ヘラクレイトスの思想は、プラトンやヘーゲル哲学に大変な影響を与えています。
ヘーゲルは以下のように述べています。
『ヘラクレイトスの命題で、私の『論理学』のうちに、とりいれられなかったものは一つも有りません。』
ヘラクレイトスの考え方の特徴は、消去法を用いるのではなく結合法を用いた論理の組み立て方をしているといえます。
『これか・それか』というのではなく、『これも・それも』という統合的な観点です。
例えば、ある土地に家を建てれば、そこにある草地を破壊しますが、家を破壊すれば、草地を創りだす。破壊を伴わない創造はないし、逆もまた真なりということです。
論理的な一般原理として、このように述べています。
『存在は非存以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。真理は対立物の統一としてしか存在しない。
一切は流れる。なにものも存続せず、おなじままということはない。』
感覚的なものは固定的なものでなく変化するものであり、実体として、あるいは本質を有しているとはいえません。
すべては、原因や条件に依存して、縁起によって存在しています。ですから実体として存在するものではありません。
ヘラクレイトスが言うように、「存在は非存在以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。」
変化こそ真実の存在形式であり真理です。
ヘラクレイトスは、一だけがあり、他の一切はこの一が形を変え、変化し加工されてものである。この一以外の一切は、流れ固定せず、自分をもちこたえない。つまり、真実は「なる」であって「ある」ではない。
ヘラクレイトスは「なる」が原理であり、真実であると認識しています。
「存在は非存在とおなじく存在しない。『なる』は有ると同時に無い」
存在と非存在は対立する関係で、対立する観念が一つに結ばれ、「なる」のうちには存在と非存在がともにあるとされています。
「なる」は生成だけでなく、消滅も含んでいますので、この二つがばらばらのものとしてではなく、同一のものとして「なる」のうちに内包されています。
自然は一瞬たりとも静止することがなく、対立に駆り立てられ絶えず流動しています。この世では、生物であれ無生物であれ、時間の経過とともに変化しないものは皆無なのだ。森羅万象は流転する。
ヘラクレイトスの思想の特徴は変転変化です。
そして二律背反する事物の統合であり、正・反・合の弁証法であるといえます。
「同じ河にわれわれは入っていくものであり、入っていかないのでもある。われわれは存在するとともに、また存在しないのである」
「私は、事物が変化するというこの瞬間に、私自身も変化している」
真理とは、「なる」過程のことであり、ちがうものあるいは、対立するものが一体化していく過程を表現しています。
更にヘラクレイトスは霊的能力を有していたのではないかと思わせます。
「死なぬ者が死ぬ者であり、死ぬ者が死なぬ者なのだ」
ヘラクレイトスによると、人間の生においても死においても、生きることと死ぬことが一体になっています。
なぜなら、我々が地上において生きている時には、霊魂は死んでおり、肉体に閉じ込められています。逆に、地上において死を迎える時、霊魂はよみがえって霊的に生きるからと述べています。
ヘラクレイトスは、すべての存在が流れ、感覚的に確信されたものはあると思ったときにはもうない。だから感覚的な知のうちには真理はないと述べています。
また、ヘラクレイトスの思想の特徴として火を根本原理としていたようです。
『常に万物は火と、火は万物と交換されるのである』と言われています。
この火をエネルギーに置き換えて考えてみますと、アインシュタインが物質とエネルギーが等価変換できるという物理的法則を発見しましたが同じ意味として理解することが可能であると思います。
25世紀も先駆けてこのように考えることができるとは、真理は普遍であるということです。
仏教との関係でヘラクレイトスの思想を考えていきます。
ヘラクレイトスは、「生まれてから、生きていくつもりになるが、それはまた、死を覚悟することなのだ」
と言われています。
仏典「善勇猛般若経」には、「出現する性質のものは、なんでもすべてが滅する性質をもつ」「出現の本質、それはおのずから破滅することであり、それが『滅』である。」
