ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァッキーの神智学、ルドルフ・シュタイナーの人智学、神秘思想、等、霊的世界に参入しようとする人たちは、厳しい修行が要請されます。
「力はそれを知るものに帰属する」という格言があります。
ソクラテスの「汝自身を知れ」あるいは「知は力なり」という言葉に通じるものがあると思いますが、真理を正しく理解する力、本物と偽物を見抜く力、あるいは、本質を見極める力、これらは修行者にとって大切なことであると思えます。
真理の道を志す、あるいは修行途中である私たちの最初にすべきことは、正しく真理知識を学ぶということであると考えます。
あえて正しくと付けたのは、同じ真理を学んでも理解力によって、同じように理解しているとは限らないからです。
社会経験や魂の傾向性、前世の努力精進、あるいは学ぶ姿勢によって、同じ真理を学んでも正しく理解する人、間違って解釈する人、まったく理解不能な人、いろいろだと思います。
ブラヴァッキーの著書やシュタイナーの著書を読むにつけても、霊的世界に参入しようとする修行者たちは、相当、己に厳しくないと危険であるという印象を受けます。
神の世界に踏み込もうとするわけですから、中途半端な気持ちでは、‘やめときなさい’ということなのでしょう。
仏教的には、戒・定、慧の三学と解脱・解脱知見ということになると思います。
戒律を守る意志の力、禅定を通して物質的波動を遮断し霊的世界に通じる心の状態、霊的世界観、霊的法則に裏付けられた智慧、智慧を使って地上的悩みや束縛から自由になる解脱、解脱した自分を自覚する解脱知見(五分法身、仏になるための五つに分かれた修行のカテゴリー)
このような修行を通して、一定の自己確立や不動心ができたとき、はじめて師は秘儀を伝授するのではないかと思います。
ですから、真理を広げるためだと言って、考えなしにすべて公の場に情報として流すことは間違いだということです。
ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァッキーは「そして許さる範囲を超えてその秘密を開示する者すべてに対する罰則は恐ろしい」と述べています。
また、「話してはならないことは沈黙を守る」とも述べています。
なぜなのでしょうか。
あまり深く考えない浅はかな人は、たぶんこのように考えるのでしょう
「真理あるいは仏法、それ自体は正しい教えである。自分には深くわからないとしても、教えを多くの人に伝える(情報として対象者を選ばず無差別に流す)ことは正しい行為である。」
これは半分正しいことであると思いますが、半分は間違っています。
なぜなら、真理をまったく理解しない人、宗教をなめている人、左翼系の偽知識人、唯物論者、等、対象者を選ばず、情報を流すということは、誤解を生み真理が冒涜される可能性があるからです。
宗教としての秘儀の部分、奥義を自分が深く理解していないにも関わらず、情報として簡単に一般公開することは罪であると私も思います。
言葉は悪いのですが、猫に小判・豚に真珠、あるいはその猫や豚が振り向いて噛みついてくるかもしれません。(聖書にも似たような比喩が書いてあると思いました。)
そして、その情報と言いますか、内容に対して質問あるいは批判的コメントがきても、自分の言葉で反論すらできない始末です。
自分で理解していないので、質問あるいは批判に対してまったく言い返すことができず無視する以外にありません。
情けないと言えば情けないです。
自分の言葉で何も言えないのですから。
修行が正しく進んだ場合(正精進)その人は、他の人達に対して一定の影響力を持つようなると思います。おそらく、それが修行の成果であると考えます。
その人から優しいオーラが出ている、人から信頼され相談される、発言に説得力があり影響力がある等、周りに対して良い影響を与えることができるようなった時、それは神仏に向かって正しく修行が進んだということでしょう。
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