2018年03月25日

ヘーゲルの概念論と空の究極

ヘーゲルの概念論と空の究極

空の意味するところは、地上に存在するすべてのものには、本質を有しているものなどありません、固有の性質をもつものなど地上においてはないのです、という考え方です。

ある人にとっては忌まわしい虚飾である花が、聖なる世界の風光となって仏に捧げられ、毒物が時には薬として用いられ、凡夫を惑わす愛情が仏陀にとっては衆生の慈悲になる、というようにすべてのものは対照的であると同時に転換が可能であります。

存在するものはただ一つの事象、同じ世界であって、それを俗として聖とし、あるいは迷いとみるか悟りとみるかは人の側の区分にすぎないのです。
その区別から執着が生じ、そこから誤った行為や煩悩が生じてしまいます。
その区別と執着を捨て去ることが空の思想の一つの考え方です。

様々な範疇によって区別された本質や実体とは、実在するものではなくて、言葉の意味の実体化にすぎないというのです。
過去、現在、未来にわたって恒常的に存在する実体とは、人間の思惟の世界における概念としてのみあるもの、言いかえれば言葉にすぎないのです。

例えば、私の目の前にある机は、個物としての実体をもっていません。
なるほど、私が机の上に本を載せて読めば、机です。
しかし、私が腰をかけて座れば、それは椅子であるといえます。
斧で割れば薪となり、火にくべれば灰となり雲散霧消して無に帰するはずです。

もし机としての実体があるならば、それはすべてにとって同一の実体と機能を有するはずです。
現実は机の上で読書することもできれば、子供の遊び場所になり、猫は寝台として寝そべり、犬は寄ってきて片足を上げる。
このように様々な認識と効用が起こるのは、机としての実体をもたないからです。
空の思想 梶山著者 参照。

しかし、空の思想とはすべての否定につながるだけの存在論で終わるわけではありません。
空の思想を突き詰めると『ある』のです。
「無」とは存在しないことでしょうが、「空」とはあるのです。
すべての存在は上記で書きましたように、固定的な実体としてあるのではなく、変化していくものなのです。
それは三次元的な変転変化を意味しているのではなく、地上と霊的世界を含めた流転を意味しています。流転の法則によって地上的な存在は最終的に消滅して消えますが、霊的な存在もまた次元相応に変化し続けています。
そして最後に残る究極的形態が『念』であるわけです。
この姿かたちなき思考するエネルギーが最終的に残る究極の形態です。
空は思考するエネルギーまで分解したときにあるといえます。
これが「空」における究極の存在形式であると思います。

人間を含めた万象万物は、すべて霊的エネルギーあるいは神仏の光によって創造されています。
あるいは、すべてに仏の光(仏性)が宿っているといえます。
一切衆生悉有仏性

万象万物を含むすべての人間に仏性が宿っているからこそ、お互いに愛し合うことが大切であるのです。

哲学者ヘーゲルは哲学的論理思考で、自然や人間にはすべてに共通する仏性が内包されているという結論を導き出したのかもしれません。

カントが述べる概念とは、事物を認識するための枠組み、思考するための規定であり認識するための土台としての概念という位置づけです。

カントがいう概念によって認識できるものとは、五感によって経験できる限定された範囲のもの、本質の一部であり現象面に限られます。
ですから、概念と事物が別々の存在として分離しています。

ヘーゲルの述べている概念とは、人間を含めた自然そのものの本質を意味していると思えます。
自然も人間も概念を本質として、概念によって成り立っています。

概念は個人の主観的なものではなく、すべてに共通して内包されている普遍的なものです。
共通する普遍的概念を内包しているからこそ、基本的な正しさが認識できるのだと思えます。
すべてに共通する普遍的概念がなければ、宗教も思想も道徳も人間にとって無意味なものになることでしょう。

人を傷つけたり、殺したりすることは悪いことであると教わらなくてもある程度理解することができるのは、精神が普遍的概念によって思考するからです。

概念こそが神の子人間としての本質であり、自然自体の本質でもあるといえます。

私自身の深いところにある概念を知ることは(ソクラテスの汝自身を知れに通じる)、他者の概念を知ることになり、自然の本質をも知ったことになります。

絶対精神(という名の神の存在)によって創られた精神に宿る概念こそ、すべてのものの本質であるという認識だと思います。

ですからカントが認識した概念とヘーゲルが認識している概念には相当な意味の違いがあると考えます。

カントが意味する概念とは、外界の世界に対しての人間の認識、感性・直観という試練を経たものでないと客観的な認識としては成立しない、人間が語ることの許される理性認識とは、感性・直観を通して経験できる範囲に限定される限界をかくしています。
感性・直観によって経験できる範囲とは、事物の現象面であり本質の一部分ですから、人間の認識は事物の本質まで知ることは許されていないと考えたのでしょう。

しかしヘーゲルは概念こそが、すべてに共通する本質そのものと考えたので、人間の限られた経験に依存することなく、自分の精神の深いところにある普遍的概念を知ることで相手の概念を知ることになり、万象万物の本質をも知ることにつながると考えたのではないでしょうか。

このように考えると、ヘーゲルの述べている概念の意味するところと、上記で書きました空の本質、究極の存在形式である思考するエネルギーが『神性・仏性』という言葉で統一できることが可能であることが理解できます。

正心法語に書かれている一説
「自他は これ 別個に非ず 一体なり」
という一行の中には、深い哲学的な意味も含まれているのだと思います。



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posted by ガンちゃん at 01:12 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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