ナグ・ハマディ写本 白水社を読んだ私の考察になります。
幸福の科学の公式見解とは違いますのでご了承ください。
(黄金の法講義は参照しています。)
ナグ・ハマディ(町名の英語読み)で発見された福音書があります。
この福音書の一つに『ピリポ福音書』というものがあります。
これは、現代正統派としての新約聖書の記述とはだいぶ違う内容のようです。
「・・・〔救い主〕の伴侶はマグダラのマリア〔である〕。
〔しかしキリストは〕彼女を〔どの〕弟子よりも〔愛した〕。そして彼は、彼女の〔口〕に〔しばしば〕接吻をした。他の〔弟子たちは感情を害し〕・・・彼に言った
『なぜあなたは私たちすべてよりも彼女を愛するのですか』。
救い主は彼らに答えて言った。
『なぜ私は彼女を〔愛する〕ようにおまえたちを愛さないのであろう』」
明らかに、イエス様の伴侶はマグダラのマリアと書かれています。
マグダラのマリアは娼婦だということで、社会的地位は低かったのかもしれません。
ですから、新約聖書を整理する段階で、マグダラのマリアを除外し、イエス様の母親であるマリア様を聖母マリアということで前面に立てたのでしょう。
正統派の福音書としては、「マタイ福音書」「マルコ福音書」「ルカ福音書」「ヨハネ福音書」の四つの福音書がありますが、実際、それ以外にマリアの福音書、トマスの福音書、上記で書いたピリポの福音書等、多数の福音書があるようです。
正統派から除外されたグノーシス(知識という意味)主義者は、復活を文字通り受け取る見解を「遇者の信仰」であると呼んでいます。
大事なことは文字通りに見るということではなく、霊的にみることです。
彼らの亡き師が生き返ったと宣言した人々は、霊的真実と実際の出来事を混同している。と述べています。
ですから、イエス様の復活に関して、真実は霊的復活現象を物質的な現象と混同して考えた人々がいたということでしょう。
グノーシス派の教師が弟子に書いた手紙『復活論』がナグ・ハマディで発見されていますが、その中で次のように書かれています。
「復活を幻影だと思ってはならない。それは幻影ではなく実在するものである。むしろ、この世が復活よりも幻影なのだ、と言われるべきであろう」と述べています。
さらに、通常の人間の存在は霊的には死にあたると説いています。
これは仏教的世界観、空の思想に通じるものがあります。
復活とは覚醒のときであり、真に存在するものがあらわになることで・・・新たなる存在への転移(移行)だからであると書かれています。
どのような意味があるのでしょうか。
真に存在するものがあらわになるということは、イエス様が肉体を脱ぎ捨て、霊的実在(存在)に移行したという意味だと解釈します。
『ピリポに送ったペテロの手紙』もナグ・ハマディで発見されていますが、イエス様の死後弟子たちが、オリーブ山で祈っているときの話が記されています。
「大いなる光が現われ、その結果、現れた者のところから山は輝いた。そして、一つの声が呼びかけて言った、『聞きなさい・・・私はイエス・キリストであり、あなたがたとともに永遠にいる者である。』」
彼らの前に現れた救世主イエス・キリストは、元の姿ではなく、見えざる霊として現れたようです。
そして、その容貌は大いなる光の天使の容貌であったと書かれています。
光り輝く存在として現れたと同時に、自身をさまざまな型に変容していたと『ピリポ福音書』にも書かれているようです。
「イエスは彼らすべてをひそかに連れて行った。なぜなら、彼は実際そうであったように示さず、彼らが彼を見ることができるように示したからである。
彼は自分自身を彼らすべてに示した。彼は自らを大きい者には大きい者とし・・・小さい者には小さい者として現した。
イエスは、未熟な弟子には子供として、一方、円熟した者には知恵の象徴である老人として現れた。」
グノーシス派の教師が述べているように、各人はその人自身の仕方で主を認め、その仕方は同様ではないのである。と書かれています。
これは、どう考えてもベガの人達の能力であるとしか思えません。
各人が見たいと思うとおりにイエス様が見えるということですから、このような能力の持ち主はベガの人達以外に考えられません。
ですから、弟子たちは霊的に復活したイエス様を目撃しましたが、その他多くの人達(民衆)は、いろいろなイエス様の姿に変化した、ベガ星人を目撃したのではないでしょうか。
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