自分の行動は、私の思いという種が咲かせた花であり、喜びや悲しみはその実である。と言われています。聖書には、イエス様がその実が良いか悪いかは、その木を見ればわかるといった内容の言葉を述べています。
心は肉体に制約されながらも4次元以降の存在です。
ですから「心」は物理的に証明できないのです。
地上的なものは諸行無常であり変転変化しながら移り変わっていきます。
変化し移り変わっていく存在は、本質的なものではありません。
ですから肉体は仮の宿であり、心こそ私自信なのです。
心が私であるということは、心で思うこと考えることが私自身の本質であるといえます。
デカルトは、精神こそ、その人そのものであるということを述べています。
「私は一つの実体でありその本質あるいは本性は、ただ考えるということ以外の何ものでもない」
「物体が存在せぬとも、精神は、そのままであり続けるであろう」と言われています。
神といわれる高級霊の方々は、最初から創られた存在ではなく、地上に生まれ変わっては気高い心、清らかな心を持ち続けていたことによる結果であると思います。
逆に荒々しい性格は、卑しい思いを持ち続けた結果であり、すべては自分の心で思ったこと考えたことの成果であるといえます。
原因結果の法則で知られるジェームズ・アレンは「思いのパワーは、目に見えない力であり、不滅の魂から生まれたエネルギーです。どんな目的にも道を切り拓き、どんな厚い壁も打ち砕く」と述べています。
行動を起こすには意志の力を必要とします。
意志はエネルギーに方向性をあたえます。
環境は自らを映し出す鏡です。心の中で抱き続けてきたその思いが環境となって現れてくるのだと思います。
心に蒔かれた種はやがて芽を出し、行動という花を咲かせ、環境という実をつけます。
正しい思いは、やがて良い環境が現出してくるでしょうし、卑しい心は悪い環境として現れてくることでしょう。
自らが罪を犯すのも環境のせいでありません。心の中に密かに思い続けていた悪い思いが、ふとした拍子で飛びだしてくるのであり、悪い思いが顕在化するのです。
その証拠に、同じ環境で生きている人であっても正しく生きようと努力する人もあり、人を騙して生きようとする人もいます。
罪は環境にあるのではなく、自分自身の心に潜んでいるといえます。
仏教には、無表業と言う教えがあります。
実際に考えていることを行動であらわさない限り、他人にはその人の考えが分かりません。
しかし、何回も繰り返し思い続けていることは魂に刻印されてしまい、魂の傾向性になってしまうのです。
これはイエス様が「心で思っただけで罪になる」といわれたことと同じ意味を含んでいます。
心こそが私の本質であるならば、思考内容を高度なものにする以外に、霊的向上はあり得ません。
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