人間は通常、変転変化より固定したもの、あるいは安定を求めます。変化に対応するには努力が必要です。安定を求める心には、安心を求める心の働きがあるのでしょう。
仏教の三宝印の一つに「諸行無常」があります。
この地上にあるすべてのものは、時間の流れの中で変化し続けていき、変化しないもの固定的なものは存在しません。
すべての存在には、滅びが内包されています。
存在と消滅は対をなしています。
しかし、縁起の理法・因果律によって、あるいは努力によって変化の方向を調整できる可能性はあると思います。
「諸行無我」とはなにか。
この世のもので定義できるような実体や本質をもった存在はありません。
すべては、他に依存しながら存在しているのであり(依他起性)、自立的な存在、姿や形を変えないものは、霊界においても、物質世界においてもありえません。
(依他起性とは、他に依って起こる性質という意味です。因縁によって生起するものをいいます。)
ギリシャの哲学ヘラクレイトスの言葉を引用するならば、
「同じものがあるのだ。生きている時も死んでいる時も、若いときも年老いた時も、なぜなら、このものが転化してかのものとなり、かのものが転化して、このものがなるからだ。」
あるいは、アウグスティヌスの『告白』の中には、「われわれの魂の中でいつも同じままに留まっている唯一のものは、過去の現在・現在の現在・未来の現在、つまり、『記憶』『直観』『希望』なのであると述べられています。
ですから魂の記憶、直観、希望以外は流れ去るものといえます。
つまり安定とは、一見すると人間の安心感に結びつけて考えやすいのですが、実際は、何の努力もともなわない安定は、停滞を生み、魂にとっての進化という経験を放棄したことになるのかもしれません。
幸福を求める時、安定した中に真理を探究するのではなく、変化こそ真理であり、人生の本質であるという認識をどこかにもっていた方が、いいのかもしれません。
変化を受け入れ努力を継続的に続けることで、魂が進化し認識力が拡大することでしょう。
認識力が広がること自体が幸福であり、魂の喜びとなるでしょう。
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