ヘーゲル哲学は、人間の認識の可能性を神にまで高める思想であったといわれています。
ヘーゲル以降の哲学は、キルケゴールに始まる実存主義の流れです。
ヘーゲルが到達した、世界を神の視点から俯瞰するかのような普遍的・絶対的真理に対してキルケゴールは、主観的真理、自分自身に対しての真理を探究しようとしました。
霊的世界を無視し、地上のおける人間としての生き方や正しさを探究しても真実の答えを見つけ出すことは出来ないでしょう
実存主義とは、霊的世界や魂を理解することが出来ない迷える人間が、自分の意志に関係なく地上に投げ出されてさまよえる自分自身がどのようにして真理にたどり着けるかという哲学なのでしょう。
人間が「死に至る病」を背負って生きる存在だと考える実存主義哲学では、あるいは霊的世界と人間の本質である精神、魂を理解できていない実存主義哲学では、永遠に真実をつかみ取ることは出来ないでしょう。
更に20世紀で有名な哲学者は、ハイデガーです。
『存在と時間』で知られている哲学者です。
ハイデガーの時間論を知るには、過去世であるアウグスチヌスの時間論を知ることによって理解の一助になるかと思えます。
アウグスチヌスの時間論は以下の内容で書かれています。
「もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。
現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは、現在の期待である。
私は時間を測ることを知っている。しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。それでは何を測るのか?現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。」
ハイデガーのような哲学者としてではなく、キリスト教父としてアウグスチヌスは時間と存在に関してどのような考えを持っていたのかを考察すると、アウグスチヌスは時間を現象の変化としてとらえていたのかもしれません。
地上における時間は、過ぎ去っている時(現象の変化)知覚対象として成立しますが、次の瞬間には知覚対象として認識できません。
ですから、現存在とは時間であるという考えだと思います。
ハイデガーは、人間とは日常生活の可能性のなかに投げ出されながら(被投性)、未来の可能性に向かって、積極的に自分を投げ企ててゆく(投企する)存在として「被投的投企」という考えを示しました。
実存主義哲学は、人間とは自分自身の意志に関係なく地上に投げ出され、偶然に地上に存在している弱い自分が現実に生きている、その自分とは運命の流れや時代性によって翻弄されていますが、どのようにすれば未来を切り開いて行けるのか、投げ出された存在(現存在)である自分が主体的に運命の流れを変えていくにはどうするべきか、その答えを求めている哲学といえます。
時間を線に例えるならば、物質世界における時間は点の移動ということになるかもしれません。
しかし、心の中には過去、現在、未来が存在し、過去は記憶、現在は直覚、未来は期待に対応させて考えていますので、心の世界だけは、過去、現在、未来に移動することができるということでしょう。
つまり、心とは、3次元の物質世界を超えた、4次元時空、4次元以降の存在形態を有しているということになると思います。
人間の本性、本質は心です。
アウグスチヌスが時間論で説明したように、心こそ過去・現在・未来にわたり消滅することのない実在で、心の法則性、メカニズム、機能を知り、自分の心を統御する、コントロールすることで未来を主体的にのりこえることができるという結論だと思います。
霊的な裏付けのない哲学思想は、人間を偶然に存在する弱い存在という捉え方をするのかもしれません。
ハイデガーは、人間は存在であり、存在に場所を与え、存在に時間を与えるという思想であると思われますが、カントの時間、空間に関する意味付けに近い感じをうけます。
カントは、時間・空間は現象に依存する規定ではなく、現象そのものを可能ならしめる普遍的条件であり、外的な現象の根底に必然的にあるアプリオリ(先見的)な表象である。
人間の直感は、時間・空間の枠組みの外に出ることはできず、時間・空間という規定された、枠組内でしか、直感することができません。ゆえにカントは、時間・空間を直観するための根本形式であると言っていたと思います。
そして時間と空間は、他の条件や経験、考え方などに左右されることがないので純粋直観と述べていました。
空間と時間は認識するうえでの前提条件という意味だと思います。
ハイデガーは、「実は、自分の哲学のなかに、自分の置かれている立場を語っていた。その運命の流れに抗することができない自分に対する苛立ちと苦悩が、実は描かれていた」と言われています。
ヘーゲルの『現実的なものは理想的(理性的)であり、理想的(理性的)なものは現実的である』という意味は、地上において現実的なるものから理念や理想を引き出し、理念や理想を現実に具現化するべく努力するということだと考えます。
霊的世界における正しさや価値秩序を地上において実現する、それがヘーゲルやプラトンの哲学に帰ることだと自分は考えます。
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