「生起と同時に滅である」と書かれています。
「断常の中道」で言われているように、現在の自分の状態が常に続いていく考えは、まちがえであります。また、死ねばすべてがなくなるといった唯物的な考え方も間違えです。
魂自体は来世も続いていきますが、運動形式や表現形態が違ってきますので、変化しながら存在するが正解であると考えます。
肉体を含めて物質的なものは、その生まれた瞬間、生じた時、発生した時点ですでに滅びに向かっており、永遠に続いていく存在ではありえませんが、だからこそ逆説的にこの世を超えた霊的世界に対して目を向ける必要があると考えます。
また、地上という相対のなかに生きているからこそ、霊的世界の素晴らしさを再認識できるとも教わっています。
ヘラクレイトスは、「悲しい日々を体験しなければ、楽しい日々を過ごすことができないし、不幸についてせめて漠然とでも認識していなくては、幸福を評価することができないのである。
苦痛に対する快楽や、涙から切り離された笑いについても、同じことが言える」と述べています。
真実の世界観を獲得する智慧は大事なものでありますが、真理を聞いても右から左に抜けていく人が、いつの時代にもいるわけです。
ヘラクレイトスが言うには、「実は考えることは万人に共通なのだが、知というものは大多数の所有物ではないのである。たいていの人々は、歩いているうちに、道がどちらに向いているのかを忘れてしまうのである」と述べられています。
また、「彼らは眠っている時の所業を忘れているように、覚めているときの所業にも気づかないのだ。そしてロゴスには出会う前も後も、気がつかない。」といわれています。
ヘラクレイトスの言葉に「いてもいない」という名言がありますが、肉体はその場にいても、思考する主体、魂が別のところに飛んでいて、真理を聞けども音にしか感じ取れないという人が今も昔もいるということでしょうか。
ロゴスとは、概念・意義・定義・説明・理由・理論・思想・等に用いられたり、あるいは、言語の能力・思惟・理性・思考力の意に用いられたりしますが、ヘラクレイトスに関しては、一切を貫き支配する理法(世界理性)という意味で使用していると考えられます。
ヘラクレイトスは、五感から生じる認識は間違いであると、いろんな箇所で指摘しています。
『一般大衆の認識に関しての間違えは、ロゴスの代わりに、五感を用いることに執着しているからだ。
あるいは、「目は耳よりも正確に証言するが、もちろん、これは識別能力を有する人の目の場合である。逆に、野蛮人には目も耳も語らない。なにしろ誤謬は五感というよりも霊魂に依存しているし、霊魂が愚鈍ならば、それはすでに・・・・」』と辛口の厳しい言葉を残しています。
ヘラクレイトスはソクラテスやプラトン同様に霊的能力をもっていたのではないかと思えます。
仏教でいう覚者(目覚めたるものの意)ように高度な霊的能力を有しながら同時に、理性的な人物であったのだと思えます。
また、智に関しても厳しく論じています。
「智を求める人は、実に多くのことを探究しなければならないのである。そしてその際に、表面にあるものであれ、一見して現れているものに迷わされることなく、ものの内部に隠れているものであれ、それぞれのものを徹底的に検討しなければならないのである。」
「もの自体は美しくも醜くもないし、良くも悪くもないのであり、それらの目的によって初めて、そういうものとなるのである。それだから、神々が戦争を淘汰とみなす以上、それは望ましものかもしれませんが、それは人間からすれば死をもたらすから最悪のものである。」
「どの現実も肯定的な面と、否定的な面という両面を必ず有する。海水は魚には貴重だが、人間には致命的である。一見して凹状に目えるものが、凸状にあることもありうる。
あることが、正しいか正しくないかを決めるためには、人間は理性にではなく、五感に頼っているが、このことから錯覚に陥るのである。そして、賢者が人間に警告をしている時にでも、彼らは信用しなくて、まるで眠っているかのよう行動する。」
ヘラクレイトスの思想は現代においても十分に通用する教えであり、哲学の源流に位置する人物ではないのかと自分は思っています。
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