人間と宇宙論の関係を考えてみます。
人間原理宇宙論という理論があり、人間の意識と宇宙とはお互いに依存関係にあるという考え方です。
人間が観測したとき、はじめて宇宙は実在する?といった量子力学の哲学的な側面、純粋思索から生まれた考え方です。
「宇宙は、観測者である我々人間に依存してはじめて存在する」といった、一瞬不可解に思える結論です(もちろん人間原理が全くのナンセンスと考える人の方が多いことは承知しています。)
一般的な科学的世界観によれば、この世界は客観的現実であり、たとえ観測者であるわれわれ人間が存在しなくとも、世界は厳然として存在します。
古い哲学的命題にこういう話があります。
「森の中で木が倒れましたが、あたりにはそれを聞く人が誰もいませんでした。はたして、木は倒れる音を発するでしょうか?」
この問いに対する科学的な回答は常にこのようなものでした。
「森で木が倒れたならば、必ず音を発し、大気中に音波が伝わると・・・」
しかし、量子力学では、観測されないかぎり何事も客観的には実在しないとして、この仮定に疑問を投じてくるのです。
例えは、1個の電子が粒子として、あるいは波としても観測されます。
なぜ、1つの電子が波としての性質と粒子としての性質を有しているのでしょうか。
波として観測されるか、粒子として観測されるかの違いは、観測装置をあらかじめどちらに設定するかによって決まってきます。
しかし、私たちは1個の電子が同時に波であり、粒子ではありえないことも知っています。
波は粒子ではなく、粒子は波ではないからです。
意識ある存在(人間)がどちらの実験方法を選択するかによって、1つの粒子の性質が変化します。
それは、1つの実在は観測者(意識ある存在)が実験方法を選択することによって、観測結果が違ってくるということを意味し、実在は意識ある存在に依存していることを意味します。
客観性という言葉の持つ意味を再検討する必要があるということかもしれません。
観測という行為が可能なのは唯一「意識ある存在」のみです。
つまり、宇宙は観測されなければ存在しない。そしてそれを観測できるのは、意識ある生物だけであります。
ですからそこに、生物が存在するから宇宙があるといった考え方です。
もしかしたら、物質と精神作用との間に実際的な、「共生関係」が存在する可能性が指摘できるのではないかとも思えます。
もし、大宇宙神霊意識と人間の意識が相互に影響しあうとすればどのようなことが起きるのでしょうか。
人間の考え方や想いが、大宇宙神霊意識が思われる方向性と違う方を向いていたら、宇宙全体の調和を乱すことになるのではないでしょうか。
地球は地球として独立した星というのではなく、地球に住む人類の考え方が間違ったならば、それは他の星や宇宙にも悪影響を及ぼすのかもしれません。
人間の意識あるいは思いの方向性が、神仏の目指すべき意志と一致すれば、宇宙の進歩発展と調和に貢献したことを意味すると思います。
人類の意識が神仏の願いと反対の方向を向くのであれば、個人や人類の反作用のみならず、宇宙の調和を乱す作用が働きます。
地球人であろうと宇宙人であろうと、1つの宇宙に存在する意識ある生命体は、それぞれ独立した存在のように思えますが、実は互いに影響し合う存在であるというのが、昔から語り継がれてきた宇宙樹の意味だと思えます。
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