現代の特徴ともいうべき物質至上主義のため、目に見えない尊い存在に対する信仰が低下してきていることは確かです。
神仏に対しての純粋な信仰ということの価値が失われて、肉体を喜ばすことが人生の喜びという考え方が蔓延してきています。
しかし、真理は時代や国の違いを超えるものであり、マリア信仰における謙遜、神と人々にたいしての愛は、あらゆる時代の人々の模範になってきました。
マリア信仰の一番特徴的なところは、その母性であるところの包み込むような優しさだと思います。
これは神が、女性の魂に植え付けた無償の愛を知るための、きっかけではないのかと思います。
聖ベルナルドは、「彼女(聖母マリア)がおとめであり、謙遜な方であることは、あなたが聞いているとおりである。そこであなたが謙遜であるその方の、童貞性を見習うことができないのならば、せめておとめの謙遜にならいなさい。なぜなら童貞は称賛される徳ではあるが、謙遜はいっそう重要だからである。最初は、勧めであるが、後のほうはおきてである。」と言われています。
まず、精神性が大事であり、仏教的な無我の思想に近い考え方かとも思えます。
大乗仏教における「空」・「無我」の思想を明確に打ち出したのは竜樹でしょう
竜樹は紀元2世紀頃、インドに出て大乗仏教の中興の祖と言われ、さまざまな宗派の宗祖になったという意味で八宗の祖とも言われています。
竜樹の説いた空の思想とは否定の否定であると思えます。
この地上において実体のあるもの実在するものは何も存在しません。
あらゆるものは見せかけだけの現象にすぎません。つまり、いかなるものであってもその本質を欠いているということです。
あらゆる事物は、他の事物に条件づけられて存在しています。空とはけっして無ではなく、断滅でもありません。肯定と否定をこえたものであり、「有」と「無」をこえたものでもあります。
空とはあらゆる事物の依存関係にほかなりません。すべてのものは相依って成立しています。
相依って成立しているものを空間縁起ということもあります。
すべての存在は、他の存在に条件づけられて存在しています。
単独で存在するものはありませんから、すべては愛によって成り立っているといえます。
表現形式が違いますが、聖ベルナルドと竜樹の魂には愛が深く刻印されているように思えます。
「童貞性がなくても、あなたは救いを得ることができるが、謙遜なしには、救われることはない。神は人がたとえ、童貞性を失ったとしても、それを悲しむ謙遜な者には恵みをお与えになる。
マリアがもし謙遜でなかったら彼女の童貞性もそれほど神の御心にかなわなかったであろう。」と言われています。
肉体以上に肉体に宿りたる魂あるいは精神の清らかさの重要性を述べているのでしょう。
修道女や出家者は、戒律で禁欲の戒めを課せられているのでしょう。
聖ベルナルドは、「マリアの母性について言うならば、マリアは童貞性と謙遜を兼ね備えておられたがゆえに、全く比類のないかたであった。」と母性に関して洞察しています。
女性の大事な母性的な感情、相手を包み込む優しさや包容力はどのように養われるのでしょうか。
ある程度の人生の艱難辛苦を乗り越える過程で、相手の気持ちを自分の苦しみを通して理解した時に、それが包容力として、その人の徳というかたちで、その人に備わるのではないかと思います。
聖ベルナルドは「悲しみが喜びをもたらし、恐れが慰め、苦しみが人々を救い、死が生かし、弱さが力を与えているのである」と言われています。
聖母マリアが聖母といわれるのは、世界中で苦しんでいる人達の心の支えになっているからだと自分は考えています。
この力は、女性特有の力で、歴史的な勇者やまたは哲学者、宗教家などに匹敵する優しい光りの力であると自分は考えています。
「誘惑の嵐が吹きすさぶ時、苦しみの暗礁にぶるかる時、星を仰ぎマリアを呼びなさい。高慢、野心、しっとの波にもまれる時、星を仰ぎ、マリアを呼びなさい。短気、貪欲、あるいは肉の誘惑が心の小舟をゆさぶる時、マリアのほうに目を向けなさい。罪の重さに心を乱し、両親の醜さゆえに力を落とす時、審判の恐ろしさにふるえ、悲しみの淵、絶望の深みにのまれそうになる時、マリアに思いをはせなさい。危機に遭う時、困難を感じる時、心配事に出会う時、マリアを思い、マリアを呼びなさい。口では絶えずマリアを呼び、心では常にマリアを思いなさい。そしてマリアの取次によって神の恵みをいただくために、その生活の模範にならいなさい。」とベルナルドは言われています。
これは、世界中で苦しんでいる人達に対して、心の慰めになるであろうし、先ほど述べた包容力あるいは徳の力によって、人々を救っていこうとする光であると自分は思います。
もちろん会員であれば、この「マリア」を「主エルカンターレ」と置き換えて考えても、聖ベルナルドの考えは現代にも十分に通じる考えであると思います。
仏教もキリスト教も基本的教えの中心は、神仏に対する信仰であり隣人に対しての優しさ(愛であり慈悲である)であると思います。
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