2017年03月21日

獣の世界に近づく人間世界を救えるのは慈悲の光

獣の世界に近づく人間世界を救えるのは慈悲の光


獣の世界とは、闘争と破壊が繰り広げられる世界です。
お互いに相手を食いあい、常に恐怖が支配する世界のことを言います。

獣の世界に近づいたこの世界を、どうしたら神仏の正しさが支配する世界に戻すことができるのでしょうか。

そのためには正しい宗教の教え、法を広げていく必要があり、霊的世界を信じ、神仏の存在を信じる信仰心を持った人たちの力が必要です。

幸福の科学の教えは多岐にわたり、一言でまとめてお話しするのは難しいかもしれませんが、仏教的な教えがベースであると自分は思っています。

現代の四正道である、愛・知・反省・発展のなかで、知の部分は仏教的な智であると考えています。
もちろん、それ以外にも知に含まれるものは、政治や経済・科学、歴史等、知の範囲は限りなく広がりますが、人間の魂を向上させる教えという意味では、仏教的教えが中心であると自分は考えています。


基本的に仏教の修行は自力で、戒・定・慧の三学であると言われています。
戒律を守る過程で自分の日常生活の在り方を律していきながら、禅定を通して自分の心を落ち着け、霊天上界との交流をはかり、智慧を得る。
戒も定も最終的には智慧を得ることが目的であり、この世的な束縛やとらわれから自由になり、その結果、解脱をすることが可能であるといわれています。
真実の自由とは実在界のおける価値観を体現した自由であり、自分が真実解脱したことを知る解脱知見があると教わっています。

この地上は相対的な世界であり、相互依存で成り立っています。
あるいはお互いの関係で成り立っており、それ自体の性質からなるものはありません(無自性)。

ナーガールジュナの『中論』には、不浄と淨についての説明として、「淨と不浄とがそれぞれ自身の本質(自性)を持つならば淨は不浄を離れても存在し、不浄とは淨とは独立に不浄として存在するであろう。しかし、淨も不浄も自然的存在のありかたであるから、独立に存在することは不可能である。」
両者は互いに無関係ではありえず、互いに他を予想して存在しています。
淨は不浄によって淨であり、不浄は淨によって不浄である。
したがって両者は独立には存在しているとはいえません。すべてはお互いに相互依存で成立しています。

私達は、感覚器官を通して物質的なものを実在と思い、実体があると考えています。
しかし、実体性とはしょせん、限定されたものにすぎません。
物質的なものが未来永劫続いていくものではありません。
ある限られた時間の範囲で存在するだけです。
どこまでも限られた意味において実在するのであり、すべての存在には滅びが内包されています。

このように、空の思想をもって、あるいは『諸行無常』『諸法無我』を説くことで、地上に対する執着をなくしていくようにします。
地上に対しての執着がなくなることで、自分さえよければいいというような共食いは、なくなっていくことでしょう。


四正道の『愛』とは、キリスト教的なる愛とヘルメス的な愛が合体した『愛』であると思います。
無我なる愛と言えるかもしれません。

この愛に、先ほどの仏教的な智慧が融合して、『慈悲』に昇華されると思います。
慈悲とは、愛と智慧の結晶であると考えます。

仏教の根本命題は「上求菩提・下化衆生」であり自分の悟りが高くなるほど救済力が高くなり、影響力も増してくると教わっています。

愛と智慧の融合が上求菩提に対応し、慈悲が下化衆生に対応していると思います。

『仏陀・悪魔との対話』岩波文庫には伝道に関して次のようなことが書かれています。
「尊い方!尊師は教え(真理)をお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは、教えを聞かなければ退歩しますが、[聞けば]真理を悟る者となりましょう」。

伝道する対象を選別しています。
慈悲とは基本的に全ての人が救いの対象なのでしょうが、優先順位をつけて、合理的に伝道の対象者を絞っています。


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posted by ガンちゃん at 00:50 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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