天台智は一念三千論という教えを説かれました。
一念三千とは、十界、百界千如、三千種世間など、波長同通の法則を論理的、分析的に説明した教えといえます。
一念三千論は以下のように説明されています。
法華経を勉強するにあたって大切な考え方として十如是があります。
十如是とは、「如是相」・「如是性」・「如是体」・「如是力」・「如是作」・「如是因」・「如是縁」・「如是果」・「如是報」・「如是本末究竟等」の十個のことです。
この世のあらゆるものは、この十種類をみれば違いが分かるといわれています。
如是相とは、外に現れる様相、外見であります。優しそうだとか怖い感じがするだとか、そのような外見に現われてくる様相です。
如是性とは、その人に備わった性質、性格であります。勤勉であるとか努力家であるとか、その人の性格を表しています。
如是体とは、どのような身体、体つきでしょうか。スポーツ向きの体型なのか、やせ型か、標準タイプか肥満型なのか、体型等の違いです。体型もその人の意志や心の状態を表現しています。
如是力とは、潜在能力で、どのような潜在的な力を有しているのかです。
如是作とは、それが外に対して現れる作用、どのような作用を現しているのかです。
如是因とは、ものの生起を導く直接原因で、どのような原因行為をしているのかです。
如是縁とは、その原因行為を補助するための条件。
如是果とは、原因と条件によって導かれた結果。
如是報とは、その結果に対しての報い。
如是本末究竟等とは、如是相から如是報まですべてが関係しあっています。
この十種類を観察することで、どのような人間であるのか、あるいは他の人とのちがいは何なのかがわかります。
さらに、十界互具説という教えがあり、人間が地上に生まれてくる前に住んでいた霊界です。
「地獄」・「餓鬼」・「畜生」・「阿修羅」・「人間」・「天上」・「声聞」・「縁覚」・「菩薩」・「仏」の十個の世界に分類します。
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六道が欲界の世界であり、欲望から十分に逃れていない人間が転生する世界という考えです。
感情のままに怒りまくれば「地獄」に通じます。また、ある物に対して強い執着を持てば「餓鬼」に通じます。人間の尊厳を忘れ、肉体に基づく欲望のままに生きれば「畜生」の世界に入り、闘争と破壊に生きれば「阿修羅」になります。
「人間」とは一般的な平均的人間で、「天上」はちょっとすぐれた人間を現わしていると考えます。
「声聞」は仏陀の説法を聞いて勉強している人で「縁覚」は独りで修行を続けているような人です。
「菩薩」は人助けや人を救うことに邁進しているような人です。
そして、菩薩の五十二段界を超えたら「仏」になれます。
このどこかの世界に、自分自身の魂の出自があるという考えです。
この十種類の心の在り方を、地上に生まれてきた人間も出すことができます。
菩薩の心であったとしても、何かのきっかけで怒りがこみあげてくれば、やはり心境は地獄に通じてしまいます。
また、菩薩の行為をするといっても、菩薩が菩薩の行為をするのと、仏が菩薩の行為をするのと、地獄から抜け出してやっと霊界に帰ることができた人が瞬間的に菩薩の行為をするのでは、やはり違いがあると思われます。
現在の表面的な思いだけで判断するのではなく、心の傾向性からも判断する、裏側も含め両面から確認していく考え方です。
もともとあの世の素性が十種類あり、この地上に出てからの心境に十種類。十種類の人がそれぞれに十種類の心の出し方ができるので十界掛ける十界で百界となります。
この百種類の心境に十如是の思想を掛け合わせると、百界掛ける十如是で千になり、これを「百界千如」といいます。
さらに人間が百種類の心をだす、活動の場として、三種類の世界「三種世間」があります。
一番目は「衆生世間」で人間の世界です。
老若男女の違いでも、物事のとらえ方、考え方が違うであろうし、20代と40代でも認識の仕方が違うと思います。
学生と社会人でも、同じ人間社会で暮らしていながら考え方はずいぶん違うと思います。
二番目は「五陰世間」です。
人間を構成している要素を五陰といい「色」・「受」・「想」・「行」・「識」に分類します。
「色」は肉体で、「受」は感受作用、「想」は想い、イメージ。「行」は行為をするための意思であり、「識」は認識力の識です。
色、受、想、行、識のどの部分を使うかによって対象に対しての知覚が違ってくると考えます。
