私達の前に事物が謎めいて現れてきます。
なぜなら、事物そのものの成立過程に立ち会っていないからです。
しかし、思考を通してその成立過程を考察することは可能であります。
私達は観察を通して知覚内容を得ることができます。
しかし、その知覚内容は無秩序で混沌とした状態です。
思考は、無秩序で混沌とした知覚内容を統一的にまとめる働きをします。
視覚を通して得られる知覚内容には、まだ、意味づけや価値判断が含まれていません。
知覚内容は概念との関係によって、意味づけが与えられます。
意味づけされていない知覚内容を概念と関係づける働きが思考です。
花の概念を認識するには、まず、花の知覚内容を持たなければなりません。
その後、概念の総体の中から特定の概念を取り出してきて、知覚内容に意味づけを与えていきます。
しかし、観察による知覚内容が増えるに従って最初にあった知覚内容と矛盾と対立が発生します。
知覚内容が広がるにつれて、最初にあった世界像と矛盾が生じ、訂正しなければならなくなります。
概念は、新しい知覚内容に対して意味づけや価値判断ができなくなり、対立が生じてきます。
この対立、矛盾を克服することで新しい概念、上位概念が形成されることになるのです。
対立、矛盾を上位概念で統一的にまとめる過程こそ発展の形式でもあると思えます。
世界は弁証法的運動形式によって発展していきます。
弁証法とは、自己自身の中で自己と矛盾し、自己を止揚し反対物に移行します。
肯定と否定が常に矛盾し、せめぎあいながら対立しています。
矛盾対立を高い総合的観点から統合する運動を弁証法と呼びます。
この弁証法的発展形式によって上位概念が形成されていきます。
「否定の否定」とも言います。
思考の歩みはある思考の規定が自己を否定して、その反対の自己に移行しこの両者の否定が再び否定されることによって解決されるという三段階の進行形式(正・反・合)をとります。
これが否定の否定であり、へーゲルはこれを絶対的否定性と呼んでいます。
これは、単なる否定のための否定ではなく最初の定立とその否定の反定立を総合したより高い否定(止揚統一)です。
知覚内容は概念によって意味づけされ、概念は新たな知覚内容によって高度な概念が形成されていきます。
思考的考察によって対立矛盾する知覚内容を統一できたならば、それは高い段階で一元的に認識できたことを意味しています
知覚内容が多様な現れ方をするのは、身体組織の制約のもとに現れるたんなる仮象にすぎません。
私たちが対象を観察するとき、肉体に基づく感覚器官によって知覚します。
この知覚内容は身体組織の機能に依存した形で知覚されます。
眼の器官、耳の器官は複雑な機能をしているために、神経を通して脳に伝わる間に情報が変化してしまいます。ですから私達は事物をありのままに見ていないのです。
思考は、多様な現れ方をする視覚内容から得られる知覚内容を理念的に止揚統一していきます。
止揚統一を繰り返すことで、高度な概念を形成していくことになります。
一元的に考えるなら、自分の内にある概念も他人の内にある概念も深いところで同じ概念を共有しているといえます。
宗教的には、すべての人に仏性、神性が宿っており、自他はこれ別個にあらず一体なりということです。
自分の内にある概念を深く思考し掘り下げます。その後、掘り下げたその眼でもって相手の概念を見ていきます。
自分の内にある概念を掘り下げたその眼で相手の概念をも見ていくのです。
相手の概念を見たということは、相手を理解したことであり、相手を理解したということは、相手を愛したことと同じです。
愛の根拠は、すべての人に神と同じ仏性・神性というダイヤモンドを有しているからです。
そのダイヤモンドの発現の仕方は様々ですが、同じダイヤモンドを有しているということは、本質的にすべての人間は仏や神の下では兄弟といえます。
ヘーゲルやシュタイナーも概念に対して、同じ意味づけをしていると思います。
ヘーゲルは概念こそ、事物の本質であるとしました。
概念こそ、すべての自然物の本質であり、概念を掴むということは自然そのものと一体化することと同義です。
カントは物自体を認識できないという立場をとったのは、概念と存在を分けて考えたいたため、存在そのものを私達は認識できない、概念が照らし出す存在の一部分、すなわち現象しか認識できないという立場をとりました。
ヘーゲルは概念を認識することは自然そのものを認識したということであり、概念こそ物自体であるので、概念で認識できないものは何もない、これがヘーゲルの概念に対する立場です。
後世の学者で、ヘーゲル哲学を、もはや「人間の哲学」ではなく、神が人間のうちにいて思索しているがごとき、非人間的、超人間的な哲学であると、批判している人がおります。
しかし、これは人間が仏の子であることを知らず、高級諸霊の世界計画を知らない、凡庸な学者の寝言だと言えるでしょう。黄金の法 参照
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