真理を学び続け、主の説法を聞き、毎日『仏説正心法語』を唱えているような信者さんは、本人に自覚があるかどうかに関係なく、霊的感応力・霊的能力が高められていると思います。
霊的感覚が高まると本人にとってプラスとマイナス面が両極端に出てくるように感じます。
感情のブレが大きくなり、振幅が激しくなることで相手に対する好き嫌いがはっきりしてくるように感じます。
ですから、感情が高ぶっているときに、いかにして理性的にその感情をセーブするかが大切であると思います。
感情があまりにも両極端に揺れていては、天上界のご加護を得ることはないのではないかという気がします。
信者同士であれば、それほど相手に対して攻撃的な念を発するということはないと思いますが、一般社会では、相手からの悪想念や攻撃的な念を受けることは避けられませんので、この部分をどのように対処していくかが、在家信者としての難しい修行であると自分は思います。
霊能者あるいは霊体質の方が、軌道を外さないためには、人並み以上の忍耐力、自制心が必要です。
人智学シュタイナーも以下のように述べています。
『神秘修行のために、社会的な生活環境を一時的にせよ、変化させてはならない。
真の成果をえようとするならば、忍耐をもたねばならない。
最高の意味で待つことを学んだ人でなければ、神秘学徒になる資格はなく、神秘学徒を志しても、優れた成果に達することは決してないであろう。』
在家信者が霊的な修行をするということは、厳しい覚悟をもってする必要があります。
相手の悪想念を受け続けることで、自分もその影響を少なからず受けるようになり、感情が激しくブレだすと、悪霊や悪魔に狙われる可能性もあるので、不動心や忍耐力は修行者にとって自分を守る為に必要な徳目であると考えます。
現代の学問を正しい意味において学び続ける中に、理性や知性が備わり、感情を制御してくれると同時に、悪魔からも知性的な面で防御になると考えられます。
悪魔は何百年、何千年と勉強をしていないので、現代的な学問を学ぶことで、それが知性的な面で自己防衛になってくれる場合もあるかもしれません。
古い悪魔ほど経験のみで現代の学問がわかりませんから、知的に学習することである程度の自己防衛ができるものと考えます。
また、霊的感覚が敏感になることで、現実的な感覚が鈍るようでも問題があると思います。
霊的能力がほしいという性急さが焦りとなり、修行者としての自覚を忘れ、高貴、善良、物質的な現実感覚の一片でも、忘れるようでは問題であると思います。
霊的な修行が、自分の道徳的な力、内的な誠実さ、観察能力などを高めていくことにつながっていく必要があると思えます。
と同時に、霊的修行の過程において、隣人や動物に対しての同情心、自然に対する感受性をたえず高めていくことが大切だと思えます。
修行の過程で、このような努力を怠ると、同情心や感受性が失われ心情はかたくなになり、現実感覚が鈍くなると神秘学の方でも言われています。
霊的能力が高まるのと並行して、地上的な力、問題解決能力、判断能力、等を上げていかないと、思わぬところで足をすくわれることもあるので、注意点として心に留めておくべきかもしれません。
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