2017年07月23日

LEO幸福人生のすすめ より掲載 文章を書くことの意味〜清水幾太郎「論文の書き方」を再読しながら

文章を書くことの意味〜清水幾太郎「論文の書き方」を再読しながら〜1
2016-05-08の記事
http://ameblo.jp/space-people/entry-12158184257.html

論文の書き方 (岩波新書)/岩波書店

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清水幾太郎さんの「論文の書き方」を再読中。
以前は紙の本で読んだのだけれど、今回は、電子書籍で買い換えての再読です。なので、まっさらな文章を読みながら、今回は電子上でラインを引き引き読んでいます。

清水さんの思想や考え方は、渡部昇一さんに受け継がれ、それが大川隆法総裁先生へとも伝えられていっていると、清水幾太郎さんは霊言でみずから述べていました。

核か、反核か―社会学者・清水幾太郎の霊言 (OR books) -
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清水幾太郎さんも文章が上手いです。読みやすく、わかりやすい。
渡部昇一さんも上手いです。語るように書いているのだ、と渡部さんは述べていますね。
そして、大川先生の文章は最高です(笑)。


そんなこんなで、文章を書くということの意味。
名文家の人たちは、どういった点に注意して文章をつづっているのか。そうした点がとても気になります。

プロだけが書けばいいのであって、素人は文章を書く機会もないし、別に書かなくたっていいんじゃない?

などと言うことなかれ。
書いてみなければわからないことがある、というか、書くことによって理解は初めて完結するのだ、と清水さんは述べているんですよね。

清水さんは大学の授業で、学生たちに対して、課題図書を自ら選んで、それを読んだ上での感想を原稿用紙10枚で書いて提出しなさい。
という課題を、毎年、受け持った学生たちに与えていたそうです。


書物の紹介及び批評を内容とする短文を学生に課して来ている。取り上げる書物は、数種類のうちから学生自身が選ぶようにし、枚数は書物一冊につき十枚と定めている。





こうして課題を出すと、学生たちはたいてい、読んだあとで先生に、難しすぎて書けません、と言ってくるそうです。
その本よりも、もっと難しい本を読んでいる学生たちが、その本に限って、難しくて書けない、という。
それは本自体が難しいのではなく、読んだ後で書かなくてはいけないから、真剣に読まざるを得ず、しかもそれを後でどう感想にするかで悩むから、苦しく、難しく感じるのであろう。

そう、清水幾太郎さんは解説しています。


以前に読んだ時は、単純に読むだけであって、自分を通して表現するという活動を伴わなかった。精神が受身の姿勢でいることが出来た。
ところが、私の与えた課題では、書くことを前提して読むのである。自分で表現し得るように理解しなければならない。
多量の精神的エネルギーを放出せねばならず、精神は能動的な姿勢を保たねばならない。
こうなれば、童話のように易しい本でも、ひどく難かしく感じるであろう。読者が著者に近づくのである。





とあります。

単に受け身で、好きなように、気ままに読むだけだったら、楽ちんだし、
中身を理解できなかろうが、流し読みしようが、読んだふりをしようが(笑)、誰にも注意を受けないし気楽も気楽。
内容をまったくトンチンカンに履き違えて読み間違えていたり、表面的にしか読んでいなかったとしても、誰からも突っ込まれないし、批判もされません。楽です


でも、そうした楽な気分の読書、受け身の読書というのでは、精神の緊張が足りていない、とも言えるわけです。
だから、読んでる最中の真剣度が違う、というか、後で書くことを想定している人の読み方に較べたら、甘いわけです。それが結果として、読んだ後でもすぐ忘れてしまう、とか、おおざっぱな印象しか残っていない、とか。
分かった気になってるけど、いざ話させてみると、ろくすっぽ理解できていない。そういった結果になってしまっているわけですね。
まぁプロの書き手じゃないから、それでええやんか、といえなくもないけれども、せっかく読んだのに大して覚えてない、理解も浅い、というのでは、読み方自体が中途半端でもったいないですね。

清水さんは、読むだけの読書を、つぎのように解説しています。


読んでいる間は、「なるほど」とか、「そうだ」とか、心の中で相槌を打ちながら、一々判って行くけれども、また、読み終った瞬間、一種の空気が心の中に残りはするけれども、肝腎の書物の内容は、輪郭の曖昧なもの、捕えどころのないものになってしまう。日が経つにつれて、それさえ何処かへ蒸発してしまう。糸が切れた風船のように、空へ消えてしまう。





これは、自分で読んでも、本当に納得、ひじょーによくわかります。

学生時代に読んだ小説だとか、エッセイ本など、読んだ本のタイトルや作者名くらいは覚えているし、あ、この小説、面白かったよなー確か。
とまでは言えても、細かなストーリー展開は忘れてしまっていて、ひじょうにおおざっぱなイメージしか残っていないのが普通かな。
ひどい場合には、まったく中身を覚えておらず、再読すると、初めて読んだ小説のように、新鮮に読めて楽しめてしまうというね(笑)。

これをもし、当時、読んだあとに感想文を書いたりだとか、何かしらのアウトプットを目的とするような読み方をしていたら、もっと真剣に読まざるを得ずに、それゆえ記憶にももっと強く深く、刻み込まれていたのだろうな。そんな気がしますね。

いまは、どんな読書をしていても、わたしはブログで何かのテーマで書こうかな、と思いながら読んでしまうので、書くことを想定しながら読んでいます。
なので、読みながら、記事のネタを拾いながら、かつ自分なりの論点を模索しつつ読むのが日常となっています。


精神の高度の緊張の中でなければ、文章というものは書けない。それだから、私は十枚の枠を固執するのである。





学生への課題と同じで、書くことを想定させて読まざるを得ないとなると、清水さんが指摘しているように、精神は緊張状態に置かれる。その緊張状態とは、集中力でもあり、書かれた内容に対する真剣さの違い、ということでもあるかと思います。
この緊張が、単なる受け身の読書よりもいっそう深く、読み手の心に、読んだことの深い意味を読み取らせてくれることにつながる。

書くことによってこそ、読書ははじめて完成する。

清水幾太郎さんは、そう述べています。範としたい読書論であり、文章論かと思います。




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posted by ガンちゃん at 18:41 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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