民であるアラブの人たちが住んでいたのです。
アラブの人達から言わせれば「おれたちの土地を勝手に与えると言った神は、神ではなく悪魔だ」ということになります。
イスラエルから言えば、神が与えると言ってくださったのだから占領にいったのだということになるのでしょう。
アラブの人達から見れば迷惑なわけです。
現代のイスラエル対アラブの戦いはモーセの時代にさかのぼるのです。
数千年の歴史を有していますので、そう簡単には解決がつく問題ではありません。
正義と正義がぶつかり合う対立関係を包含するのが許しの原理でもある慈悲です。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教徒と民族によって信仰している神は違うかも知れませんが、更に上位には至高神『エローヒム』が存在します。
エローヒムは地球神であり、根源の神です。
宗教としてちがう現れ方をしているかもしれませんが、その源流は地球神であるエローヒムあるいはエルカンターレが存在するのです。
ユダヤ教とイスラム教が根源において同じ神であるならば、お互いに愛しあい理解しあえる可能性があるわけです。
現代、ユダヤ教の神とイスラム教の神は別であると理性的に二分法で区別されて認識されています。
イスラエルが正義であるならば、対立関係にあるアラブは悪であり、悪魔であるという論理構造になっていす。
お互いの宗教は、悪に対しては妥協しないで徹底的に相手を粉砕するまで終わりません。
真実はいろんな民族や宗教の神が存在し、企業間競争と同じように切磋琢磨しています。
そしてその上には究極の神がいるということです。
確かに神の価値基準には、善と悪の価値判断が明確にわかれており、その価値基準から善をとり悪は捨てていく中に個人としても、国としても発展していく道があるとは思います。
また、そこに住む民族の気質に合わせて宗教が説かれ、それが宗教としての多様性として現れてきたと思いす。
しかし、違いだけに目を向けずに共通する点や、普遍性の部分を見抜いていかなければならないと思います。
善と悪の対立をのりこえるのは、愛と慈悲と転生輪廻の思想であろうと思われます。
多様な価値観、宗教的な教えの違いは有りますが、自分が属している宗教の教えにない教義であっても、その価値を認めるところに愛の教えがあると考えます。
相手を理解したということは、相手を愛したということなので、正義という観点とは別に、愛や慈悲という観点からも他の国の宗教をみていく必要があると思います。
仏教的な慈悲(キリスト教的愛の思想)、転生輪廻の思想を知ることで、対立ではなく和解が生じると思います。
物事を善と悪というように二分して、悪に対しては粉砕するという考え方を超えて、転生輪廻に基づく愛と慈悲によって和解できる可能性があるのです。
現在は、アラブ人でも過去はイスラエル人であったかもしれないことを信じることができれば、国や宗教の教えの違いによって相手を悪と決め付けるのではなく、そこに相手に対しての寛容性、愛の気持ちが芽生えるのではないかと思います。
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