現代は仏のお言葉を直接聞くことができる稀有なる時代であります。
仏や神の教え(法)が説かれているときは、当然ですがそれに従うべきです。
しかし、いつの時代でも仏や神の御言葉を聞けるわけではありません。
その時代に神の意志を確認することができなければ、国民が全員で社会契約を結び、合意された意志が『一般意志』として神に代わるものとなり、国民全員が従った方が良いでしょう。
この世的なことは、この世の人たちが議論することによって向かうべき方向性を決めながら、それに従ったほうが良いでしょう。
しかし、国民の合意によって一般意志を形成し、それに従うという前提条件として、国民一人一人が神仏に対する信仰心や畏敬の念を持つべきです。
神仏に対する畏敬の念や信仰心をもたない国民は、すぐに唯物論的になり衆愚制へと堕落してしまいます。
霊性の時代の到来を妨げる要因とはどのようなものがあるのでしょうか。
カントは神の意志を『理性』として仮定し、とらえようとしました。
しかし、一般的に人間の理性には限界があり、人間理性では神の御心を知ることは難しいのではないかと思えます。
デカルトは霊能者であったといわれています。
霊肉二元論について、「デカルトは霊能者であったにもかかわらず、後世の人々はデカルトの霊肉二元論を都合のいいように使い、自分たちのわからない霊の部分を排除してしまった。」といわれています。
神の御言葉や仏の法であっても、受け取る側の人間の認識力によって、本来の意味とは違う受け取られ方をしてしまいます。
ルソーの「自然に帰れ」という言葉を、表面的理解で解釈すると、本来の意味とは違う間違った解釈をされてしまいます。
子供は教育しなくても自然に育つとか、現代文明を否定して原始時代に戻れとか、そのような受け止め方をされてしまいます。
本来の意味は、子供たちが持っている隠れた才能や光りの部分、輝きを引き出しながら、かつそれを磨きあげることが教育者にとって大事なことなのです。
また、その素晴らしい輝きを現代的な間違った価値観や唯物思想、宗教は悪、といった考え方によって傷つけてはなりません。
「自然に帰れ」とはそのような意味であり、決して原始人に戻れという意味ではありません。
シュタイナーは、勉強ができる、点数の高い人たちが利己主義に走っていることに対しての危険性について述べています。
勉強ができるということが、他者に対して自分の方が偉いと慢心する、また、収入が他者より多いという、そのようなことの為に勉学が使われていることに対しての危険性を指摘していたと思います。
人間は慢心すると自分が神であるかのように錯覚します。
更に、国家が教育権を一手に握るという全体主義的な洗脳の危険性を指摘しています。
現代のように教育現場が自治体のようになっていると、外部のチェックが入らず邪教そのものと同じ状況になります。
自己保身によって子供のことより自分自身の立場をどのように守るかということばかりに関心がいく危険性があると思われます。
仮に、国家レベルですべての教育を一元管理したらどうなるのでしょうか。
それは全ての子供達を一律にきりそろえたことになり、長所、短所を無視し個性を殺した教育になるのではないかと思います。
ルソーが指摘したように、子供が本来持っている輝きに傷をつけることになります。
全体主義のように競争や切磋琢磨がない世界は停滞と堕落をまねくことになります。
シュタイナーは「国家社会主義は教育の世界において、すでに実現している」と指摘しています。
国家自体が唯物論、無神論であれば、国民全体が精神病院に収容されているようなものです。
「真実を嘘だと教える。逆に嘘を真実だと教える。」
それを国家管理でやられたら逃げようのない『収容所列島』で生きていることになります。
現実に日本はそれに近いものがあると思えます。
人間の本質が霊的存在であるからこそ、仏神に近づいていく可能性があり、磨けば光輝く仏性というダイヤモンドがあるからこそ、教育に意味があると考えます。
天上界から見れば、この世の合理思想が小さな箱庭のルールにしか見えないかもしれません。
現代は過去の歴史をすべて合わせたよりも大量の真理が説かれています。
この事実こそ、霊性に時代の到来を告げている証拠です。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学