現代の日本には、まだ、信仰を否定する勢力、左翼的唯物論、無神論が根強く国の上層部に生き残っています。
戦後の左翼史観による歴史的教育によって、日本人は悪というレッテルを強引に貼られてしまいました。
その左翼を裏で操っていたのが、旧ソ連のコミンテルンです。
コミンテルンはレーニンの指導によってモスクワに設立された国際共産主義運動の司令塔です。
目的は各国での資本主義の打倒や、階級の廃絶などです。
このコミンテルンが「日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ」と題する文書を日本共産党に授けました。(テーゼは運動方針書というような意味)
それ以降、この運動方針書を左翼の人たちは「三十二年テーゼ」と呼んでいます。
この三十二年テーゼは原稿用紙30枚足らずで、わりに短い文書で「天皇制を打倒することが、共産主義革命の最初の課題である。」というように、当時の日本共産党に授けたわけです。
ある評論家は、「この六十数年間、我が国の左翼人、戦後の進歩的文化人、そして現代の反日的日本人、彼らが書き散らした近代日本についての批判は、すべて「三十二年テーゼ」が指示した方向を忠実に守っている」と述べています。
たった原稿用紙30枚程度のテーゼを守ろうとする左翼によって今、日本人及び日本神道の神々も苦しい状況の置かれていると思えます。
マルクス・レーニン主義や毛沢東主義を信じている政治家は学生時代に勉強した自分の考えを否定されたくないのでしょう。
この国の子供たちを育てる教職員たちは、日の丸の国旗や国歌に対して、軽蔑的な言辞を吐き、そして、この国の尊さを自ら否定し、子供達に左翼的唯物論・無神論を教えています。
宗教を信じる者にとって、如来や菩薩、天使といわれる人たちをあざ笑ったり、迫害したり、いじめたりする世の中を断じて肯定することができません。
キリスト教においても、聖霊を汚す罪は許されないと教えているはずです。
今の左翼系のマスコミなど、言論機関を使って主を迫害するなど、いつまでもこんな事が許されてよいわけではありません。
言論機関だけではなく、人間の「死」に対しても同様です。
いろんな分野で、生命とは何かという研究がなされています。
しかし、定義を間違えると大変な悪になり霊的世界を含めて大混乱になり闇の部分が広がってしいます。
臓器移植に関しても、人間の「死」を脳が停止した段階と定義すれば、心臓が動いていようが死んだことにしてしまい、臓器を取り出すというのですから、真実の世界観から見たら野蛮人の行為にしか思えません。
医学にしても実存主義的哲学にしても、現象面、一面というか一部分しか見ておらず、それを全体の本質だと考えるところに間違えの根本的原因があると思います。
プラトンの国家という書物に有名な例え話で洞窟の話があります。
生まれた時から洞窟で生活して、体は身動きがとれずに鎖で縛られ、顔は正面にある壁しか見ることができないようにされています。
後方から光がさしてくるのですが、壁に映るのは事物の影であり、洞窟で生活している人は、その影をみて自己を認識し世界を認識しています。
ある時、この洞窟の住人が鎖から解放され、洞窟の外に連れていかれるのですが、外の世界は光り輝く世界であり、色彩豊かで広大な世界が広がっていました。
それを見た洞窟の住人はこのように述べます。
「真実の世界とは色彩豊かで光り輝く美しい世界です。今我々が見ているのは真実の世界(理念)からの投影であり、影にしかすぎません。」
洞窟の仲間に説明しても、だれもまともに話を聞いてくれませんでした。
大体の内容はこんな感じではなかったかと記憶していますが、唯物論者の世界観とは、まさに洞窟の暗闇の中という限定された空間の中で自分や世界を認識しているのです。
真実の人生観、霊的世界観を知るということは、人間の精神性を高めるうえできわめて大事なことだと思います。
トルストイの『人生論』という書物には次のように書かれています。
「人は理性の意識と、動物的自我をすっかり混同している。しかし、動物的な自我の欲求をいくら満足させたところで、人は幸福にはならないし、したがって生きることにもならないと、理性の意識はくり返し人に教えた〜」
「理性の意識がない動物にしてみれば、本能を満足させ、種族を絶やさぬよう、子を残すのが生活の最高目的なのだ。ところが人間になると、そうした動物的な自我は生存の一つの段階にしかすぎない。その一段上に、動物的な自我とは一致しない人生の真の幸福が認められるのである。」
感覚器官で確認できる世界は、無常であり過ぎ去っていくものです。
目に見えない霊的世界を信じ、主を信じることが人間として生きていく上で最低限の条件であると思います。
人間には信仰の本能があると教えられていますが、人間としての存在が認められる条件はやはり信仰心をもつ、目に見えない尊い存在を信じることだと思います。
カルバンは信仰に対する問答で、洗礼をうける正しい態度とはどんなことですかという質問に、「それは信仰と悔い改めとにあります。」と答えています。
正しい信仰をもつこと、また、主の教えを信じることで自分の過ちを反省し悔い改めることができるようになります。
信仰心がなければ悔い改めの気持ちが湧いてくることはないでしょう。
動物的な生き方、勝つか負けるか、損か得かという精神性のかけらもない泥沼の世界に入り込んでしまいます。
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