日本には民主主義が繁栄しているように見えますが、日本の民主主義の基礎、土台にあるものは虚像であり、偽物です。
民主主義の基礎にあるべきものは、「神の心」「仏の心」であるはずです。
民主主義といえば、やはりギリシャを思いうかべますが、プラトン・ソクラテスや他のギリシャの哲学者の本を読むと、当時のギリシャ人は間違いなく神の存在を信じていたと確信します。
神の御心はどこにあるのか、人間として尊い生き方とはどのようなものなのか、当時のギリシャ人は神の御心とはどこにあるのかという探究心、神の正しさとは何かを求める精神的傾向性を持っていました。
神や仏という存在を否定した民主主義とは、どのようなものなのでしょうか。
唯物的な人たち、神や仏の存在を否定する人達でつくる民主主義は必ず衆愚制へとなっていくことでしょう。
あるいは、一部の独裁者によって惑わされる全体主義が始まるのではないかと思います。
日本の民主主義は物質的繁栄のみであって、その繁栄の基礎には心がありません。
精神性や理念が欠落して、形式だけの民主主義、形だけの人権になっています。
人権が尊いといわれる根拠は、人間の本質とは肉体にあるのではなく、肉体に宿りたる霊性、魂が仏の光を内包しているから尊いのです。
魂の核の部分には神仏と同じ性質である仏性が宿っています。
人間の尊さを、唯物論的に肉体のみに求めるのであれば、天地がひっくりかえる価値判断になります。
犯罪事件などで、殺された人より、殺した人の方を優遇しているのではないかと思うときがあります。死んだら終わりと考える価値観からですと、殺された人はすでに肉体が死滅したので終りなのだから、罪を犯したまだ生きている犯罪者をどうすればよいかだけを考えようとします。
価値観が全くおかしなことになり、被害者より加害者を優遇するということが法的に合法化されるのですから、唯物論とは恐ろしいものです。
マックスウィーバーという社会学者は『古代ユダヤ教』という本で、「民主主義の時代は宗教が繁栄する」と述べています。
一人一人が神の心、仏の心を求めて活動するときに、社会は繁栄するのです。
ですから真実の民主主義は、宗教と一致するのです。
日本の土台を築いた聖徳太子は、日本に仏教を取り入れ神道と融和しながらこの国を運営してきました。外側は日本神道、中身の部分、教学は仏教という形で助け合ってやってきたのに、明治以降は国家神道が中心となり、他の宗教は弾圧されました。
天皇を「現人神」にし、仏教に対しては『廃仏毀釈』と言って仏を廃し、お寺や仏像を打ち壊し始めたのです。
仏を軽んじたことが、霊的意味における第二次世界大戦敗戦の原因の一つであると考えます。
また、日本国憲法は「信教の自由」を認めながらも、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動をしてはならない」と規定しています。
宗教と政治が隔絶されており、戦後、政教分離が正しい民主主義であると誤認されています。
結果的に宗教が悪者のように扱われ、受け取られる傾向が強まってしまいました。
政教分離の趣旨は、「人々を統制する道具として宗教を用いてはならない」ということです。
「統制する道具」として宗教を使ってはいけないということが、政教分離の意味であり、宗教は悪いものだから公的な場から締め出すとう解釈は間違っています。
真理を知った人たちはやはり言葉を武器として言うべきことはいい、宗教が尊敬される国家創りをめざして汗を流すことが大事であると思います。


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