道徳律とは、道徳行為の規範となる普遍妥当的な法則を言います。
『義務』を重視する倫理学の立場で主として用いられる概念でありますが、道徳を神の命令と考える立場や、カントの提言的命令の説などがあります。
提言的命令とは、無条件的なもので行為の結果や目的に無関係に、行為そのものに価値があるとして命令するものです。
ここで言う普遍妥当的というのは、例えば、日本おいては正しい行為であったとしてもヨーロッパでは正しくないというのであれば普遍的ではありません。
また、1000年前は正しいとされていましたが、現代では正しくないという行為も普遍的ではありません。時間的・空間的にも正しいという意味であると私は理解しています。
カントは行為に対しての結果よりも、その動機にまでさかのぼって道徳性を問うたと思います。
義務で行う行為が善だとしても、はたしてその行為は最高善と言えるのかどうかが問われる必要があります。
義務で行う行為は、その人自身の心から生じた行為ではなく、条件(義務)という外から強制された善であり、その条件がなければ、正しい行為を行うかどうか定かではありません。
善の行為、正しい行いも、愛の思いから生じた行為こそ理想の善であり、動機においても正しいと言えます。
しかし、愛の思いが自然発生的に起きてくることは、まずないと考えてよいと思います。
愛の思いが自然とでてくるためには、自分に降りかかる試練を経て、自分の苦しみや悲しみを通して相手の気持ちを理解する、あるいは相手に共感する必要があると思います。
道徳善の実戦を継続的に続けていくことで、それが愛の思いに変化するときがあるのかもしれません。
愛による善とは、道徳的義務としての善を、継続して行い続けた人にして初めて、獲得しえる境地だと思えます。
訓練・努力あるいは経験を通して愛の心とはどういうものか、ということがはじめて魂の奥深くに刻み込まれていくのでしょう。
愛を知るには、悩みや苦しみ悲しみをのりこえたという魂の実績を必要とします。
はじめは義務感から行っていた善なる行為が、長い間の実践と訓練、経験の量などによって、徐々に深化され、やがて与える愛の喜びというものが、まるで自らの魂の本性であるかのような深さまで、刻印されてゆくのでしょう。
道徳的義務としての善行とは、道に不慣れな人が、はじめてきた道を、地図を頼りに歩いているようなものだといえます。
これに対して、愛による善行とは、その道をすでに知り尽くした人の歩き方に似ています。
道を知りつくす前は、誰しも最初は、その道に不案内なものです。
しかし、その道を何度も何度も歩いてみることで、やがてその道に精通するようになります。
その道を歩くのに、何の苦も感じない、当たり前の行為に変わってゆくときがきます。
これと同じように、道徳義務としての善行の実践・繰り返し・訓練によってはじめて、人は愛による善行を、自分自身の自然な感情として実感できるようになるのではないでしょうか
もちろん、地獄に落ちるぞといった、恐怖心によって相手の行為を抑制することも必要かと思いますが、それは最終的に目指すべき方向性ではないことも確かです。
自己の良心に自己が従うこと、自分で自分を律する(自律)ことこそが、義務で行う善でなく自由でありながら、自分の意志に基づいた最高善であると思います。
その時々に応じた道徳原則を引き出す能力がなければ、自己の意志を実現できないでしょう。
これと正反対の立場がカントです。
カントは言います。
「おまえの根本命題がすべての人間にもあてはまるような行動をせよ」
この命題は自己の行為を死に追いやります。
すべての人がやるような行動の仕方を自分自身の基準にするのではなく、その時々に応じて何をすればよいのかが問題になるはずです。
固定化した道徳律ではなく、変化に対応した応用力ある道徳観念が大切であると考えます。
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