維摩経には、このような内容が書かれていたと思います。
菩薩に降りかかった花は、地に落ちましたが、大声聞たちに降りかかった花は身体にくっついて地面に落ちません。
神通力を振り絞ってこの花を地面に落そうとしても落ちません。そこで天女が大声聞に「その花を振り落としてなにをなさるのですか」と質問します。
大声聞は、「天女よ、これらの花で飾ることは、出家の身に相応しくないことですから、取り去ろうとするのです」と答えます。
そこで天女は、「この花は法にかなっています。この花のほうでは考えたり分別したりしないのに、大声聞こそが思慮し分別するからです」と答えています。
花のほうでは出家者と在家者などと分別していません。この二つの世界を区別しているのは大声聞の判断(分別)であり思惟です。
自分自身は気づいていないとしても、どこかに自惚れの心があれば、それは外に必ず表現されます。
持続して考え続けていることは、自然にその人の人品骨柄を表していきます。
仏教的世界観では、感覚的なものは幻であるという見方(空観)がありますが、その中で人は、何を善と考え何を美と考え、どのような価値観を持ち続けるかによって、人柄を形成していくと思います。
その様な意味で、考え(あるいは思い)こそ、私自身であると言えます。
仏教的な空の世界観は地上に対する執着を断つという意味で大切な考え方であると思います。
過去・現在・未来を通して恒常であり、それ自身として他のものに依存することなく自立的に存在する本体とは、人間の思惟の世界における概念としてしか存在しません。
現に存在するものは、各瞬間に変化する無常なものであり、他の多くのものを原因として、他のものに依存してのみ現象する、他律的なものであります。
空の世界観を深いところまで認識できなくても、知識として知っているだけで、慢心したり自惚れたりする気持ちを断つことができるかもしれません。
仏典に書かれていますが、あらゆるものには本体がなく、その意味で、ものは空です。
幻術師がつくり出した幻が、どれほど大きな光景であり、千変万化しようとも、本体としては存在しないのと同じであります。独自の性質を持たない無自性なものです。
しかし、すべてのものが『空』であるからといっても真理は実在です。
仏典から引用すれば、「教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみに打ち勝つ。」と書かれています。
真理を伝えることは、すべてにおいて善であります。
目に見えない真理を伝えるとういことは、自分自身の人格を向上させていくことでしょう。
自分の話を聞いてくれて、相手が真理の世界に入るきっかけになったのであれば、自分自身もうれしいものです。
自分自身の考え方や価値判断が、やがて魂の傾向性になっていくでしょう。
持続的に考えていることは、その自身の人柄としてあらわれて他の人に影響を与えていきます。
空の世界観を受け入れ執着を断ち、真理をまなび続けることで、人柄がよくなっていくことでしょう。
それは、周りの人に良い影響を与えることができるということです。
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