仏陀と一般の弟子では同じ対象を観察しても、認識力の違いによって全く違うとらえ方をしているはずです。
三番目は「国土世間」です。
共産主義の国と自由の国、独裁政権の国ではやはり物事の考え方が違うでしょうし、日本やアメリカ、フランスの違いによっても物事のとらえ方や考え方が全然違うと思います。
文化や教育も違ったものであると思います。
それゆえに物事に対しての認識の仕方も違ってきます。
「百界千如」に「三種世間」を掛けると「三千種世間」となり三千という数字が出てきます。
天台智は、このようなプロセスで一念三千論という思想を説かれたと自分は考えています。
一念三千論と心の傾向性の関係について考えてみます。
お釈迦さまが菩提樹下で悟った「因縁の理法」を惑・業・苦といいます。
惑とは、心の三毒といわれる「貪・瞋・癡」です。
貪りの心、瞋の心、愚かな心で、仏法真理を知らない無明からくる迷いの人生です。
迷いの人生を生きることで苦しみをつくり、それが業(カルマ)とし魂の傾向性となり、輪廻の主体となる意識に刻印されます。
その結果、苦しみという報いが身に及んできます。
この惑・業・苦をさらに分析的に説明したのが、十二支縁起になります。
十二支縁起とは、
「無明」・「行」・「識」・「名色」・「六処」・「触」・「受」・「愛」・「取」・「有」・「生」・「老死」からなります。最初の無明と行が過去世に対応しています。
「無明」とは明かりがない状態です。智慧の明かりがないという意味です。
心の三毒「貪・瞋・癡」貪りの心、瞋の心、愚かな心です。
その思いにもとづく行い「行」があります。無明からくる行いによって、業が形成されます。
過去世の無明からくる行いから、生まれ変わりの主体、輪廻の主体になる一定の意識が形成されます。
その業が魂の傾向性として刻印されますと、来世生まれ変わる時の魂の主体となる「識」ができます。
この生まれ変わりの「識」が、身体の中に宿ってくることを「名色」と言います。『名』と『色』は精神と肉体あるいは、心と体を意味しているようです。
しかし実際は、「名色」の段階では、まだ意識は霊界で待機中のようです。一方おなかの中では、動物の子どもの様なものが出来上がりつつあります。
精神と肉体という意味の「名色」は不適切であって、本当の意味では、肉体が明確化してくるという「名色」といった意味合いの言葉のほうが正しいのです。魂が宿っていないので心と体という意味の名色という言葉は正しくありません。悟りの挑戦(上)参照
それから、「六処」という「眼・耳・鼻・舌・身・意」という感覚器官が明確になってきます。
感覚器官が発達してくると、その器官に対応する感触「触」を感じとります。
感触がわかるようになると、感じとる能力、感受性がでてきます。感じとったものに関して、自分の感想、考えを持てるようになる精神作用の一つです。
感受性がでてきますと、自分の好き嫌いが明確になり、欲望がでてきます。これが「愛」で、キリスト教的な博愛や、与える愛という意味ではなく、パーリ語で「タンハー」渇愛という意味です。欲望がおさまらない状態です。
つぎに「取」がきます。自分の欲望の対象を手に入れたい衝動がおきてきて、本格的な執着がでてきます。このような執着の心が何年も継続していくと「有」の状態になります。
今回の人生で身に付けた、魂の傾向性です。
そしてまた来世、生まれ変わりの「生」があり「老死」となります。
無明から老死の過程を循環する一連の流れが、霊的世界を含めた人間の一生ということになります。
無明から来る愚かな転生輪廻尾を断ち切るには、一念三千論における心の統御が必要です。
苦しみの第一原因が智慧の明かりがない無明にあるわけですから、ここに修正をかけていく必要があります。
感受性が発達し自分の好き嫌いが明確になり欲望がでてくるあたりから、無明が形成されてくるとおもいます。
ですから、一念三千論にいう心の針、方向性を仏に向ける必要があります。
一念三千論は普遍的な教えです。
時代が変わっても人間の心は変わりませんから、昔の宗教や思想であっても心に関する教えには普遍性があるのです。
ですから、現在進行形で説かれる仏法を学ぶのは当たり前ですが、合わせて古典を学ぶ必要もあると思います。
一念三千論によって心の方向性を統御し、無明を断ち切ることが修行の一つの在り方だと思います。
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