仏教に限らず宗教的修行の大切さの根拠は何かと考えてみますと、霊的世界が確実に存在するという前提があります。
人間の本質をどのように位置づけるかによって、修行や努力観も違ってくるでしょう。
地上における肉体がすべてと考える人生観は、他人のことを考えない自分の欲望を満たす生き方になるでしょう。
自分自身の欲望を満たすための努力を否定はしませんが、それが、他人を傷つけるところまで行きますと、仏教が否定している執着になると思えます。
仏教の修業論は、戒・定・慧という三学であると言われています。
戒律、戒めを守り、禅定しながら智慧を得る。
また、「上求菩提・下化衆生」といわれています。
自分自身に関しては常に努力(修行)し向上を目指しながら、自分がつかんだ悟り、あるいは智慧によって、まだ真理の道を歩んでいない人達に、目覚めていただくためのきっかけを与えていく、仏教的修行論は自他一体になっています。
仏教の世界観とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、であり三宝印と言われています。
諸行無常は、この世は変転変化し、恒常不変なもの、形状が変わらないものはありません。
変化こそ真理であり、過ぎ去っていくものに、変化するものに執着することで人は苦しみをつくるという教えであると理解しています。
諸行無我は、この地上に存在するものはすべて、依存関係にあります。
原因に依存し、条件に依存しています。
分子は原子に、原子は、原子核と電子にというように、存在は、他の存在を条件として成り立っています。
また、すべてのものは自性なるもの、自らなる性質がありません。つまり地上にある存在は、実体として存在するものはありません。定義できるような本質を有するものは、地上においてありません。
それゆえに地上にあるものは、原因や条件がなくなれば、夢幻のように消えていく存在です。
これも諸行無常と同じように執着することで苦しみをつくるという教えであると思います。
涅槃寂静は、心が平和な状態、自由な境地なのでしょう。
死後の世界を知る、あるいは信じる生き方と、唯物論者の考えるように、死んだらすべてが終わりだと考える生き方では、人生の意味や努力の意味が違ってきます。
人間の本質は魂であり、生きどおしの命であるからこそ、お釈迦さまは修業論の大切さを説かれたのだと思います。
死んで終りであれば、好き勝手に生きなければ損です。
唯物論的努力とは、他人を蹴落としても自分がのし上がっていくための努力につながるでしょう。
人間の本質は魂であり、肉体は霊の影、あるいは仮の宿です。だからこそ、諸行無常・諸法無我の教えが生きてくるのではないかと思えます。
死後の世界と現実の生活は密接な関係にあると思います。
死後の世界は、地上の法律とは違った価値基準があります。死してなお永遠の命があるからこそ、霊的な価値基準に照らしながら、現実の生活を考えて生きていかなければならないと考えます。
つまり、霊的世界の価値基準から見て、地上での生き方には合格、不合格があるということです。
合格点に達することができないときは、それなりの世界におもむくことになると思います。
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